詩篇92篇「あなたの御手のわざを私は喜び歌います」

2018年7月22日

「機械の一時停止ボタンを押すと、機械は停止する。しかし、人間の一時停止ボタンを押すと、人間はスタートするんだ」と、世界的企業に倫理とリーダーシップを助言しているダブ・サイドマン氏が説いているとのことです。

続けて、「つまり、じっくり考え始め、思い込みを洗い直し始め、なにが可能であるかについて考えを組み立て始める。もっとも重要なのは、心の底に根付いている信念と、ふたたび結びつき始めることだ。そうなったときに人は、より優れた道をあらたに想像しはじめる」と記しています。

そして、「だが、もっとも肝心なのは、『一時停止の時になにをやるかだ』、19世紀の米国の思想家のラルフ・エマーソンが『立ち止まるたびに、私は使命を聞く』と言ったことを引用しています。

私たちの心の底に根付く信念とは、天地万物の創造主ご自身から啓示された、神のご支配の現実かと思います。「安息日を守る」こととは、一週間に一度、神の御前に静まり、自分を駆り立てているこの世のプレッシャーから自由になるときです。(「遅刻してくれてありがとう」からの引用)

世界は2007年から加速度的に変わり始めたと言われます。その年に初めに、i-phoneが発売されました。その後、世界のコミュニケーション手段は驚くべき変化を遂げ、今や、技術の発展に、人間の適応力が追い付かない状況になっています。しかし、そんなときこそ、人は何のために生き、何に向かって生きるのかという原点に立ち返るべきでしょう。

厳格なユダヤ教徒は、安息日にテレビも見ませんしi-phoneを触るようなことは決してしません。出エジプト記353節に「安息日には、あなたがたの住まいのどこであっても、火をたいてはならない」と記されていますが、それを電気の使用に適用して考えるからです。それでも困る場合は、安息日用のランプなどがあります。

もちろん、食事のための煮炊きや洗濯などは絶対にありえません。それは明確な労働だからです。それが仲間の間でも共有される原則となるとき、社会が変わり始めます。

多くのヨーロッパ諸国では日曜日は基本的に店が閉まっています。日本では、スポーツクラブでさえ24時間営業に変わってきています。私たちは立ち止まって、再スタートする必要があります。

1.「安息日を守って、これを聖なるものとせよ。」

この詩には「安息日のための歌」という標題がついていますが、これはヘブル語聖書ではただひとつのものです。伝統的には、週の初めから24,48,82,94,81,93,92篇という順番で読まれたとも言われます。

週の初めの日が24篇の始まりの創造賛歌、「地とそこに満ちているもの 世界とその中に住んでいるもの それは主(ヤハウェ)のもの。主が 海に地の基を据え 川の上に それを堅く立てられたからだ」から始まっています。

そして、四日目の中日は94篇で、神の公平なさばきへの訴えが、「復讐の神 主(ヤハウェ)よ 復讐の神よ 光を放ってください 地をさばく方よ 立ち上がってください。高ぶる者に報復してください。主(ヤハウェ)よ いつまでですか 悪しき者が いつまでですか 悪しき者が勝ち誇るのは」と歌われます。

そして、安息日の前日には詩篇93篇によって主のご支配が、「(ヤハウェ)こそ王です。威光をまとっておられます・・・まことに 世界は堅く据えられ揺るぎません あなたの御座は いにしえから堅く立ち」と歌われます。

このような流れの中のクライマックスとして92篇を理解するとこの詩はより味わい深いものになります。 

   ユダヤ人の伝承の中では、「ユダヤ人が安息日を守ったというよりは、安息日がユダヤ人を守ってくれたのである“More than the Jews have kept the Sabbath, the Sabbath has kept the Jews.”」と言われます。ユダヤ人たちは約二千年前に世界中に散らされ、それぞれの置かれた国のことばで生きてきましたが、安息日の礼拝はヘブル語でなされてきました。安息日は、すべてのユダヤ人が日常の仕事を離れて、家族がともに集まって、主のみわざを歌い、心から喜びました。それによって彼らはユダヤ人としてのアイデンティティーとことばを守り続け、今から、七十年前に、ヘブル語を国語とする国が誕生しました。

これは世界の不思議です。残念ながら、ヨーロッパのキリスト教国ではユダヤ人が迫害され続けてきました。その反動で、現代のアメリカではユダヤ人が優遇されすぎているという見方もあるようです。

しかし私たちは、神の啓示がまずアブラハム民であるイスラエルの民になされ、私たち異邦人がそこに接ぎ木されたという歴史を忘れてはなりません。ユダヤ人の歴史を軽蔑する者は、神のみわざを軽蔑することになりかねません。

   ユダヤ人の安息日律法の解釈の行き過ぎは、イエスご自身が批判しておられますが、キリスト教会の伝統ではそれが別の極端を生んだ面があるかもしれません。安息日は神の御教えの最もユニークなものですが、ユダヤ人の安息日の過ごし方を見ると、私たちは、常に休みなく、駆り立てられるように働き、何かを成し遂げようとする現代の世俗文化の行き過ぎを反省することができるのではないでしょうか。

安息日の教えは、「十のことば」のまさに真ん中に位置し、出エジプト記20章では次のように記されています。

   「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主(ヤハウェ)の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。

それは(ヤハウェ)が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主(ヤハウェ)は安息日を祝福し、これを聖なるものとした」(8-11節)。

 ここでは、安息日を守るべき理由が、「主(ヤハウェ)が六日間で・・すべてのものを造り、七日目に休んだから」という不思議な理由が記されます。それは、何よりも、人が「神のかたち」「神の似姿」に創造されたので、神のリズムの中で生きるべきという教えです。つまり、人間らしく生きるためには、週に一度の休日が必要なのです。

しかも、そこには今から三千年前の世界の「奴隷」をも含まれています。なお、そこではさらに「家畜」も休ませるように命じられています。この規定に従うなら、牛乳も卵も、コレステロールの少ないものになっていることでしょう。家畜を機械のように扱う文化が、人間を「社畜」(会社の奴隷)にしてしまいます。

   ところで安息日の教えは申命記版の「十のことば」では次のように記されています。

「安息日を守って、これを聖なるものとせよ。あなたの神、主(ヤハウェ)が命じたとおりに。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主(ヤハウェ)の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中にいる寄留者も、そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。

あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主(ヤハウェ)が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主(ヤハウェ)は安息日を守るよう、あなたに命じたのである」(5:12-16)。

申命記版は出エジプト版よりも五割余りも長いのに、神による創造のみわざが省かれている一方で、家畜の具体名が「牛」「ろば」と記され、「男奴隷や女奴隷」ということばが二回繰り返され、彼らが「あなたと同じように休むことができる」と強調されます。そして、主の御わざが、エジプトでの奴隷状態からの解放として描かれます。

つまり、出エジプト版では「主(ヤハウェ)が・・七日目に休んだ」ことに倣うように命じられる一方で、申命記版では、奴隷状態からの「救い」が強調され、それを奴隷や家畜に適用することが求められているのです。

イエスが敢えて安息日を選んで、38年間も病気で歩けなかった人や、生まれつき盲目の人を癒されたのは、安息日を真の「喜びの日」「栄えある日」(イザヤ58:13)として回復するためだったのです。

そして、詩篇92篇は、申命記版の安息日の教えをよりよく反映しているものと言えましょう。

2.「麗しいことよ 主(ヤハウェ)に感謝すること 御名をほめ歌うこと」

詩篇92篇の冒頭のことばは、「麗しいことよ」または「良いことです」という描写から始まりますが、それは1-3節全体を指してのことです。神の目に何よりも「麗しい」ことは、「主(ヤハウェ)に感謝」し、主の「御名をほめ歌う」こと、また主のご性質である、「慈愛(ヘセド、恵み、契約の愛)」と「真実(エメット)」を、「十弦の琴」や「竪琴の調べにのせて歌いながら」、「朝に」また「夜ごとに」、「宣べ伝える」ことであるというのです。

敬虔なユダヤ人は、「安息日」には、電車にも乗らず、旅行もせず、買い物もせず、料理もせず、勉強もせず、筆記用具を持ちあることさえしません。ただ、前日に用意された食事を家族や友人、貧しい人を迎えて、友に喜び、また歩いてゆける近くの会堂に集まって、ともに主を礼拝します。

その中で、彼らが積極的にすることは、楽器を奏でて、主に感謝し、主がどのような方であることを歌いながら、互いに宣べ伝えることです。

そして、その理由を改めて、「それは私を喜ばせてくださったから」と言いながら、「喜び」の原因を、「主(ヤハウェ)よ、あなたがのなさったことで」と述べます。これは、私に対しての個人的な働き以上に、出エジプトの救いから始まるすべての主の働きを指すと思われます。

イスラエルの民は、歴史上の神のみわざを、自分自身に対するみわざと受け止め感謝します。それは私たちにとっては、イエスの十字架と復活です

続けて、「あなたの御手のわざを 私は喜び歌います」と記されます。これは、天地万物を創造された神のみわざから、歴史上のすべての神のみわざに当てはまると解釈できましょう。とにかく、イスラエルの安息日になされる民の働きは、日常的な仕事でも、お勉強でもなく、「御手のわざを・・喜び歌う」(4)ことなのです。

私たちは日々の生活の中で、何か自分が達成したものを喜び、誇りがちですが、主にとって最も「麗しい」ことは、様々な楽器を奏でながら、主ご自身を、主のみわざを喜び歌うことなのです。私たちはこの世の常識から自由になり、真に神にとって「麗しいこと」が何なのかを繰り返し考え直す必要がありましょう。

著者は引き続き、「何と偉大なことでしょう 主(ヤハウェ)よ、あなたのみわざは」(5)と、主を賛美しますが、これは4節bの「御手のわざ」を受けての賛美です。そこには天地創造のみわざから歴史に現わされたすべての「みわざ」が含まれていると思われます。

そして続けて、「あなたの御思い(構想 designs)は あまりにも深いのです」と告白されますが、それは宇宙や地球環境の不思議から、神がひとりのアブラハムから神の民を創造しようとされたすべてに関わります。

そして6節では、「粗野(無思慮、鈍感)な者は知らず 愚か者には これが分かりません」と描かれますが、これはこの世の多くの人々の現実です。人はしばしば、目の前の課題や、仕事や人間関係ばかりに目が向かって、この世界が神の不思議で満ちていることを忘れてしまいがちです。朝起きて、日が昇っていて、花が咲いていて、空気や水の心配もせずに、電車に乗って職場に向かったり、水道の蛇口を空けたらすぐに水が出てくるということ自体が、神の圧倒的な恵みであることを私たちは忘れがちです。

この社会では、「粗野(無思慮、鈍感)な者」である方が、傷つかずに済む?かもしれませんが、それでは神と人との真の心の交わりは生まれません。この世的には知性が高いように見えても、「すべてのことが当たり前ではない・・」ことに気づかない者は、「愚か者」に過ぎません。

引き続き7節では、「悪い者が 青草のように萌え出で 不法を行う者が みな花を咲かせているときも それは ただ 永久に滅ぼされるためです」と記されますが、それは私たちの周りにしばしば起こる不条理に対する解決です。

私たちは「正直者がバカを見る」という現実や、誠実さよりも、交渉力で成功をつかんできた人々を見て、人の気持ちを気遣って損をしてしまう自分を責めることすらあるかもしれません。しかし、神は不誠実な者を、時が来たら必ずさばいてくださいます。彼らの生涯は、驚くほどはかないものです。

なお、私たちは神の公平なさばきが見えないとき、たとえば詩篇94篇などを用いて、神に自分の気持ちを訴えることが許されています。天国地獄という死後のさばき以前に、この地での正義の実現を求めることができます。

3.「主(ヤハウェ)は真っ直ぐな方 私の岩 その方には 偽りがない」

8節の「あなたは 主(ヤハウェ)よ 永遠に いと高き所におられます」という告白こそは、この詩の中心点です。それは続く93篇でより詳しく描かれています。神は、この世界を超えた、はるかに高い「御座」からこの世界のすべてを支配しておられます。

私たちは、「神が全世界を治めておられるなら、なぜこのような異常気象や自然災害が起きるのか?」と思いがちですが、火山活動で生まれた日本列島の上で、ほとんどの日々を平穏のうちに暮らしていること自体が不思議とも言えます。

たとえば創世記の記事よりもはるかに新しい日本の古事記においては「伊邪那美神は、火の神を生みたまいしに因りて、遂に神避りたまいき」と描かれますが、これは、伊邪那岐、伊邪那美の夫婦神が日本列島を生み出した最後に、火山を産んで、伊邪那美は自分が生んだ火の神によって火傷して、黄泉の国に行ったという神話です。つまり、火山活動は、神々にも制御できないばかりか、神をも死に至らしめるものと見られているのです。

それに対し、古事記の二千年近くも前に記されたこの詩篇では、神がこの世界の天変地異をはるか上から支配し、それによってご自分が傷つくこともないないばかりか、ときおりの自然災害によって、すべてが平穏に守られているのが当たり前ではないことを時折示し、すべてを支配するご自身の力を私たちに見せておられると記されています。

9節は、先の7節に対応し、神の敵が、目の前で、「今」たちどころに「滅びる」ようす、また「不法を行う者」が、徒党を組んで横暴を働いているようでも「みな散らされます」と、さばきの確かさが宣言されます。

1011節は4-6節に対応します。そこでは、神のご支配に信頼する「私」の力の象徴である「角」を「野牛」の角のように高く上げ、「みずみずしい油」が「私」に注がれたことを喜んでいます。これらの箇所では「私」という個人的な視点が強調されます。

著者は、目の前に自分に計略を謀り、追い落とそうとする者の敗北のようすを心の目で「眺め」、徒党を組んで自分に攻撃を仕掛けようと迫って来る「悪人ども」が、神によって「散らされる」ようすを「聞き」ながら、神にあって平安を保つことができています。これらの箇所を通して、神の救いのみわざは今ここで、現実的に、自分の感覚で味わうことができると強調されています。

12-15節の表現は1-3節に対応します。そこでのテーマは、神の「慈愛(ヘセド:変わらない契約の愛)」と「真実(エメット:アーメンと同根のことば)」でした。それに感謝し、賛美する者が、神の目に「正しい者」と見られ、その人の人生が祝福される様子が、「正しい者は なつめ椰子(やし)の木のように萌え出で レバノンの杉のように育ちます。主(ヤハウェ)の家に植えられた者たちは 私たちの神の大庭で 花を咲かせます。年老いてもなお 実を実らせ 青々と 生い茂ります」と描かれます。

ある宣教師は、自分の働きは終わったと思って年金生活に入ろうと思っていた矢先に、日本の教会の英語部の働きへと招かれ、このみことばによって、主の導きを確信したと言っておられました。この世界では、65歳で定年を迎えることが一般的ですが、福音の宣教の働きのためへの召しには、定年はありません。

ここでの「なつめ椰子」とは中東地域では最も古くから栽培されていた食べ物で、その実のデーツは遊牧民にとっての主食でもありました。聖書に登場する「いのちの木」とは「なつめ椰子」ではないかと言われるほど、生命力が豊かです。また「レバノンの杉」も非常に高く伸び、良質の木材として神殿にも思いられました。

そして、「主(ヤハウェ)の家に植えられた者たち」とは、神の民の全体の誕生を指しますが、彼らが「私たちの神の大庭で 花を咲かせる」とは、神の民が自分たちの子孫の繁栄を喜ぶ様子を描いたものです。

そして、私たちは年齢を重ねるとともに、体力が落ち、判断力も鈍くなり、肌もカサカサしてきますが、ここでは神に信頼する者が、神からの力を受けて、「年老いてもなお 実を実らせ 青々と生い茂ります」と、神にある生命力の豊かさが描かれます。 

15節は「それは、『主(ヤハウェ)は 真っ直ぐな方 私の岩 その方には 偽りがない』と告げるためです」と訳せます。新改訳の「正しい方」とは「真っ直ぐな方」とも訳せ、神の公平なさばきの「真っ直ぐ」さを描いています。

私たちは、誠実な生き方が評価されず、神に逆らう者がこの世で繁栄するようすを見て、「教会の礼拝に出席しても、時間の無駄にすぎないと思えることがありますが、神はものごとを「真っ直ぐ」に見てくださる方です。

しかも、神は私たちがより頼むべき堅い「岩」のようなお方で、「その方には偽りがない」と、私たちも心から認めることができる方です。神のご支配の現実は、やがてすべての人の目に明らかになります。そこには一貫性があり、目の前の状況によって、みこころが変わるというようなことはありません。

私たちは安息日を守ることによって、「神のかたち」としての生き方に立ち返ることができます。自分も人も、神の最高傑作であり、同時に、非常に傷つきやすく、壊れやすい繊細な生き物であるという原点に立ち返ることができます。

私たちはだれも、自分ひとりで生きて行くことはできません。神の愛のご支配の中で、互いに助け合いながら生きるように召されているのです。私たちは安息日のたびごとに、神の創造のみわざとイエス・キリストによる贖いのみわざに立ち返ります。それを通して、この十年間にどれだけ世界が変わったかを見ながらも、「神のかたち」としての人間の心の渇きや心の満足が、四千年間にわたって、基本的に何も変わってはいないことに気づかされます。

「日の下に、新しいことは何もない」(伝道者1:9)と言われた原則が今も生きています。新しいことばかりに目を向けずに、「神のかたち」として創造された人間としての、最も人間らしい生き方とは何なのかということに安息日ごとに立ち返ることができれば幸いです。

イエスは安息日を守ることに熱心なあまり人を苦しめているパリサイ人に向かって、「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子は安息日にも主です」(マルコ2:27,28)と言われました。

現代の多くのクリスチャンは、安息日をあまりにも軽視し過ぎて、この世のリズムに呑み込まれ、「地の塩、世の光」としてのユニークさを忘れているように思えます。

安息日を守ることが私たちに様々な不自由を生み出すのではなく、安息日を守ることで真の人間性を回復することができるという観点から、安息日の創造的な守り方を考えてみてはいかがでしょう。

それは、何よりもイエスの視点からこの世界と周りの人々を見ることから始まります。イエスこそが「安息日の主」なのですから。