私たちはみな小さい頃から、「この地で成功する」ようにと様々な訓練を受けています。そして、キリスト教会でも「弟子訓練」の大切さが説かれてきました。イエスご自身十二人の弟子を特に選んで身近において訓練しました。
しかしその結果はどうでしょう。そのうちの一人は主であるイエスを些細な金額で売り渡します。そればかりか、代表格の弟子ペテロは、「ガリラヤ人イエスの仲間ではないか」と問われたとき、三度にわたって、「そんな人は知らない」と「のろいをかけて誓い」ました。
人間的に見ると、イエスはたった十二人の弟子も満足に育てることができなかった指導者とも言えます。しかし、そこに逆説があります。
それは自分の足りなさへの自覚を深めること自体が、キリストにある成長とも言えるからです。たとえば欧米の多くの田舎の教会は様々な風雪に耐え、共同体の中心にあり続けています。そして、多くの古い教会の屋根には、鶏のモチーフが飾られています。それは、復活の象徴とも、三度イエスを否んだペテロの象徴とも言われます。
ペテロはイエスに対して、「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(26:33) と豪語しました。しかし、イエスは彼に向かって、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います」(26:34) と言われ、その通りになりました。
それは、キリストの教会は人間的な信念によってではなく、神のあわれみによって立ち続けることを意味しています。教会が人数的にも成長し続けることは良いことですが、何よりも大切なのは、世代を超えた永続性にあります。
世界の会社組織で百年を超える歴史を持ちながら安定して成長しているところは稀です。しかしキリストの教会は、歴史の荒波に耐えながら、安定的に成長し続けています。それは人間的な成功概念を超えた共同体です。
1.「わたしの兄弟たちに告げなさい、ガリラヤに行くようにと、そこでわたしに会えます」
マタイ福音書では、復活のイエスが、エルサレムでペテロやヨハネにご自身を現わされたことは省かれ、「ガリラヤ……で……会えます」(28:10) と伝えられたことに焦点が当てられます。
この書の始まりは「the book of genesis of Jesus Christ」(イエス・キリストの系図)とも訳されますが、Genesis はギリシャ語訳聖書の「創世記」のタイトルです。その上で、モーセの五つの書に習って、五つのイエスの説教が記録されます。
なお、救い主の名は「イエス」と付けるように命じられましたが (1:21)、これはヘブル語では「ヨシュア」です。ヨシュアがイスラエルの民を用いて約束の地を支配したと同じように、イエスは弟子たちを用いて全世界を治めて行かれるのです。
また1章23節では、「その名はインマヌエル(神が私たちとともにおられる)と呼ばれる」というイザヤ預言が引用されましたが、イエスは11人の弟子たちを全世界に遣わすに当たって、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(28:20) と約束されました。それは聖霊が弟子たちの上に与えられたことで成就しています。
しかも逆説的なことですが、イエスが十字架上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(27:46) と叫ばれたのは、インマヌエルと呼ばれ方が「神がともにおられない」と叫ばれたかのように理解できましたが、イエスはご自身の復活を通して、永遠の視点からは、神はいつもともにおられることを証明するということになっています。
最後にイエスは、「マグダラのマリヤ」という一人の女性を通して、ペテロを始めとする弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼びました。それはイエスを裏切った弟子たちに対する「赦しの宣言」の意味が込められていました。
しかも彼らに「ガリラヤに行くように」と命じ、そこから弟子たちを世界に派遣しようとしておられます。「罪の赦し」には、彼らを新しいイスラエルとして用いようとする目的がありました。そのように弟子たちをガリラヤから世界に派遣することの意味を旧約の背景から解釈することが大切です。
2.「十一人の弟子たちは、ガリラヤに行った、イエスが指示された山に」
そして28章16節では、「さて、十一人の弟子たちは行った(進んだ)、ガリラヤに、イエスが彼らに指示された山に」と記されています。厳密には「山に登った」とは記されていませんから、どこかの高い山に「登った」というよりは、5–7章に描かれた山上の説教の場を指したというのが合理的な見方と言えましょう。
とにかくイエスは、今、ガリラヤにおいて「十一人の弟子たち」の前に立ちます。彼らこそ新しいイスラエルの十二部族でした (19:28)。彼らは異邦人との接点のガリラヤから、全世界に向けて遣わされます。
それはイエスが、「心の貧しいものは幸いです (Blessed are the poor in spirit )」と教えられた山です。三度イエスを知らないと言ったペテロは、その山で「心の(霊において)貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものです」(5:3) とイエスが言われたことばの意味を理解したことでしょう。
ペテロはこの挫折体験を通して、自分こそが「心の貧しい者」であり、そのような自覚を持つ者によって「神の国」が全世界に広められるということが心から納得できました。
イエスがご自分の弟子として育てる最初の人として、パウロのように博識で意志の強い人ではなく、ペテロのような一介の漁師を選ばれたことの意味が分かります。彼らはその原点に立ち帰って、新しい神の民として世界へと遣わされるのです。
創世記に描かれたヤコブの生涯も、「心の貧しい者」としての自覚を深めさせる訓練であったことが、誰に目にも明らかです。そんな愚かな者にイスラエルという名を神が与え、彼らのただ中に「契約の箱」を置いて、彼らと共に歩まれたのです。
「そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した(ひれ伏した)」(28:17) と記されます。それは、イエスが復活によって新しい時代を開かれ、弟子たちの礼拝を受けるべき方となられたことの証しとも言えましょう。
ただそこで同時に、「ただし、疑う者たちもいた」(28:17) と記されます。この期に及んで「何を疑っている」のかとも思いますが、「何を、疑っている」かの内容は記されていません。ですからここは「躊躇する者たちもいた」と訳される場合もあります。
一方、ここでの「礼拝した」とは「ひれ伏した」とも訳される言葉で、弟子たちはすでに何度もそのような姿勢を取っていました (14:33、15:25)。また借金の免除を願い出た「しもべ」も「ひれ伏して主君を拝した」(18:26) と描かれていました。
ですから、「疑った者」とは、復活のイエスにどのような態度を取るべきかが分からなかったという意味とも理解できます。とにかく、「疑う者たち」とは、イエスを全面的に礼拝すべき神として崇めることに「躊躇した」人たちを指すと理解して良いと思われます。
3.「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」
それに対して、「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた」と記されます。イエスにどのような態度を取るべきか迷っている人々のことを受け入れるように、イエスの側から近づいてくださったのです。
その上で、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」(28:17) と言われます。
かつて、ユダヤの最高議会において、イエスに対して、神を冒涜する者として満場一致の死刑宣告が出された理由は、「おまえは神の子キリストなのか、答えよ」という質問に、ダニエル7章13節のことばを引用して、「あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」と宣言されたからです (26:63、64)。
引用されたダニエル書には続けて、「この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去る事がなく、その国は滅びることがない」(7:14) と記されていました。
つまり、イエスはダニエルのことばを要約するように、ご自分が礼拝されるべき方であることを宣言されたのです。
ただ、そこで忘れられがちなのが、それに続いて「いと高き方の聖徒たちのためにさばきが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐ時期が来た」(7:22) と記され、それに続いて聖徒たちを襲う患難が、「聖徒たちは、一時二時と半時の間、彼(7:20の「大言壮語する口」)の手に委ねられる。
しかし、さばきが始まり、彼の主権は奪われて、彼は完全に絶やされ、滅ぼされる。
国と、主権と、天下の国々の権威は、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国、すべての主権は彼らに仕え、服従する」(7:25–27) と描かれていることです。
これは、キリストの弟子たちが全世界をキリストとともに治めるときを指しています。それこそ、神の国が完成するときです。
つまり、イエスに「いっさいの権威が与えられている」ということは、私たちがイエスとともにこの世界を治めるときがすでに始まっていることをも意味しています。
私たちは現在、イエスとともに全世界を平和のうちに治める訓練を受けているということを決して忘れてはなりません。歴史のゴールとは、聖徒たちが平和のうちに全世界を治めることにあります。
ただそれが実現するプロセスとして、私たちがこの世で様々な患難に耐える必要があるのです。そのことを前提に使徒パウロは、「私たちはキリストと、栄光を共に受けるために苦難を共にしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです」(ローマ8:17) と記しています。
4.「あらゆる国の人々を弟子としなさい」
マタイ28章19、20節には、「行って」「バプテスマを授け」「教えなさい」との命令がありますが、これらはすべて、「弟子としなさい」を修飾することばです。
たとえば、「真理のことば」を行く先々で熱心に伝えながら、人々と衝突を繰り返し、交わりを築けない人がいます。またバプテスマを授けられながらその後の信仰が成長できない人がいます。また、聖書の命令を学ぶことで、かえってうつ病や神経症の傾向を悪化させる人さえいます。
ですから、「キリストの弟子たちとする」という中心線を忘れた伝道は危険です。
たとえば、ペテロが、本当の意味で、キリストの弟子となったのはいつでしょうか?それは、彼が「あなたは、生ける神の子キリストです」と模範的な信仰告白をしたとき (16:16) というより、イエスのことを三度知らないと言った後で自分の罪深さとイエスの愛を深く示され、「激しく泣いた」(26:75) あとではないでしょうか?
なぜならその後、彼は他の弟子たちとの比較で自分の信仰を誇るようなことがなくなったからです。
当時のパリサイ人は、日々の立ち居振る舞いを細かく指導し、外面的には非難されない弟子たちを育てました。しかし、イエスは「パリサイ人……は……改宗者……を自分より倍も悪いゲヘナの子にする」(23:15) と非難しました。
残念ながら「弟子とする」ということばに「人をある型にはめ込む」というイメージがあるかもしれません。ある人が人の生涯を「我々は生まれるときはオリジナル版だが、死ぬときはコピー版になっている」と評しましたが、弟子となるとは、「理想的なクリスチャンとは、このように生きる人です」というコピー版になることではありません。それは自分の本心を偽るパリサイ的な弟子の姿です。
「弟子となる」とは「キリストの生き方に倣う」という生き方の方向です。それは自分を神のようにしたアダムの生き方とは反対に、「しもべの姿をとり……自らを低くして……十字架の死にまで従われた」(ピリピ2:7、8) という姿に「倣う」生き方を指しています。
それはある型にはまることではなく、イエスに倣って神と人とに仕える生き方です。
それに対して、イエスの生き方に倣う人を育てるとは、人間的に見れば成功とは程遠いもので、何度も裏切られ、傷つきながらも、その人を赦し、友であり続けるという「忍耐」が求められるプロセスです。
これは子育てや夫婦関係を築くのと同じような地道な働きです。しかも、これはすべてのキリスト者への命令ですが、それは人々に模範を示すようなものでもありません。
たとえば、パウロは自分を特別に選ばれた指導者という以前に、「私はその罪人のかしらです」(Ⅰテモテ1:15) と呼び、「こんな罪人でも救われる」ということの「見本(先例)」(同1:16) にされたと紹介します。
私たちは、だれでも「模範」にはなれなくても「見本」になることはできるのではないでしょうか。つまり、イエスに倣う者を育てるとは、自分の様々な問題を隠すことなく、そこに現わされたイエスのあわれみを証しすることです。それこそ「見本」としてのペテロの姿です。
それにしても、イエスは、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々弟子としなさい」と言われました。「行きなさい」という命令は、先の「ガリラヤに行きなさい」ということばと同じで、明確な目的を持ってある場所からある場所に「進む」ことを意味します。
つまり、私たちは自分の心地よい居場所から「出て行って」、「あらゆる国の人々」にイエスに倣う生き方を紹介するという大きな使命が与えられているのです。
しかも、この部分は多くの英語訳では、「make disciples of all nations」と訳されます。つまりあらゆる国の人々からなる弟子たちの共同体を作ること、教会共同体を建てるという命令と理解できます。これは民族、人種を意味することばで「あらゆる種類の人々を」と理解することもできます。
たとえば日本の会社は、能力以上に企業カルチャーに合う人を選ぶ傾向があるとも言われます。ですから、教会の人よりも、会社の人の方が、常識?が通じ易いという面があります。
しかしイエスは、私たちが、自分の常識の枠を超えた人々と交わりを築くようにと命じておられます。それは私たちにとってストレスとなり得ます。
ただそれにしても、何でもすぐに話が通じるような仲間の集まりは、イエスが命じた教会形成とは異なるということを心に刻む必要がありましょう。私たちは「あらゆる国の人々」からなる共同体を目指しているかが問われています。
5.「彼らにバプテスマを授け……すべてのことを守るように教えなさい」
イエスは、「彼らにバプテスマを授けなさい、父、子、聖霊の御名によって」と命じられました。それはイエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたことに「倣う」ものです。
ただ、イエスの場合は罪人と一体となるためでしたが、私たちは聖なるイエスと一体となるために、バプテスマを受けます。それはイエス・キリストとの結婚式とも言えます。そしてそこで、父なる神がイエスに向かって「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22) と語りかけられたことばが私たち自身への語りかけとなります。
またそれは、古いアダムに倣う生き方が「キリストとともに葬られる」ことであると同時に、「新しいいのち」に歩むために、「キリストの復活とも同じようになる」ことを全身全霊で体験する機会でもあります (ローマ6:4、5)。
ここで興味深いのは、「父、子、聖霊の御名によって」と言われていることです。後に、ヨハネの名による「悔い改めのバプテスマ」の代わりに、「主イエスの名によるバプテスマを受けた」ことで「聖霊を受けた」と記されますが (使徒19:1–6)、イエスはここで三位一体の御名を言われました。
それは私たちに教会共同体の在り方を指し示すためとも言えましょう。父も子も聖霊も永遠の独自性を保ちながら、私たちに向かっては唯一の神としてご自身の愛を現わしてくださいます。
私たちはこの三位一体の神の愛に包まれながら、多様な兄弟姉妹との愛の交わりを築きつつ、世に遣わされて行くのです。
「一人が一人の人を」導くというよりは、共同体としてそれぞれの異なった賜物を生かしながら、交わりを通して、人を導くのです。
さらにイエスは、「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」と言われましたが、「守る」とは「注目し続ける」が中心的な意味です。これはイエスが定めた様々な戒律を守らなければならないというような、私たちの生き方を束縛するというニュアンスはありません。
それは詩篇の初めに、「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ(思い巡らす)」(詩篇1:2) と言われる生き方です。サタンは人の目を、福音ではなく禁止規定に向けさせますが、「すべてのことを守る」と言われるように、主の命令の全体像を、バランスを持って「注目し続ける」必要があります。
しかも、その中心は、全身全霊で主を愛することと、あなたの隣人をあなた自身のように愛するということ、つまり、自分から目を離して神と人とを「愛する」ことこそが命令の核心となっています。
ここでも当時のパリサイ人が、主の教えを神の民にとっての規則集のように変えてしまったこととの対比を思い起こす必要があります。
しかし、詩篇19篇7、10節にあるように、「主の教えは完全で たましいを生き返らせる」ばかりか、「蜜よりも 蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い」と言われるほどに、主の命令は、私たちにとって甘い味がする、慕わしものなのです。
イエスは最後に、「世の終わりまで、いつも……ともにいます」と言われましたが、これは「世界の完成の時まで」とも訳すことができます。
この世界のゴールは「新しい天と新しい地」です。そこは愛と平和に満ちた世界です。私たちは、この世界をその状態に少しでも近づけるために、召されています。
しかも、この働きには最終的な成功が保証されています。神がイエスの敵を用いて復活の証明をされたように、神はすべてを働かせて益とすることができます。「主にある働き」は決して無駄にはなりません (Ⅰコリント15:58)。
この箇所は「大宣教命令」と呼ばれ、その核心はキリストの弟子を育てることにあります。
その意味を、当教会の標語では、「イエスに倣い、神のかたちで、ともにこの地に」と表現しています。すべての人間の価値の基本は、「神は人をご自身のかたちとして創造され……男と女とに創造され……地を従えよ」と言われたことに始まります。
そして、「御子は見えない神のかたち」(コロサイ1:15) とあるように、イエスこそが神のかたちとしての生き方を、見えるように示してくださいました。「神のかたち」は「image of God」と訳されるように、目に見えない神の姿を目に見えるように現す存在です。
「イエスに倣う」と表現したのは、人間イエスに目を向けるためです。私たちはみな、自分の十字架を負ってイエスに従う歩みへと召されたからです。それは、御子の御霊を受けて、世の悲しみを引き受けながら、同時に復活の喜びに生かされる歩みでもあります。
キリストの弟子を自称しつつ、この世の悪を力で退治し、新秩序を実現しようとするような人もいます。しかし、私たちは、主の忍耐に倣いながら、争いと矛盾に満ちた世界に「ともに」遣わされ、少しでも多くの人をキリストの弟子へと導かせていただくのです。それは弟子の共同体としての働きでもあります。