今後のイスラエル〜詩篇120篇

 昨日、イスラエル国家の撲滅を信条とするハマスの代表者が暗殺されたとの報道がなされました。これによって和平のプロセスが遠のいたとの論評がなされています。ただ、そうとは限らない面もあるのかと思います。

 昨日のTBSの報道で、ハマスの最高指導者ハニヤ氏の純資産額が6000億円と敢えて報じられ、安全なカタールを拠点にプライベートジェット機で移動しているようすが報じられたことは、パレスチナ難民の問題の闇を現わしてくれているかと思います。

 残念ながら、伝統的に、パレスチナ自治区の指導者は大変な資産家となっています。ある意味で、彼らこそ、戦争で資産を築き上げている人とも言えるかもしれません。
 パレスチナ難民による自治政府が、難民の代表者として難民を守っているのなら、イスラエルも安心して彼らと交渉できます。
 しかし、今回暗殺されたハマスの指導者のように、イスラエル国家の撲滅を叫んで私腹を肥やしているような指導者を相手に、真の平和の交渉ができるのでしょうか。
 確かに、短期的には、交渉相手がいることが停戦にとって何よりも大切ですが、長期的には、何よりも必要なのは、パレスチナ難民の痛みを自分の痛みとして、自分の資産を蓄える代わりに、自分の身や富を犠牲にできる指導者の存在です。
 日本人の感覚からしたら、自分の同胞が飢え苦しんでいる中で、六千億円の資産を蓄えて安全な外国に住む指導者をどうして信頼できるのかと思います。
 
 残念ながら、パレスチナの最大の悲劇は、国民意識が乏しく、民全体の平和を願う指導者が生まれないことにあるとも言えましょう。
 イスラエルという国も問題に満ちていますが、それ以前にパレスチナの自治政府の難しさにも目を向ける必要がありましょう。

 詩篇120篇に現在の問題の原点を見ることができます。

「平和を憎む者に囲まれて」

 詩篇120篇から134篇には「都上りの歌」という標題があり、一組の詩篇として歌われてきました。それらは異教世界に離散して住んでいる神の民がエルサレム神殿への巡礼の旅の際に用いられたのだと思われます。
 
 私たち異邦人に対しても預言者イザヤは、「終わりの日に……多くの民族が来て言う。『さあ、主 (ヤハウェ) の山、ヤコブの神に家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。』それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主 (ヤハウェ) のことばが出るからだ……さあ、私たちの主 (ヤハウェ) の光のうちを歩もう」(2:2–5) と語っています。
 それは私たちにとって、弱肉強食の競争社会の中でうめきながら、天の「新しいエルサレム」が地に下ってくることを待ち望みつつ、主の日の礼拝に上って行くことにも適用できましょう。

 最初の文は、「主 (ヤハウェ) に向かって、私の苦しみの中で叫ぶ、主が答えてくださるようにと」と訳すこともできます。
 続く文書も原文の語順では、「主 (ヤハウェ) よ 救い出してください 私のたましいを 偽りの唇 欺き舌から」(2節) と記されています。
 
 著者は、「平気でうそをつく人たち」に取り囲まれながら、そこから「救い出される」ことを必死に願っています。これはたとえば、どこにスパイが潜んでいるか分からない独裁国家で生きざるを得ない不安にも似ています。
 現在の日本でも、「正直に自分の気持ちを言うと、とんでもない非難を受けそうで、本音が言えない……」という恐れの中で生きる場合があることでしょう。そのような場から救い出されることを願った祈りです。

 そのような中で、「欺きの舌」に対し、「おまえに何が与えられ おまえに何が加えられるだろうか。勇士の鋭い矢 そして えにしだの炭火だ」と、神のさばきが宣言されます (3、4節)。
 これは「死の武器」としての「燃える火矢」によって「欺き」や偽り」が一掃されることを願ったものですが (7:13参照)、そこに神の平和が始まります。

 さらに著者は、「ああ 嘆かわしいこの身よ メシェクに寄留し ケダルの天幕に身を寄せるとは」(5節) と自分が置かれた状況を嘆いています。
 メシェクとは現在のトルコの東北部、ケダルとはアラビア砂漠に住む遊牧民で、両者とも争いを好む民族の代名詞的な意味がありました。

 そのことが「この身は 平和を憎む者とともにあって久しい」(6節) という嘆きとして表現され、そこで起こる悲惨が、「私が 平和をーと語りかければ 彼らは戦いを求めるのだ」(7節) と記されます。
 「平和」とはヘブル語のシャロームの訳で、それは戦いがないこと以上に、すべてが整って欠けがない神の国の完成の状態を指します。
 それは、私たちが創造主のもとにある世界の完成への憧れを表現すると、「何をとぼけたことを言っているのか。そんな理想ばかりを言って、生きて行けると思っているのか」と、論争を仕掛けられる葛藤に似ているとも言えましょう。

 ヘブル書では信仰者の歩みが、「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました」(11:13) と描かれています。
 私たちもこの異教社会の中で、キリストの苦難を味わいながら生きますが、神はシャロームの完成の世界へと導いてくださいます。

〜祈り〜
主よ、私たちは真の平和(シャーロム)に渇いています。理想からほど遠い弱肉強食の競争社会の中で、それに同調しないこの地の寄留者としての歩み、また、「新しいエルサレム」に向かう巡礼者としての歩みを、私に全うさせてください。