エレミヤ4章5節~6章30節「これでは、どうして、あなたを赦すことができるだろうか」

2024年5月12日

ヴィクトール・フランクルというユダヤ人の精神科医は、ナチスドイツの強制収容所で、寒さに凍えながら強制労働に駆り立てられていました。そこでふと、愛する妻の面影を思い浮かべ、空想の中で彼女と対話し、彼女の微笑を見ることができました。そのとたん、彼は、彼女の眼差しの中で、人間の存在の意味を、「愛による、そして、愛の中の被造物の救い」であると悟ります。そして、「愛は死のように強い」という雅歌8章8節のみことばの意味が理解できたと書いています。それは伴侶でなくても、父でも母でも、またその他の大切な方の面影でも同じでしょう。人はだれかを愛することで、人生を輝かせることができます。

1.「主 (ヤハウェ) の燃える怒りが、私たちから去らないからだ」

4章5節から6章30節までがいつの時代にあった預言かは分かりませんが、これは一つのまとまりと考えられます。最初にユダの国中に向け、「集まれ。城壁のある町に逃れよう」(4:5) と呼びかけられます。それは主(ヤハウェ)が、「わたしが北からわざわいを、大いなる破滅をもたらすからだ」とご自身で予告しておられるからです。そして「獅子はその茂みから立ち上がり、国々を滅ぼす者はその国から出て来る」とは、バビロン帝国が北から迫っていることを指します (4:6、7)。なお、その軍隊を動かしておられるのは主ご自身であるからこそ、「粗布をまとって悲しみ嘆け。 (ヤハウェ) の燃える怒りが、私たちから去らないからだ」(4:8) という悔い改めの祈りが命じられます。「主 (ヤハウェ) の燃える怒り」というのは、聖書を貫くテーマです。

主(ヤハウェ)は「十のことば」で、「あなたは自分のために偶像を造ってはならない……それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。わたしはヤハウェ、あなたの神、ねたむ神である。わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし……」(出エジ20:4、5) と言われましたが、主の燃える怒りは、この「ねたみ」から生まれます。それは主の燃える愛と表裏一体です。雅歌の作者は、愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません」(8:6、7) と語っています。多くの人の道徳観念からしたら、偶像礼拝と殺人を比べたら、殺人のほうがはるかに重い罪でしょうが、主は違った見方をされます。たとえば、あなたが殺人の罪を犯して刑務所に入ったとしても、あなたの伴侶は哀れみの心をもって訪ねて来るでしょう。しかし、あなたが別の異性に浮気していると分かったら、あなたは伴侶の哀れみを期待することはできません。「愛」とは抽象的な概念ではなく具体的な交わりです。愛とは情熱です。それを裏切る者には「燃える怒り」が向けられます。それは、私たちとの親密な交わりを求める情熱の現れです。愛の反対概念は、「怒り」ではなく無関心です。主は親が子を待つように、燃えるような思いでご自身に背を向けた者が立ち返るのを待っておられます。

そのような中でエレミヤは、「ああ、主 (アドナイ) ヤハウェよ。まことに、あなたはこの民とエルサレムを完全に欺かれました─『あなたがたには平和が来る』と言われたのに、剣が私の喉に触れています」(4:10) と率直に自分が感じている疑問を投げかけます。それに対して主は、ご自身のさばきを、「荒野にある裸の丘から、熱風は、娘であるわたしの民のほうに吹く」(4:11) と表現します。その風は、「ふるい分けるためでも、より分けるためでもない」とあるように農作業に役立つような風ではなく、逃れようのないさばきをもたらす「激しい風」です。主のさばきは、「ねたみ」から生まれるからこそ「熱風」で表現されます。ただ同時に、主はご自身の怒りの対象を、「娘であるわたしの民」と、あわれみの対象としても表現しておられます。

4章14節以降で、主(ヤハウェ)は「エルサレムよ。救われるために、悪から心を洗いきよめよ。いつまで、自分のうちによこしまな思いを宿らせているのか」と訴えます。続いてイスラエルの北の防衛都市のダン、またかつての北王国の中心エフライムの山からバビロン軍が迫っているとの緊急の連絡が来るようすが描かれます (4:15)。彼らはユダの町々を包囲しますが、その理由が「ユダがわたしに逆らったからだ。あなたの生き方と……行いが、あなたの身にこれを招いたのだ」(4:17、18) と自業自得であると言われます。

それに対しエレミヤは、「私のはらわた、私のはらわたよ。私は悶える。私の心臓の壁よ。私の心は高鳴り、私は黙っていられない」(4:19) と述べます。彼は民の悲惨を自分の痛みとしています。ただ後に主が「わたしのはらわたは彼(エフライム)のためにわななき……彼をあわれまずにはいられない」(31:20) と言われるように、それは主ご自身の葛藤でもあります。なお「旗」と「角笛」は敵軍の攻撃の象徴でした (4:21)。

さらに主(ヤハウェ)は、「実に、わたしの民は鈍く、わたしを知らない。愚かな子らで悟ることがない。悪事を働くことには賢く、善を行うことを知らない」(4:22) と言われます。私たちも、この世を生き抜く上での「賢く」あることばかりを身に着けようとして、最も大切な真理を忘れてはいないでしょうか。

さらに来るべき悲惨が「私が地を見ると、見よ、茫漠として何もなく、天を見ると、その光はなかった」と描かれます (4:23)。これは世界が原初の不毛な状態に戻るイメージです。それは主の「燃える怒り」(4:26) のためですが、その際、「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない」(4:27) と言われ、ここに希望が見られます。しかし同時に「このため地は喪に服し、上の天は暗くなる。わたしが語り、企てたからだ。わたしは悔いず、やめることもしないと、さばきが避けがたいことも示されます (4:28)。そしてエルサレムに向かい、「踏みにじられた女よ。あなたはいったい何をしているのか。緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたて、目を塗って大きく見せたりして、美しく見せても無駄だ。恋人たちはあなたを嫌い……いのちを取ろうとしている」(4:30) と、彼らが偶像を拝む人々によってかえって虐げられ、殺されると言われます。この世の偶像は、私たちの肉の願望を叶える神々として自分を表します。偶像礼拝とは自分の欲望を神にすることに他なりません。そして人の滅亡は、常に、自分の欲望の奴隷になることに始まります。

2.「これでは、どうして、あなたを赦すことができるだろうか」

5章1節で主(ヤハウェ)はエレミヤに向かい、もしも、だれか公正を行う、真実を求める者を見つけたなら、わたしはエルサレムを赦そう」と言われます。これは主がソドムとゴモラを硫黄の火で滅ぼす前に、アブラハムに「正しい者」が十人だけでもいたら、町を滅しはしないと言われたことを思い起こさせます (創世記18章)。2節以降はエレミヤの応答で、彼はエルサレムの民の偽善を、「彼らが、主 (ヤハウェ) は生きておられる、と言うからこそ、彼らの誓いは偽りなのだ」と語ります。そして、「主 (ヤハウェ) よ。あなたの目は真実に届かないのでしょうか」(5:3) とは、逆説的に、主は彼らの偽善を見抜かれるという思いを表現したものと言えましょう。しかも、彼らの心はあまりにも頑なになっていた姿が、主が「打たれたのに、痛みも」せず、主がエルサレムを消耗させても、矯正を受けることを拒みました」(私訳)、また、「顔を岩よりも硬くして、立ち返ることを拒みました」と描かれます (5:3)。多くの人は「打たれ強く」なることを求めています。しかし「懲らしめ」を受けても「痛い!」と感じなくなってしまっては、人は変わりようがなくなるのです。「強い心」とは、無感動になることではなく、ナイーブなほどに物事に反応しながら、「しなやか」であることではないでしょうか。

5章4節でエレミヤは、エルサレムの現実を、「彼らは、卑しい者たちにすぎない。しかも愚か者だ。主 (ヤハウェ) の道も、自分の神のさばきも知らない」と嘆きます。しかも、「身分の高い者たち」が、「主 (ヤハウェ) の道も、自分の神のさばきも知っている」と期待したのですが、「彼らもみな、くびきを砕き、かせを断ち切って」、主からの「矯正」を受け入れられなくなっていたというのです (5:5)。そこで主は、「これでは、どうして、あなたを赦すことができるだろうか」(5:5) と言われます。さらにご自身の葛藤を「わたしが彼らを満ち足らせると、彼らは姦通し、遊女の家で身を傷つけた」(5:7) と述べ、彼らの問題を「肥え太ってさかりのついた馬のように、それぞれ隣の妻を慕っていななく」と描きます。彼らは、刺激や興奮などの快楽ばかりを約束するカナンの神々を慕うようになっていました。これはまるで、夫の愛を受けて何の不自由もない生活をできるようになった妻が、その恵まれた生活を退屈に感じ、夫を「捨ててしまう」行動です。そして、主はそのような彼らの背信に対し、「このような国に、わたしが復讐しないだろうか」(5:9) と語っておられます。

ただ5章10節で、主はご自身が遣わす北からの敵に対し、「ぶどう畑の石垣に上り、それをつぶせ。ただ、根絶やしにしてはならない(5:10) と、その攻撃に制限を加えておられます。ところがイスラエル民は、「主 (ヤハウェ) を否定し」、主は何もしない。わざわいは私たちを襲わない。剣も飢饉も、私たちは見ない」(5:12) と言っていました。しかも続く、「預言者たちは風になり、彼らのうちにみことばはない」(5:13) との表現は皮肉です。ヘブル語の「風」は「霊」とも訳されますが、預言者のうちに神の霊は働かなくなり、神のことばを語ることもできない、無益な「」のようになっていました。それに対し、「万軍の神、主 (ヤハウェ) 」は、エレミヤの「口」においたご自身の「ことば」を「火」とし「彼らを焼き尽くす」と言われます (5:14)。そして「遠くの地から一つの国を来させる……それは古くからある国……その言語をあなたは知らず……聞き取れない」と、アブラハムの時代以前からあったバビロン帝国が復興され、攻め寄せることが描かれます。彼らは自分たちが理解できる神のことばを退けた結果、理解できないことばを話す異教徒の国に滅ぼされるのです。

しかし、ここで再び主は、「わたしはあなたがたを滅ぼし尽くすことはない」(5:18) と言われます。それは、主がダビデに「あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(Ⅱサムエル7:16) と約束されたからです。そして残された民から、「われわれの神、主 (ヤハウェ) は何の報いとして、これらすべてのことを……したのか」と尋ねられるなら、「あなたがたが、わたしを捨て、自分の地で異国の神々に仕えたように、あなたがたは自分の地ではない地で、他国の人に仕えるようになる」と答えるように命じられます (5:19)。主の民は後にこれを繰り返しながら、アブの月(現在の7月か8月)の9日に神殿の崩壊を悲しみ、断食をし、哀歌を朗読したと言われます。イスラエルの民はこの預言の故に、バビロン捕囚をイスラエルの神ヤハウェの敗北と捉えずに、主に立ち返ることができました。彼らはエレミヤの預言の故に、後に神に立ち返ることができたのです。

しかしこのときのイスラエルの民は、「目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない」(5:21) という状態でした。それで主は、ご自身の創造のみわざを、「わたしは砂浜を海の境とした。それは永遠の境界で、超えることはできない。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない」(5:22) と描きます。「砂」はすぐに崩れそうなものの象徴ですが、主はそのような弱いものを通して、海の脅威からイスラエルの地を守っておられます。しかし彼らはそれを理解しようとせずに、「さあ、私たちの神、主 (ヤハウェ) を恐れよう。主は大雨を、初めの雨と後の雨を、時にかなって与え、刈り入れのために定められた数週を守ってくださる」と言おうともしませんでした (5:24)。それは何よりも、イスラエルの指導者たちの罪で、「彼らは、肥えて、つややかになり」ながら、「孤児」や「貧しい者たち」などの社会的弱者を抑圧していました (5:28)。主は、「これらに対して、わたしが罰しないだろうか……復讐しないだろうか」と警告します (5:29)。

ところが、ユダの指導者たちの姿は、「預言者は偽りの預言をし、祭司は自分勝手に治め」ていながら皮肉にも、「わたしの民はそれを愛している」という状態にありました (5:31)。残念ながら、多くの人は恵みよりも、力による脅しの方に敏感に反応します。優しい指導者の前で人はつけ上がり、脅しをかける者の前では萎縮し、服従をする、それこそが奴隷根性と呼ばれます。しかもそれによって国がまとまることがあるという皮肉が描かれています。しかし、主はそのような支配体制を悲しんでおられるのです。

3.「彼らは……民の傷をいいかげに癒やし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている」

6章の初めで、エレミヤは自分の部族「ベニヤミンの子ら」に向かって「エルサレムの中から逃れ出よ」と語りかけます。「テコアで角笛を吹き」とありますが、そこはエルサレムから南に18kmぐらいにある町で、「吹く」という動詞は、テコアと同じ語根です。「ベテ・ハ・ケレム」も南の町だと思われますが位置は不明です。難攻不落と思われたエルサレムから「逃れ出よ」とのしるしを南の町々で出すようにとの勧めは、エルサレムが北からの攻撃に耐えられないということを示すものでもあります。続く「娘シオンよ、おまえは麗しい牧場にたとえられるではないか」(6:2) の原文は翻訳が困難ですが、その麗しい牧場が、「羊飼いたち」と呼ばれる北の王たちに狙われていると解釈できます (6:3)。そして偶像礼拝者である彼らが、皮肉にもシオンに向かって聖戦を布告せよ」と呼びかけますが (6:4)、これは主ご自身のさばきを示唆します。「ああ、残念だ。日が傾いた……」(6:4) とは、エルサレムを滅ぼすのに待ちきれない気持ちを表わしたものです。当時は、夜の間の戦いは異例でしたが、彼らは一気に滅ぼそうと気がはやっているというのです。

6章6節では「万軍のヤハウェは」と敢えて描かれながら、主は「木を切って、エルサレムに向かって塁を築け。これは罰せられる都。その中には虐げだけがある。井戸が水を湧き出させるように、エルサレムは自分の悪を湧き出させた」(6:6、7) と呼びかけていると記されます。そればかりか主は「エルサレムよ。懲らしめを受けよ」と、苦しみを正面から受け止めるように勧めます。それは当時の指導者たちが、民衆に勝利の幻想を与えていたからです。しかし彼らは、民衆を楯にして自分を守ろうとしていただけでした。

そのような中で、「万軍のヤハウェ」はエレミヤに「ぶどうの残りを摘むように、イスラエルの残りの者をすっかり摘み取れ」(6:9) と命じます。それは主に希望を持つ「残りの者」を集めるようにとの勧めです。ところが彼は「私はだれに語りかけ、だれを諭して聞かせようか……彼らの耳は閉じたままで……主 (ヤハウェ) のことばは……そしりの的になっている……主 (ヤハウェ) の憤りで私は満たされ、これを収めておくのに耐えられない」(6:10、11) と言わざるを得ません。彼は主の憤りを溜め込んで苦しんでいるのですが、主は「それを、道ばたにいる幼子の上にも・注ぎ出せ」と言われます (6:11)。彼らは優しく言っても聞こうとしないからです。

6章13節では、その原因が「身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているから」と言われます。その特徴は、彼らが「わたしの民の傷をいいかげんに癒やし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている(6:14) ことにありました。それは、癌に侵されている身体に痛み止めを打って、「もう大丈夫!」と言うことに似ています。「痛み」は、身体の内側に何かが起こっていることを知らせるための神が与えてくださったサインです。それは火災報知機が鳴っているときに求められることは、誤作動かどうかを確認する前に、火元がどこにあるかを慎重に確認することなのと同じです。たとえば、家族関係の隠された問題が、弱い子どもに表れることがあります。そのとき、「問題なのは、あの子だけで、あとはみんな平和に満たされています」などという親がいたとしたらどうでしょう。親が光に照らされている中で、子どもが親の影を引き受けて苦しんでいるという家庭があります。それはどのような共同体の中でも起き得ることです。代表者が社会的には評価される陰で、組織の内側では隠れた派閥争いが進行しているなどということもあり得ます。その問題が、「彼らは忌みきらうべきことをして、恥を見たか。全く恥じもせず、辱めが何であるかも知らない」(6:15) と描かれます。問題がありながら、また自分で問題を起こしながら、それに何の葛藤も感じないことほど恐ろしいことはありません。しかし、主は時が来たらそれを顕わにされるということを、「彼らは……自分の刑罰の時に、よろめき倒れる」と言われます。この世で強い人と呼ばれる人は、しばしば、人を傷つけながら、自分は平安を味わっているからです。

6章16節で主は、「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ」と言われます。これは、モーセの教えに立ち返ることの勧めですが、「彼らは『私たちは歩まない』と言った」と、その勧めを軽蔑したことが記されています。また主は、「見張りを立て、『角笛の音に注意せよ』と命じたのに、彼らは『注意しない』と言った」と記されますが (6:17)、これは彼らが、主が遣わされた預言者のことばに耳を傾けようとしなかったことを指しています。一方で主は、彼らの見せかけの敬虔さを、「いったい何のために、シェバから乳香が、また遠い国から香りの良い菖蒲が……来るのか……あなたがたのいけにえはわたしには心地よくない」(6:20) と非難します。

6章22、23節で主は、来たるべき悲惨を具体的に述べられます。それに対しエレミヤは、「荒布を身にまとい、灰の中を転げ回れ」と、主のあわれみを必死に請うようにと訴えます (6:26)。絶体絶命のときに必要なのは、解決策を考える前に、ただ主にすがることです。さらに主はエレミヤに、「わたしはあなたを……民の中で、試す者とし、城壁のある町とした。彼らの行いを知り、これを試せ」(6:27) と、指導者たちが聞きたがらないことを語り続けるように命じました。そのような中で、彼は、イスラエルの堕落の現実を、精錬の効果がないほどに救いがたいものであることを認識し、彼らを「捨てられた銀」と呼ばざるを得ませんでした。それは (ヤハウェ) 彼らを捨てられたから」と記されます。彼らの問題は、痛みを感じるべきところで感じられなくなったことにあります。しかし、主は、彼らを完全に諦めたわけではありませんでした。

彼らは中途半端な苦しみでは立ち直りませんでした。それで主は彼らを絶滅寸前に至るまで苦しめ、それによって彼らが主に立ち返るように仕向けたのです。これはしばしば、依存症の治療で言われることです。ある母親が、アルコール依存の息子の治療に関わって、医者から、彼がとことん苦しむのをただ黙って見守るようにと命じられました。それまで、息子に厳しく言いながら、結局は、困ったときに助けていたことが悪循環につながっていたということが分かったからです。母親が、その体験を通して、「私が何よりも辛かったのは、息子が苦しんでいるのをただ見ながら、助けの手を差しのばすことが禁止されていたことだった」と言っています。人との関係で、私たちにもそのようなことがあり得ます。ただ、苦しむのをじっと見ざるを得ないことは本当に苦しいことです。主ご自身もその気持ちを「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」(ホセア11:8) とご自身のお気持ちを表現しておられます。

私たちは自分の心の醜さに唖然とすることがあるかもしれません。生真面目なメランヒトンに宗教改革者ルターが書いた逆説的な手紙に、「本当の恵みを説教しなさい。大胆に罪を犯せ。しかし、罪と死と世界との勝利者であるキリストをさらに大胆に信じ、かつ喜べ。私たちが私たちである限り、罪は犯されるに違いないだろう……世の罪を除く小羊を神の栄光の富によって知ったことで、十分なのだ」と記されます。

主があなたに求めておられるのは、誰からも尊敬される模範的な人間になることではなく、あなたとの親密な愛の交わりを築くことです。主が苦しみを与えるとしても、それはあなたの心の目をご自身に向けさせようとする、燃えるような愛の現れです。私たちが主を最も悲しませることは、失敗をして主の御名を汚すこと以前に、主の愛に背を向けることに他なりません。主は私たちとの対話を求めておられます。