ナチスドイツの虐殺収容所アウシュビッツを生き残ったユダヤ教のラビに、ある人が、「あなたはあれほどの残虐を見過ごしておられる神を、まだ信じられるのですか?」と聞いたそうです。するとそのラビは、悲しそうな顔をしながら、静かに一言、「あれほどの悲惨がこの世界にあるのに、あなたは神を信じずに、どうして生きていられるのですか?」と反対に問われたとのことです。
私たちは多くの場合、途方もない悲惨に出会った時、その原因を知ることは許されていません。それをあえて説明できる人々から誤った宗教が生まれます。私たちは、このコロナ禍をはじめ、様々な悲惨の中でどのように生きるかが問われています。この世界には闇が満ちていますが、神は私たちを通してご自身の栄光を現わすことができます。それは、人間はすべて「神のかたち(イメージ)」に創造されているからです。
三位一体論の正統教理を守るために用いられたアタナシウスは、「神のことばが人となったのは、私たちを神化させるためである」という不思議な ことを言いました。「神化」とは、「神のご性質にあずかる者となる」(Ⅱペテロ1:4) という意味です。
ヨハネによる福音書の最初には「初めにことばがあった」と記されますが、「ことば」のギリシャ語は「ロゴス」と記されています。それはギリシャ人になじみ深い論理、原理、法則などとも訳せる高貴なことばですが、ヨハネはこれは神がご自身のことばで世界を創造されたという「ことば」の意味で用いています。これは人となる前のイエスの呼び名として記されています。
最初に、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」と記されますが、これは神の御子イエスこそが、父なる神と世界を創造された方であるという意味です。
つまり、ここでは、太陽の創造主、全宇宙の創造主ご自身が、私たちと同じひ弱な人間となられ、神がどのような方かを知らせてくださったということが何よりも強調されているのです。
そのことが18節で、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が神を説き明かされたのである」と記されます。「ひとり子」の原語には、「ただ一人生まれた方」という意味があります。イエスは世界の始まる前に父なる神から唯一生まれた方であるという意味で、「ひとり子の神」と呼ばれます。
私たちは太陽のそばに近づくと一瞬のうちに蒸発してしまいます。しかし、今、太陽の創造主、「ことば」と称される方が、ご自身の栄光、御力、輝き、その他、私たちを圧倒する恐ろしさを隠した「人になって」、弱い肉体の姿になることによって、「私たちの間に住む」ことが可能になられたというのです。「住む」ということばはもともと「幕屋を張る」という意味のことばで、神がかつて契約の箱を入れた「幕屋」によってイスラエルの真ん中に住んだと同じように、神は今、イエスという肉体の幕屋を通して、私たちの間に住まわれるという意味です。
ところで、そこでは続けて、次のように記されています。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」
これは、イエスを見る者は、「主 (ヤハウェ) の栄光」についての観念が変えられるということではないでしょうか。
かつて、主がシナイ山に下りて来られた時、「煙は、かまどの火のように立ち上り、全山が激しく震えた」(出19:18) と描かれ、だれも山に近づくことができなくなりました。また、主の御声を聞いたイスラエルの会衆は、「私たちは火の中から御声を聞きました……この大きい火が、私たちをなめ尽くそうとしています。もしこの上、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません」(申命記5:24、25) と言いました。
しかし、その後、モーセが、イスラエルの不従順に悩み、主がともにいてくださることのしるしとして、「あなたの栄光を私に見せてください」と願った時、主はモーセを岩の裂け目に隠しながら、彼の前を通り過ぎる時に、「主は、われみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富む」とご自身を紹介されました (出34:6)。
ですから、イエスに見られた、「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」とは、モーセに知らされた、主ご自身の、「恵みとまこと」こそが、私たちがイエスを通して見るべき、最も大切な神のご性質なのです。
「恵み」とはヘブル語でヘセドと記されますが、それは翻訳困難なことばで、神の真実さ、神がご自身の約束を守り通してくださるという意味を現わしています。また「まこと」とはヘブル語でエメットと記され、これはアーメンと同じ語源のことばから生まれています。これも主のご真実を現わす言葉です。主は決して私たちを裏切ることなく、主のことばは永遠に信頼できるものであるという意味を示します。
つまり、イエスを通して明らかにされた「栄光」とは、私たちを怯えさせ、委縮させ、恐怖で圧倒するようなものではなく、私たちを父なる神のみもとに導く真実、優しさであるというのです。
昔、私は、主の栄光が現されるということを、どこかで、だれの目にもわかる人を感心させるような「栄光の輝き」のように考えていました。しかし、あるとき、詩篇69篇20節のみことばが心に迫ってきました。
そこにはダビデの心の葛藤が、「そしりが私の心を打ち砕き、私はひどく病んでいます。私は同情者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした。彼らは……私が渇いたとき酢を飲ませました」と描かれていました。そしてイエスは十字架上で「わたしは渇く」とおっしゃいましたが (ヨハネ19:28)、それこそこの詩篇からの引用のことばでした。それは、私たちと同じ肉体を持たれた神の御子は、私たちと同じように傷つきやすい心をお持ちになったという意味として理解できます。まさにイエスは十字架の上で何よりも「愛に渇いておられた」と言えましょう。
それを通して私は、イエスを通して現わされた「主 (ヤハウェ) の栄光」とは、その「愛への渇き」とセットにある「優しさ」として表現できることが分かったのです。なぜなら、イエスはご自身に傷つきやすさを通して、人の傷つきやすさを実体験し、そこから「優しさ」が生まれるからです。それこそが、イエスに見られた神の「恵みとまこと」と言えましょう。それこそが神の栄光の現れでした。
このキリストの姿に習った人に、ダミアン神父がいます。彼はベルギー生まれの司祭で、ハワイに遣わされていました。ハワイ島で任された教会で誠実に仕えて10年たった頃の1873年の事ですが、ハワイでハンセン病が広がり、隔離政策が非常に厳しくなりました。ハンセン病と診断された人は、すぐにモロカイ島という孤島に送られることになりました。
そこで、彼の教会の祭壇を花で飾ってくれている忠実な信者が、病を発症し、その離れ小島に送られることになりました。彼は、港に彼女を見送りに行き、彼女のために祝福を祈ろうとしました。
すると、彼女はダミアンの手を払いのけて、「祝福なんていらない。私はもう祈ろうとも思わない」と言いました。彼女は続けて、「神が私を見捨てたから、私も神を見捨てる」と泣いていました。
ダミアンは、「違う、神様は決してあなたを見捨てたのではない」と言いましたが、彼女は、「それじゃ、どうして神父さんがひとりもいない島に、私たちを送るようなことをするのか。死を待っている病人にこそ、神父が一番必要ではないですか。私たちの魂の救いはどうなるの」と叫びました。
ダミアンは、それを聞きながら、「神様から見捨てられたと思う痛みを誰よりもお分かりになるイエス様、どうして黙っておられるのですか。何とかできないのですか」と必死に祈りました。
しばらく祈った後、不意に彼は啓示を受けたように顔を上げました。彼の心に、「僕がモロカイ島に行けばよいのだ……こんな単純なことに、なぜ今まで気づかなかったのだろう……」という考えが閃いたからです。
そして、「モロカイ島に行こう。神様が彼らを見捨てられたのではないということを証しするために。何というすばらしい使命が自分を待っているのだろう」と思いながら、とっても幸せな気持ちになったとのことです。
しかし、それからの修道会や役所との交渉が非常に大変だったばかりか、それが英雄的な行為として称賛される一方、当時の社会システムを破壊する身勝手な行為として様々な非難も受けました。
ようやく島に派遣され、働きを始めることができましたが、島に到着して七か月がたっても、ダミアンに叫んだ女性は教会に来ませんでした。しかし、彼女は、自分の死が間近に迫ってきたときになって、ようやくダミアンに使いを送ってきました。
彼がそこを訪ねると、彼女は、「私は二度と祈るまい』と心に決めていたので、教会に来られなかった。でも、最後にやはり祈ってもらいたくなった。神は私を赦してくれるかしら」と尋ねました。
ダミアンは、「君は神様から離れていたんじゃない。祈るまいと決めてから、どんなに苦しかったろうね。言葉にしなくても、その苦しみは立派に、君の祈りだよ。だから何も心配しなくていい」と答えました。
それを聞いた彼女は、「神は私をお見捨てにならなかった。あなたがそれを証ししてくれました」と言って、ほんとに平安のうちに息を引き取ったとのことです。
ダミアンはその後、徹底的にハンセン病の方に触れあう介護を続け、やがて彼自身もハンセン病に犯されます。彼はその病を、「神からの勲章」と呼んで、自分も真の意味でハンセン病の仲間となることができたと言って喜びました。
そのとき以来、カトリックのシスターたちが入島して来て、支援に加わります。
後にこの島を訪れた文豪スティーブンソンは次のような詩を読みました。
ライの惨ましさを一目見れば、愚かな人々は神の存在を否定しよう。
しかし、これを看護するシスターの姿を見れば、愚かな人々さえ、沈黙のうちに神を拝むであろう。
ヘロデが大拡張工事を行なった神殿には一度も「主 (ヤハウェ) の栄光」が現れることはありませんでした。当時のユダヤ人たちは外面的な荘厳さによって、神の栄光を現そうとしていました。しかし、神の栄光はイエスを通して現されました。それは徹底的に社会的弱者に寄り添うということを通してでした。
また、現代も、「神の栄光」というのは、だれもが称賛する偉大な働きというよりは、人々の誤解や中傷を受けながら、ダミアンのように、「神は私たちとともにおられる」(インマヌエル)という真理を、徹底的に目の前の人の心に寄り添うことの中にこそ現されるのです。
この世界は、何よりも愛に渇いています。そして、人を愛するとは、傷つくことでもあります。心の傷を受けることを避けようとすると、人に関わることができなくなります。
しかし、私たちは傷を負う中でこそ、イエスの慰めを受けることができます。それこそが神の栄光を見るということではないでしょうか。事故で首から下が動かなくなった星野富弘さんは次のように神を賛美しています。
わたしは傷を持っている でも その傷のところから あなたのやさしが しみてくる
私たちはダミアン神父のような偉大な人の話を聞くとき、その人が特別な聖人として選ばれたかのように思いがちです。しかし、そうでしょうか。
ヨハネの福音書1章12節では、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ神によって生まれたのである」と記されています。つまり、クリスチャンになるとは人間の意志という以前に、神である聖霊の働きなのです。たまたま聖霊がこのダミアン神父の中に働かれたのです。そして今、同じように創造主である聖霊は、あなたのうちに働き、あなたを神の働きのために用いてくださいます
創造主であるイエスが、私たちと同じ人間の肉の身体を引き受けられたのは、わたしたちのすべての人間性をご自身のうちに引き受け、それを造り変えるためでした。それこそが、アタナシウスが「神のことばが人となったのは、私たちを神化させるためである」と言ったことの意味でした。
今、創造主である聖霊があなたのうちに働いておられます。あなたの心にある闇が照らし出されたのは、「光」ご自身であられるイエスご自身があなたを照らした結果です。それを恐れる必要はありません。光の働きが隠されていた闇を明らかにしたに過ぎないからです。ですから、主の栄光は、この世的な成功体験ではなく、神と教会と愛し、傷つく中でこそ、体験できるものかもしれません。