残念ながら、ときに、平気で嘘をついたり、平気で人を裏切ったりする人がいます。しかし、そのような人の歴史をみると、しばしば、彼ら自身が、余りにも軽く扱われてきたということがわかります。
福音は、罪を指摘し、罪からの救いを教えると言われますが、旧約の流れから見ると、神がどのようなことに最も厳しく怒っておられるかが見えてきます。それは、ちょうど、「こんなに私はお前を大切に思っているのに、どうして、この気持ちをわかってくれないのか……」と言うような、親が子に対して抱く感情に似ています。
一人ひとりが自分の尊厳に気づいた結果として、自分の罪が見えてくるという心理的なプロセスを私たちは知るべきでしょう。多くの人が自分の罪を認めることができないのは、神の愛を実感していないからとも言えます。もっと私たちは、自分に対し、また周りの人に対し、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」という神の語りかけを繰り返すべきではないでしょうか。
1.「だれが、あなたがたのうち、これに耳を傾け、後々のために注意して聴くだろうか」
42章10節は、「主 (ヤハウェ) に歌え」から始まり、歌う内容が、「新しい歌を」、「その栄誉を」と勧められます。それは、先の42章1–9節の「主のしもべの歌」にあったような「救い」がもたらされたからです。
主はご自身が遣わす救い主に関して、「わたし、主 (ヤハウェ) は義をもって、あなたを呼び、その手を握り、あなたを見守り、民の契約とし、国々の光とする」(42:6) と言われました。イエスご自身が、新しい契約をもたらし、イスラエルばかりか全世界にとっての「光」となってくださったというのです。
そのためにご自身の弟子たちを「国々の光」として遣わしてくださいました。その結果、地の果ての日本にまで福音が届けられました。
そのことを覚えて、「地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者」のすべてが、主の救いの「新しい歌」と「主の栄誉」を、そろって「主 (ヤハウェ) に歌う」ことができます。
今から2700年前の預言者、聖徳太子よりも二倍も古い時代の「新しい歌」と言われても戸惑うことでしょうが、神がご自身の救い主イエスによってもたらされた「救い」ほどに、私たちにとって新しいものはありません。そして今、42章6節のみことばは、ここにいる一人ひとりを「新しく」動かす主からの語りかけとなっています。
そしてその賛美への訴えが、イスラエルの敵であったアラビア砂漠の遊牧民である「ケダル人」またはエドムの町と思われる「セラ」に住む人々にも「声を上げよ」 「喜び歌え」「主 (ヤハウェ) に栄光を帰せよ」と呼びかけられます (42:11、12)。
さらに、主は「久しく、わたしは黙っていた……自分を抑えていた」(42:14) と言われますが、これはイスラエルに救いの手を差し伸べたい気持ちを必死に「抑えて」おられたという意味です。
その主が今、「子を産む女のようにうめき」、新しいことを始めようとしておられます。
ただそこで主 (ヤハウェ) はイスラエルの現実を、驚くほど生々しく責めながら、「耳の聞こえない者たちよ、聴け。目の見えない者たちよ、目を凝らして見よ。
だれがわたしのしもべほどに盲目であろうか。わたしの送る使者ほどに耳が聞こえないだろうか。だれがわたしに買い取られた者ほどに盲目であろうか、主 (ヤハウェ) のしもべほどに盲目であろうか。
多くを見ながら、注目してはいない。耳を開きながら、聴いてはいない」(42:18–20) と言われます。
ここではイスラエルを「買い取られた(和解した)」「主 (ヤハウェ) のしもべ」と呼びながら、「だれが……ほどに盲目であろうか」と繰り返されています。
それは、本来、最も主のみわざを見ているべきはずの者が、誰よりも主 (ヤハウェ) のみわざを見ていないという現実、また、誰よりも主のみことばを聞いているべき「主の使者」が、聴いていないという現実に、主は心を痛めておられるという意味です。
私たちが心から反省すべきことは、自分の愚かな行動や愛のない態度以前に、主のみわざに対して、心の目や耳があまりにも鈍感になっているということではないでしょうか。それは多くの子どもが親の愛情に鈍感になっていることに似ています。それこそ、主の怒りの原因でした。
たとえばイエスは、盲目に生まれついた人の目を開けましたが、パリサイ人たちは癒された盲人の証しには決して耳を傾けず、イエスを偽預言者と断定し続けていました。
それでイエスは彼らに向かって、「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります」(ヨハネ9:41) と言われました。
まさに今、「見えている」と思っている人こそ、危ないのです。
そのような中で、「主 (ヤハウェ) はご自分の義のために望まれた。みおしえ(トーラー:律法)を広め、これを輝かすことを」(42:21) と記されます。
主はご自分の民イスラエルを用いてご自分の「みおしえ」のすばらしさを「広め」ようとされたのに、現実の彼らはあまりにも惨めな状態に置かれ、それを人々に証しできる状態ではありません (42:22)。
そのような中でも主は諦めることなく、「だれが、あなたがたのうち、これに耳を傾け、後々のために注意して聴くだろうか」(42:23) と問いかけます。ただ実際は多くの人々は余りにも簡単に、「神を信じたって何も良いことはなかった……もう主のみ教えを聞くことはやめた……」と諦めます。
しかし預言者イザヤは、なおも同じことばで、「だれが、ヤコブを奪い取る者に渡したのか、イスラエルを、かすめ奪う者に。それは主 (ヤハウェ) ではないか」(42:24) と問いかけます。
しかもそこでイザヤは、苦難にあった人々に期待される悔い改めの告白を、「この方に、私たちは罪を犯し、主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聴かなかった」(42:24) と予め記します。つまり、イスラエルの悲惨は、主の無力さの現われではなく、彼らが、主の「おしえに聴かなかった」ことの結果なのです。
ここの原文は、「聞き従わなかった」ではなく、「聴かなかった」とのみ記されています。つまり、イスラエルの民の悲惨の背後に、彼らの心の目と耳を開かせようとする主の熱い思いが隠されているというのです。
それは、聞く耳のない者に、苦しみを与えることによって、彼らの目や耳を開かせるという主のご計画です。たとえば、大地震を経験した人は、私たちの人生の土台がいかに不安定なものかを肌で感じることができるかもしれません。病気にあった人は、この身体のバランスが保たれていること自体の不思議に目が開かれるかもしれません。
「そこで主は、燃える怒りと激しい戦いとをこれに注がれた」(42:25) と記されます。しかし、「それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず、自分に燃えついても、心に留めなかった」という悲劇が続きます。
残念ながら、怒りを発したことが逆効果になったと思えるような悲惨な現実ばかりが残ってしまいました。
私たちの場合も、最も身近な人が、自分の話を聞いているようで聴いていないということに何よりも腹が立ちます。そんなとき、「もっとよく聞いていてくれたら、私の望んでいることが何なのかがわかって、別の行動が取れたはずなのに……」と言いたくなります。
今も昔も、「俺は家族を養うために身を削って働いているのに……」という夫に対して、「私が望んでいるのは、そんなのじゃない……」と悲しんでいる妻が多くいます。同じように神は、「動き出す前に、わたしの話に耳を傾けてほしい……見当違いの方向に熱くなってもらっては困る……」と言われることがあるのではないでしょうか。
たとえば、ナチス・ドイツでユダヤ人虐殺の実務的な責任者だったアドルフ・アヒマンは、極めて平凡で神経質で家庭的な官僚であったと言われます。彼は、与えられた職務をただ誠実にこなすことによって、何百万人ものユダヤ人をガス室で殺してしまいました。彼は裁判の席で、「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」と言ったとのことです。
彼には生きた人間が見えていませんでした。同じように、神ご自身との生きた対話がない人が多くいます。それに対して主は、「だれが……聴くだろうか」と問いかけ続けておられます。
2.「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」
ところが主は、燃える怒りを向けていたイスラエルの民に向かって一転して、「だが、今、主 (ヤハウェ) はこう仰せられる。ヤコブよ。あなたを創造された方が、イスラエルよ。あなたを形造った方が」(43:1) と優しく呼びかけながら、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」と語りかけてくださいます。
「贖う」とは、たとえば、借金が返せなくなって、自分の身を奴隷に売らざるを得なくなってしまった場合に、兄弟が彼を「買い戻」し、再び自由人に復帰できるというような救いを意味します (レビ25:48)。
イスラエルの民は、自業自得で神の「のろい」の下に置かれました。そこでは働いた労苦の実を自分で享受できないばかりか、ありとあらゆる災いに襲われ、怯えながら生きていました。それは奴隷以下の悲惨でした。
そのような状態から、生きることを喜ぶことができる自由人の状態へ回復されるという約束のことを、主は、「わたしがあなたを贖った」と預言されます。それは、「のろい」から「祝福」へという百八十度の立場の変化です。
それは、イスラエルの民が悔い改めたからという以前に、父祖ヤコブに由来する民が、神ご自身によって「創造され」「形造られた」という神の選びに基づきます。
事実、振り返るとヤコブは父や兄を騙すようなことをしたにも関わらず、主ご自身が彼の生まれる前から、彼を兄のエサウの上に立つ者と一方的に計画されたのです。
また、神は、ヤコブの母の故郷への旅行を守り、豊かな財産を与え、約束の地カナンに戻る途中のヤボクの渡しで、彼にご自身を現し、イスラエルという新しい名前を与えてくださいました。
そして主がイスラエルを贖ったことが、「わたしはあなたの名を呼んだ」(43:1) と言い換えられます。さらに、主 (ヤハウェ) は彼らに優しく、また断固として、「あなたは、わたしのもの」と語りかけられます。
さらにその後の祝福に満ちた歩みが、「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(43:2) と描かれます。何と、海も山も川も火山も創造された全能の神が、「わたしは」と強調しつつ「あなたとともにいる」と保障してくださっているのです。
そして、この選びによる「新しい創造」(ガラテヤ6:15) は、ダビデが「生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいたときから、あなたは私の神です」(詩篇22:10) と告白したように、私たちすべてにとっての霊的な現実です。
キリスト者はすべて、キリストの十字架の血潮によってサタンの奴隷状態から贖い出されました。ですから私たちは、この「ヤコブよ、イスラエルよ」という部分を自分の名前に置き換えて朗読しながら、神の絶対的な守りを私たちは味わうことができます。
確かに私たちはこの地で様々な災いに会います。しかしその災いは決して、私たちに与えられた「永遠のいのち」を損なうことはできません。
そのことをパウロは、「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます」(コロサイ3:3、4) と断言します。
与えられた「永遠のいのち」のすばらしさは、時とともに明らかにされてゆきます。信仰生活はその恵みの豊かさをより深く味わうプロセスです。
ところで、主はイスラエルに対する保障を、「それは、わたしが主 (ヤハウェ) 、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主だから」(43:3) と言われますが、これも一言一言、心の底で味わうべき全能の神からの語りかけです。
「イスラエルの聖なる者」とは、イスラエルにとって主は、いかなる比較も超えた、人のいかなる想像も及ばない圧倒的な神であるということを表します。ですから、彼らは、地上のいかなる権力をも恐れる必要がありません。その方が「あなたの救い主」であると断言されます。
そしてそのための手段として、「エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする」と言われます。「クシュとセバ」はナイル川上流のエジプトの南の地域を指します。これは、ペルシア帝国がナイル川全域を支配するために、その前線基地としてのイスラエルに特別な恩恵を施すという政治状況を示唆したものと思われます。
エルサレム神殿の建設が許されたのは、ペルシアがイスラエルの民の好意を得て、エジプト支配を容易にするためでした。これは、エジプトの犠牲の上にイスラエルの繁栄が築かれるという意味です。
しかし、この背後に、神のあわれみのご計画がありました。人の目にはちっぽけなイスラエルが、神の目にはあの大国エジプトよりも重い存在だったからです。
それを前提に主 (ヤハウェ) は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」(43:4) と言われます。
「高価」とは、かけがえのない存在を意味します。たとえばイサクをささげたアブラハムにとって彼はかけがえのない「ひとり子」であり、イエスを十字架にかけた神にとって主は、かけがえのない「ひとり子」でした。
また、「尊い」とは「重くされている」という意味で、「栄光」と同じ語源のことばです。これは、神が私たちひとりひとりを救うためにご自身の御子を犠牲にされたほどに、私たちの存在を重いものとして見ておられるということを表わします。
その上で、主は、「わたしは」ということばを強調しながら、「あなたを愛している」と言っておられます。全宇宙の創造主である方が、イスラエルに向かってそのようにパーソナルに語りかけてくださるのです。
そして、その具体的な意味を、主は、「だから、人をあなたの代わりにし、民をあなたのいのち(たましい)の代わりにする」と言われます。これは、イスラエルに繁栄をもたらすために、あの大国エジプトを犠牲にするのも厭わないという神の断固とした意思の現われです。
このように、他人や他国との比較で自分の価値が計られることには違和感があるかもしれませんが、当時の政治状況を考えれば、神の意図は明確です。
当時のイスラエルは、北からの脅威に南のエジプトの助けを得て対抗するという政策を伝統的にとってきました。これはたとえば、会社の上司の間に対立関係がある場合、その両方にうまく取り入り、それぞれの陰に身を隠しながら、同時にその対立を利用して自分の立場を守ろうとするような生き方です。
それに対して、主は、人と人との信頼関係を軽蔑するような、姑息で卑怯な生き方ではなく、堂々と自分の立場を明確にするように命じられたのです。あなたが頼りにしようとしている権力者はすぐに消えてしまうはかない存在であるばかりか、神の目には、その権力者よりもあなたの方が重く、「尊い」と見られているのです。
それを覚えて、人の奴隷にならずに、自分が神にとってどれほど「高価」で、かけがえのない存在かを意識して生きるように勧められています。
それと同時に、多くの人は、自分が人と異なった感性を持っていることを恥じてしまいがちですが、それは何と愚かなことでしょう。あなたが他の人とまったく同じ感性を持っているなら、あなたの代わりはいくらでもいることになります。
あなたが他の人と違った感性を持っているからこそ、あなたは神にとって「高価」でかけがえのない、「尊い」、重い存在となるということを忘れてはなりません。
3.「あなたがたは、わたしの証人」
そして、この世の大帝国や権力者たちを恐れる人々に対し、「恐れるな。わたしは、あなたとともにいる」(43:5) と言われました。
さらにそこで、「わたし」と言われる方の大きさを思い起こさせるように、主 (ヤハウェ) は、「東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。北に向かっては、引き渡せ、と、南に向かっては、引き止めるな、と言う」(43:5、6) と言われます。これは、四方の国に散らされたイスラエルの民を、もう一度約束の地に集めてくださるという約束です。
そして主は、43章1節のことばを繰り返すように、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、これを創造し、形造った」(43:7) と言われ、すべてをまとめて、「確かに、わたしがこれを成した」と、すべてが主のみわざであると宣言されます。
さらに主 (ヤハウェ) は再び、イスラエルの民を、「目があっても盲目の民を、耳があっても聞こえない者たちを」と呼びながら、国々に向かって、「連れ出せ」と命じられます (43:8)。
そればかりか、「すべての国々をつどわせ、諸国の民を集めよ」と、世界中の人々を集めさせます。その上で、「だれが、彼らの中でこれを告げ、初めのことをわれわれに聞かせることができるだろうか」(43:9) と問いかけながら、「彼らが自分たちの証人を立てて正義を示し(証言し)、聞く者に、それは真実だ、と言うようにせよ」と言われます。
それは、イスラエルがいかに盲目で、耳が聞こえない民であっても、彼ら以外に主のみわざの意味を証しできる者たちはいないからです。
神は、イスラエルの歴史を通して、ご自身の「正義」と「真実」を証ししようとしておられます。そして今は、私たちキリスト者を通してご自身の「正義」と「真実」を証しされようとしています。
それを前提に主は、「あなたがたは、わたしの証人、——主 (ヤハウェ) の御告げ——わたしが選んだわたしのしもべ」(43:10) と言われます。
世界の人々は、神の民を通してしか、主 (ヤハウェ) を知ることができないからです。ただ、私たちはその責任の大きさの割にはイスラエルの神ヤハウェを知っていないと卑下するかもしれませんが、そのような懸念を払うように、「これは、あなたがたが知って、わたしを信頼し、わたしがその者であることを悟るためだ」(43:10) と言われます。
私たちは自分たちの人生の体験を通して、主を深く知り、より深く信頼し、主がどのような方であるかを悟るのです。
なおここでは、「その者」という曖昧な表現が用いられながら、それを説明するように、「わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない」と、ご自身が他の神々と比べようのない方、ただひとりの創造主であることを証しています。
そして主は、敢えて「わたし」を繰り返しながら、「わたし、このわたしが主 (ヤハウェ) 」(43:11) とご自身の名を紹介しておられます。
そして、「あなたがたのうちに、他(異なる神)はいなかった。あなたがたは、わたしの証人」(43:12) と、10節のことばを繰り返しながら、「主 (ヤハウェ) の御告げ——わたしは神だ」と断言されます。
そして未来に目を向けさせるように、「これから後もわたしがそれだ。わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行えば、だれがそれを戻しえよう」(43:13) と、主 (ヤハウェ) だけに信頼するように訴えられます。
私たちは一人ひとりが、神の目に「高価で尊い」存在です。それは同時に、主 (ヤハウェ) の証人としての使命を果たすためでもあります。
そのことをペテロは、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです」(Ⅰペテロ2:9) と言っています。
私たちはそれぞれ、キリストにある光の中に招き入れられた存在です。私たちがこのままの姿でイエスの招きに応じるとき、主は、私達の弱さや葛藤をさえ用いて、ご自身の栄光を現してくださいます。
人から尊敬されるクリスチャンになろうとする前に、この世的には取るに足りない人を生かし用いてくださる神のみわざを常に覚えるべきです。そのとき、それぞれが小さければ小さいほど、弱ければ弱いほど、主にある逆転の大きさが証されるという神秘が生まれます。
大切なのは、人の目に見える自分を意識する代わりに、ただイエスだけを見ながら生きることです。そしてイエスにあって私達に注がれている神の愛を心から味わうことです。
いつでもどこでも、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」という神の語りかけを、心の底で味わいながら生きましょう。
拙著「心が傷つきやすい人への福音」が多くの方々に読まれ始め、静かに話題になっています。その最後に「イエス、あなたのもとへ」というドイツで生まれた新しい歌の日本語バージョンを掲載しました。そこにはまさに福音の核心が歌われています。
そこには、私たちが知らないうちに、まるでイエスの愛に盲目であるかのように、「愛されるに値する人間にならなければ……醜い思いは隠していなければ」という駆り立てや、「私は本当に変わることができるのだろうか」という疑問への答えが歌われています。
大切なのは、神の招きの原点と神の約束に立ち返り続けることです。