世界各国で自国第一主義が掲げられていることの懸念が語られていますが、そのような動きが生まれる理由が、ヨラム・ハゾニー著「ナショナリズムの美徳」を読んで納得できました。もちろん、トランプ大統領の関税政策には日本を含め多くの国が悩まされており、私自身もそれに納得はできません。
しかし、それが「リベラル帝国主義」への反動と分析されると分かる気がします。本書はヘブル語聖書(旧約聖書)を愛するユダヤ人哲学者によって記されています。
彼はまず、西欧の民主主義の理念の背後に、完全に自由な完全に平等な個人が契約を結んで国家という制度を作ったはずという理想論があると述べます。確かに米国独立宣言にも以下のように記されています。またそれはフランス人権宣言にも共通の考え方です。
すべての人間は平等に創造され、創造主によって生命、自由、そして幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が設立され、その正当な権力は被統治者の同意に基づく。政府がこれらの目的を破壊するようになり、人民の権利を奪う場合、人民は政府を変更または廃止し、新たな政府を設立する権利を有する。
これ自体はとっても大切な理想ですが、たとえば昔の日本や現代のイスラエルという国がもともとこのような価値観によって建てられたと考える人はいないと思われます。
現実の固有の民族を中心核とした国民国家は「共通の歴史的記憶、言語、文字、儀式、境界を持ち、それを構成する者に対し、祖先との強い一体感と来たる世代が直面する運命への懸念を伝える」ものとして存在すると定義されます。そこでは何とも形容しがたい一体感のようなものが平和の基となっています。
ただそのような民族的な調和を軽視し、「個人の自由」という価値観を普遍的なものとして絶対化し、その基準で他国をさばくと問題が生まれます。僕の大学の友人には海外勤務の多い方が多数いますが、異口同音に「何といっても日本は住みやすい」と言います。この国の同調圧力には閉口することが多いですが、そのような感覚を再評価する必要があるかもしれません。
本書が出版されたのは2018年のことですが、それから何が起こったかを考えるとこの考え方が分かります。
ロシアのウクライナへの軍事侵攻は、絶対にあってはならないことですが、そのようにロシアを追いやったバイデン政権のネオコン(新保守主義)と呼ばれる「個人の自由」を普遍化した価値観の押し付けがあったという見方もあり得ます。
米国での製造業の衰退はグローバル市場経済の必然とも言えますが、バンス副大統領の自伝にも書いてありますように、それを放置できない現実があります。それはそこで苦しみ分断されていく具体的な家族の悩みです。
またパレスチナ国家承認が話題になっていますが、冷静に見るとあそこに国民国家はありません。ガザ地区をハマスというエジプトから発生したテロ集団が支配していることに何もできない無政府状態です。
ハゾニー氏は、リベラル帝国主義の問題とその対極にある無政府状態の問題を指摘します。そこでは一部の氏族や集団が不満を持つ個々人をリクルートして私兵集団を作り、自分たちの利害を暴力で守ろうとします。それはたとえばシリアの状況でした。問題の根本はイギリスとフランスが自分たちの都合で、民族の枠を無視した国境を作ったことにあるという面もあります。
実はヘブライ語聖書に記されていた国家観こそが、現代の国民国家の原点かもしれないと言われます。そこには神の最高の贈り物の律法によって、理想的な国ができることが望まれており、その結果として、周辺の国々が律法を持つ国に憧れをいだき、聖書を学びたくなるという流れが記されています。たとえばユダヤ人は、互いに対しては利子を取ることを禁じていましたが、異邦人からは利子を取ってお金を貸すような、民族の内外の明確な区別がありました。
大切なのは、律法を守る理想的な国をこの地上でまず目指すという足元を固めることから、神の愛を世界に広げるというプロセスでした。
その過程を無視して、聖書の価値観を全世界に広めるという民族を超えた神聖ローマ帝国のような普遍国家を目指したことが問題なのです。それがヒットラーのドイツ第三帝国の理想、大日本帝国の大東亜共栄圏という民族を超えた普遍国家観につながりました。そしてそれは第二大戦後、米国主導によるリベラル帝国主義につながりました。そこでは内側の矛盾を解決しようとする前に、米国の軍隊を送って基本的人権がふみにじられている国を正そうとするような姿勢につながります。そこで米国民自身が普遍的理想論に駆り立てられて命を失いました。
以下の詩篇84篇では、目に見える礼拝の場が大切にされています。これは普遍的な価値観を広めること以前に、目に見える教会の交わり、目に見える人と人との結びつきを大切にするという地に足の着いた愛の交わりに通じます。
詩篇84篇1–12節「主の大庭を恋い慕う」
この詩は神殿礼拝の喜びを大胆に歌ったもので、現代の礼拝でも頻繁に用いられる「讃歌」の一つです。1節の最初のことばは原文で、「なんと慕わしいことでしょう」という感動の叫びから始まり、その場が「あなたの住まいは 万軍の主よ」と描かれます。
2節の原文も、「恋い慕って 絶え入るばかりです。私のたましいは 主 (ヤハウェ) の大庭に向かって」と、感情を込めた表現となっています。
その上で、「雀さえも 住みかを 燕も ひなを入れる巣を あなたの祭壇のところに得ます」(3節) という表現は、一見、神殿が荒廃しているかのように思われるかもしれません。しかし、この文脈からすると、雀や燕でさえも、主の大庭に歓迎されているのだから、神の民とされている自分が歓迎されないわけがないという気持ちで、大胆に主の大庭を恋い慕っていると解釈できます。
4節は、「なんと幸いなことでしょう」という感動から始まりますが、これは5節、12節にも繰り返されるこの詩の鍵のことばです。そして、ここでは神の家に住む人たちの幸いを述べています。
ただ、神殿の庭は住居にはなりませんから、奉仕のため、または礼拝のためにいつでもそこに入れるほどに近くに住む人の幸いを述べたと言えましょう。現代の私たちも身近に、主を礼拝できる場が与えられていることは何よりも幸いです。
5-9節は、エルサレム神殿のあるシオンの丘への巡礼者の幸いを描いたものです。ここで興味深いことは、目的地に到達する以前に、その人の「力が」神のうちにあり、「心の中に 大路のある人」の幸いが歌われていることです。
私たちも「地上では旅人であり、寄留者であることを告白」せざるを得ませんが (ヘブル11:13)、今ここで、すぐに全能の神に祈って、神の力を受けることができます。私たちが「神の子」の立場にされる聖霊を受け、イエスに倣って、「アバ、父」と祈ることができるということ自体が、「心中に」、「天のエルサレム」に向けての「大路」を持っているということを意味します。
私たちは「涙の谷を過ぎるときも、そこを泉の湧く所」としていただくことができるのです (6節)。そして、私たちは「力から力へと進み シオンで神の御前に現れます」という、人生の目的地に到達することが保証されています (7節)。
私たちはときに、目の前の目標を達成することばかりに夢中になり、「旅人」としての人生を楽しむことができません。しかし、私たちは今ここで、「涙の谷」が「泉の湧く所」とされることを体験できるのです。神との交わりのうちに生きる結果が、目的地に結びついているのです。
10–12節は巡礼の目的地である「主の大庭」に到着した幸いを歌っているものとも解釈できます。現代の私たちにとっての「主の大庭」とは、自分たちが聖日ごとに集う礼拝堂とも言えるかもしれません。
ですから、「あなたの大庭にいる一日は 千日にまさります」という告白は、主をともに礼拝できる時間を、何よりの恵みのときとして感動できるものとすることの勧めとも言えましょう。
そこで、「悪の天幕に住むよりは 私の神の家の門口に立ちたい」(10節) とは、「この世の享楽のただ中に身を置くよりは、礼拝堂の最も心地悪い場に立っていたい」という意味にも解釈できます。そしてこの結論では、改めて、「万軍の主」に「信頼する人」の「幸い」が高らかに歌われています。
【祈り】主よ、あなたを礼拝することを、毎週の生活の中心に置くことができる幸いを感謝します。いつでもどこでも、主との交わりを第一として生きることができますように。