人に裏切られ続けた人は、人の善意を信頼できず、すべてを損得勘定でしか見られないことがあります。不安に駆りたてられている人は、自分の身を守るために、人の手柄を横取りすることさえ平気でします。しかし、恩を仇で返すような行為とか、目的のためには手段を選ばない生き方が、いつまでもまかり通ることなどあり得ません。神は盲目な方ではないからです。
それにしても、私たちは自分がそのようなことでの被害者となったときには、「怒りで夜も眠られない」などということが起きます。そのようなときに、「仕返しをしてやりたい」と思うのは、自然な人間の感情です。ただし、その感情に身を任せてしまうと、あなたはすぐに、まわりを不幸にする加害者に変わってしまいます。
そこで信仰者に求められていることは、その怒りの感情を神に差し出し、神の公平なさばきを期待して、「自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい」(ローマ12:18)という勧めに従うことです。そのことがこの詩篇では「地に住み、誠実を養え」という勧めとして、また、「平和(シャローム)の人には将来がある」という約束として記されます。
1.「悪を行う者に対して熱くなるな」
詩篇37篇は40の節に分けられますが、それには霊感された意味はありません。ヘブル語聖書では、22の段落に分けられ、その頭の文字はヘブル語のアルファベットの順番に配列されています。
初めの段落はアル・ティトゥハール(熱くなるな)というヘブル語のアルファベットの最初の文字のアレフから始まり、次の段落は、3節のブター・ブ・ヤハウェ(信頼せよ。主に)ということばのベートから始まり、第三の段落は5節の、グゥオール・アル・ヤハウェ(委ねよ。主に)ということばのギンメルから始まります。また第四の段落は7節のドゥーム・ル・ヤハウェ(静まれ。主に)ということばのデレクから始まります。
それぞれの段落は、一部の例外を除き、基本的に四行の詩から成り立っており、それぞれの段落ごとに意味のまとまりがあります。これは人々がこの詩を暗唱するのを楽にするという意味があったのかもしれません。
とにかく、この詩は、しばしば1-11節までが愛唱されることが多くありますが、全体として精巧な組み合わせになっており、その全体の流れを見たうえで、3-7節などの意味を深く味わうべきでしょう。
最初のことばを、私は、「悪を行う者に対して熱くなるな」と訳しましたが、新改訳では、「腹を立てるな」と訳されています。しかし、狡猾な人の行動に腹を立てなくなったら、「神のかたち」としての人間をやめてしまうことになりはしないでしょうか。これは、「燃やす」ということばの再起動詞形で、「自分を燃やす」ことを諌めたものです。ですから、昨年末に発行された聖書協会共同訳では「悪をなす者に怒りを燃やすな」と訳されています。
私たちは怒りの感情を自分の中にたくわえ、自分で怒りの炎に油をかけ続けるというようなことがあります。「腹を立ててはならない」と自分の気持ちを静めようとする一方で、「この不条理に腹を立てずにいられようか……」と、自問自答しながら、怒りの火を激しく燃やすことがあります。
怒りの感情はつねにはけ口を求めていますが、それをため込むと、胃や腸に穴を空けるばかりか、自分の顔を暗くし、まわりに不機嫌をばらまくことになりかねません。すると、人々を自分の回りから退け、怒りはますます増幅してしまいます。
実は、怒りは、自分で抑えるべき悪い感情ではなく、主に訴えて行くことができる自然な感情とも言えます。ですから8節でも、「怒りを手放し、憤りを捨てよ。熱くなるな」と勧められていると訳すべきでしょう。これも聖書協会共同訳では、「怒りを解き、憤りを捨てよ。怒りを燃やすな」と訳されています。
詩篇の中には、怒りの感情を主にストレートに訴えるものが数多くあります(代表例は詩篇94篇、109篇)。それこそが、「怒りを手放し、憤りを捨てる」道です。あなたの怒りの感情を優しく受け止めてくれる人こそ真の友であり、カウンセラーですが、主イエスこそがそのような方です。
私たちは、「悪を行う者に対して熱くなる」ことによって、また「不正を行なう者」がその狡猾さによって目的を達成して行く姿を感情的に熱く「ねたむ」ことによって、周りの人々まで傷つけてしまうことがあります。人の不正によって自分が一時的に傷つくのは避けられませんが、それによって、自分の心と身体を傷つけ、周囲の人々にまで被害を広げるなどということがあってはなりません。怒りの感情を自分で「燃え立たせる」ことは非常に危険なことです。
私たちが悪人に腹を立てるのは、彼らが、目的のためには手段を選ばないような強引さによって、富を増し加え、権力を握るようなことがあるからです。それに対して、この詩篇は、彼らは「彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」(2節)と断言します。彼らの成功はごく一時的なものに過ぎません。
そのことが、「悪しき者はいなくなる」(10節)、「彼らは消えうせる」(20節)、「彼はもういない」(36節)などという表現で繰り返されます。確かに、人が不正な行為によって繁栄を享受しているように見えるとき、私たちはそれに怒りやねたみを燃やしたくなります。また、ひどい目に合わされたときには、それを同じ手段を使って、人に復讐したいと思うのが人情です。しかし、それこそサタンを何よりも喜ばせることに他なりません。
2.「主(ヤハウェ)をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」
3節ではそれと正反対の行動が、「主(ヤハウェ)に信頼し、善を行なえ。地に住み、誠実を養え」と勧められます。「地に住み」とは、その場から逃避することや、天国への憧れを信仰の目標にする代わりに、今ここでの自分の生活の場を、主が与えてくださった場として積極的に受け止めることです。
しかも「誠実を養え」の「養う」とは羊を「飼う」というときの、羊を守り、世話をして育てるという意味の言葉です。「誠実」とは「真実」とも訳される言葉で、周りの状況に関係なく、主の前に正しいと思えることを黙々と実行できる心の在り方です。私たちはそのような自分の誠実さを自分で見守り、羊を飼うようにはぐくみ育てる必要があります。
4節ではそれが別の観点から、「主(ヤハウェ)をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」と記されます。私たちは何かの成果を生み出すことを喜びとしがちですが、期待した結果がいつも出てくるとは限りません。サッカーの試合のように意外な展開が待っていることが多くあります。
そのときに、すべての働きを、主に対する奉仕として受け止め、主との交わりのうちにすべての働きを成し遂げることができるなら、何と幸せなことでしょう。しかも、「主を喜ぶ」ことは、いつでもどこでもできることなのです。
何をやってもうまく行かない時に、「イエスは私の喜び」というドイツの古い讃美歌が心の奥底に迫ってきました。私はイエスご自身ではなく、イエスがもたらしてくれる結果を求めていました。
しかし、その曲を通して、イエスご自身を思い起こすことの中に喜びがあるということが不思議に心に迫ってきたのです。
さらにここでは、「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」と約束されます。それは期待通りに物事が運ぶというより、神が私たちの心の底にある真の願いをご存じで、それをかなえてくださるという意味です。
多くの人々は、自分の心の奥底にある真の願いを知ってはいません。それは神と人、人と人との間に生まれる愛の交わりではないでしょうか。神はあなたの誠実さに応えて、それをかなえてくださいます。
たとえば、私は人から裏切られたように感じて、深く傷ついたことがあります。しかし、それを通して、より一層、詩篇の祈りの世界が身近になりました。それがなければ詩篇の祈りの世界にこれほど魅せられることはありませんでした。
そして、それと同時に、それを通して、心の友の輪が広がりました。彼らは、少なくとも、私が損得計算を超えた誠実さを大切にしていたということをわかってくれた人々です。
それを前提に、5,6節は、私たちの心の誠実さを神は見ていてくださることの恵みが、「あなたの道を主(ヤハウェ)にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主はあなたの義を光のように輝かしてくださる。あなたのさばき(正義)を真昼のように……」と記されます。
「あなたの義」とは、人々から隠されている心の真実、「あなたのさばき」とは、あなたが心の底で望んでいる神の正しいさばき、神のご支配の現実です。つまり、人があなたを誤解し、非難することがあったとしても、神はあなたの心の内側の真実を正しく評価してくださって、それに豊かに報いてくださるという意味です。
ですから私たちは、一時的に自分の誠実さが通じなくても、へこたれる必要はありません。いつでもどこでも、「誠実」を養い育てることが大切なのです。
3.「主(ヤハウェ)の前に静まり、忍んで主を待て」
7節では、「主(ヤハウェ)の前に静まり、忍んで主を待て」と勧められています。物事が思い通りに進まない時に何よりも大切なのは、「主の前に静まる」ことです。そこで求められていることは、すぐに主からの答えや慰めを期待することではなく、何の変化も起きず、何も見えない中で、なお黙って、主の答えを待ち続けるということです。そのことが、「忍んで待つ」という一つの動詞として記されています。
しかも、そこでは残念ながら、狡猾に振る舞っている人が、良い結果を出しているように見えることがあります。その不条理を見ると、私たちの心が動揺します。たとえば、「教会に行って、主を礼拝しても、何も変わりはしなかった。一方、神の事なんか忘れて、自分のことばかりを考えて、気ままに生きている人が、結構、うまく生きている……自分はとんでもない無駄なことに力を使っていたのではないか……」と思うことがあるかもしれません。
そのようなときにこそ、「その道で栄え、悪意を遂げる人に対して熱くなるな。怒りを手放し、憤りを捨てよ。熱くなるな。それはただ悪への道だ。なぜなら、悪を行なう者は断ち切られるからだ。主(ヤハウェ)を待ち望む者、彼らは地を受け継ぐ」(8-11節)という勧めを心から味わうべきです。
神は最終的に、私たちの誠実さに豊かに報いてくださいます。その報いは、多くの場合、この地において既に与えられます。カール・マルクスは、「宗教は、なやめるもののため息、非情な世界の情であるとともに、無精神の状態の精神でもある。それは人民のアヘンである。人民の幻想的な幸せとしての宗教を廃棄することは、人民の現実的な幸せを要求することである」と言いましたが、聖書の信仰は、決して、幻想的な幸せを提供することによって、この世の不条理を忘れさせ、この世の不条理を変えようとする気力を失わせる麻薬ではありません。
神に信頼する者が、既にこの世において真に幸せであることは偽りではありません。たとえば、16節では、「正しき者の持つわずかなものは、多くの悪しき者の豊かさにまさる」と記されています。
実際、驚くべき大邸宅に住みながら家族が互いに憎み合い、いっしょに食事もできないという例は数多くあります。しかし、昔は、六畳一間に両親と三人の子供が一緒に暮らして、笑い声が絶えないという家庭もありました。
この詩篇では、「悪しきはいなくなる……滅びる」(10,20節)とその繁栄のはかなさが繰り返される一方で、「柔和な者……正しき者」が一時的に虐げられ、貧しくなり、損をしているように見えたとしても、彼らこそが「地を受け継ぐ」(11,22,29節)という対比が繰り返し表現されます。
それはたとえば、22節では、「まことに主に祝福された者は地を受け継ぐ。しかし、主にのろわれた者は断ち切られる」と端的に記されています。
また27-29節でも、「悪を離れ、善を行なえ。するとあなたは永遠の住まいを得る。なぜなら、主(ヤハウェ)はさばき(正義)を愛し、ご自分の聖徒(契約の者)を見捨てられないからだ。彼らは永遠に守られる。しかし、悪しき者どもの子孫は断ち切られる。正しき者は地を受け継ぎ、いつまでもそこに住みつく」と記されます。
ところで、ダビデは自分の体験として、25節で、「若かった時も、年老いた今も、私は見たことがない。正しき者が見捨てられ、その子孫がパンを乞うのを」と記しますが、歴史上、正しい者が見捨てられるということは数えきれないほど起きていますし、無実の罪を負わされた者の子孫が飢え死にするということもありました。
しかし、私たちはイエス・キリストの十字架と復活を見る時に、すべての大逆転を知ることができます。イエスはまさに何の罪のない方なのに、神と人から見捨てられた状況になりました。そして、イエスご自身も、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。しかし、神はこの方を三日目によみがえらせてくださいました。
見捨てられたと思った体験は、永遠の祝福の始まりとなったのです。
ですから、私たちは主に祈ることを諦めてはなりません。主はあなた個人に目を留めておられます。そして、たとえ一時的に失望することがあったとしても、神の真実を実際に体験することができます。
そのことが30節では「正しき者の口は知恵を語り、その舌は、さばき(正義)を告げる」と記されます。それは体験に基づいた証しであり、そこでの「さばき」とは、主の公正なご支配の現実を「告げる」ことです。
さらにそれが34-36節で、「主(ヤハウェ)を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。あなたは悪しき者が断ち切られるのを見る……」という勧めと証しとしてまとめられます。
4.「完全な人に目を留め、まっすぐな人を見よ。」
37、38節では、「完全な人に目を留め、まっすぐな人を見よ。平和(シャローム)の人には将来がある。しかし、そむく者は、相ともに滅ぼされる。悪しき者どもの将来は断ち切られる」と記されますが、この「完全な人」とは、イエス・キリストを預言的に指すことばでもあります。
私たちは自分の誠実さが報われないことに苛立ちを覚えますが、誰よりも誠実なイエスが「のろい」のシンボルとしての十字架にかけられたのです。しかし、それは神との平和、人と人との平和を作り出すための不思議な神のご計画でした。イエスこそは「平和の人」でした。
そして、私たちもイエスに習って、平和の人として生きるように召されています。しかも、私たちはイエスを見る時に、「平和の人には将来がある」という希望に生きることができるようになります。
それにしても、私たちは自分を見る時、「完全な者」とは程遠い状態にあると思わざるを得ません。18節などでは、「主(ヤハウェ)は完全な者の日々を知っておられ、彼らの受け継ぐものは永遠に残る」と記されますが、「それでは私は何も受け継ぐことはできない……」と思ってしまいがちです。
しかし、ヘブル語の「完全」とは、罪のない完璧さを指すことばではなく、神の御前に献げるいけにえとしての基準に達しているという意味です。私たちはすでに、イエスの十字架によって罪が赦され、神に受け入れられている存在です。
ですから、この「完全」ということばは、十字架を通してみるときに、「正直」と再解釈することができます。神は自分の罪深さを正直に認め、自分を正当化しない人をこそ「完全な人」として受け入れてくださるのです。
それはこの詩篇で繰り返される「正しき人」という場合も同じです。パリサイ人は当時、社会的には「正しき人」の代表者でした。しかし、イエスはルカ18章9-14節で、「自分は正しいと確信して、ほかの人々を見下している」ようなパリサイ人を罪に定め、「自分の胸をたたいて」「神様、罪人の私をあわれんでください」と祈った取税人が神の前に義と認められたと言われました。
パリサイ人は偽善者の代表でした。それは彼らが本当の意味で、神の救いを心から慕い求めていなかったからです。彼らは自分の正義が自分を幸せにすると思っていましたが、信仰の基本とは、自分の欠けを認めて神にすがることに他なりません。
39,40節では、それを前提に、「正しき者の救いは、主(ヤハウェ)から来る。主こそ苦難の時の彼らのとりで。主(ヤハウェ)は彼らを助け、解き放たれる。悪しき者どもから解き放ち、救われる。それは、彼らが主に身を避けるからだ」と記されます。
「救い」は、自分で獲得するものではなく、「主(ヤハウェ)から来る」ものです。私たちにできることは、ただ、「主に身を避ける」ということです。どこかで、私たちは「救い」を、功績に対する報酬と見てはいないでしょうか。主はあなたの「誠実」に確かに報いてくださる方ですが、それを自分の功績と思ったとたん、私たちはイエスから非難されたパリサイ人に成り下がっています。
ですからイエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものです……柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからからです」(マタイ5:3,5)と言われました。それこそこの詩篇の要約とも言えましょう。そこでの「柔和な者」とは、悪しき者が狡猾に手に入れた権力を行使して、自分の地上の富を増し加えているような状態と対照的な生き方です。
しかしイエスは、「我(が)を張らない」柔和な人こそが、地を受け継ぐと言われました。それはこの世の論理とは逆です。それは、神が私たちの誠実さを見ておられるからです。
そして、イエスに従う者が「地を受け継ぐ」という約束は、黙示録20章4節では、「彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた」という記述にも現わされています。
この目に見える現在の世界では、誠実さが報われず、非業の死を遂げざるを得ないことがありますが、神は私たちを死者の中からよみがえらせ、この地上の平和の世界に住まわせてくださいます。
神はこの地を愛し、私たちをこの地を受け継ぐ者としてくださったということの最終的な世界が、千年王国として実現されると考えることができます。
もちろん、私たちは、人から不当な仕打ちを受けたと感じる時には特に、自分の誠実さを、自信を持って訴えるようなこともありますが、一人静かに自分のすべての歩みを振り返る時、自分の不誠実さを恥じ入らざるを得なくなるのではないでしょうか。
しかし、神の前に「完全な者」とは、自分の不完全さを正直に認め、神にすがる人です。それは、しばしば、親の目には、できの悪い子ほど可愛く映るのと同じかもしれません。私たちは、この世的な「正しさ」とか「完全さ」の枠を超えて、この詩篇を味わう必要があります。
この世の損得勘定や人の評価を超えて、神の眼差しのみを意識して、この詩篇全体を心から味わうべきでしょう。特に、人に裏切られと感じ、自分の将来に失望している人は、この詩篇を声に出して味わうべきです。全体を通して読むときに、不思議な慰めと希望が生まれます。
これこそ、山上の説教の背後にあったイエスの愛唱詩篇ではないでしょうか。そして主は、この詩篇を生きる人のことを、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ5:9)と言われたのではないでしょうか。