先日、中国において対日戦争勝利80周年の記念行事が行われ、習近平主席のもとで中国の軍事力が誇示されるとともに、ロシアのプーチン大統領、北朝鮮の金正恩総書記が並び立っている姿に、恐怖を覚えました。
実は、この三か国の連合は、東アジアにおける最大の脅威ですが、日本では自民党総裁を巡る駆け引きの方が、大きな話題になっています。
ウクライナが侵略されたようなことは、この東アジアでは起きないという楽観論が大勢を占めています。そのように多くの日本人が考えられること自体が、本当に幸せなことなのかもしれません。時代と状況によっては、三か国の連合に、過剰な危機意識が語られ、それが別の問題を引き起こすことになりかねません。
とにかく米国との友好関係と同時に、中国との友好関係を保ち、潜在的な脅威に落ち着いて対処できる日本の政治的な安定も問われています。
残念ながら、この世界では、お金と力を持つ者が、好き勝手にふるまっているように見えることが多々あります。そのような中で、目に見えない神に信頼しても、何の良いこともなかったという嘆きや不満が起きかねません。
詩篇77篇は、神の支配が見えない時の、最大の慰めになります。
詩篇77篇1–12節「慰めがないときの慰め」
最初の告白、「私は神に声をあげて 叫ぶ……神は聞いてくださる」(1節) とは、聖書を貫く信仰の公式のようなものです。
信仰とは、神との対話だからです。キリストですら、「大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました」(ヘブル5:7) と記されているとおりです。
ところが、ときに、私たちの叫び声がまったく神に届いていないように思え、この告白が心に虚(うつ)ろに響くことがあります。その混乱した気持ちを作者は、「苦難の日に 私は主を求め 夜もすがら たゆまず手を差し伸ばした。けれでも 私のたましいは慰めを拒んだ」(2節) と告白します。
以前、二人のお子さんを抱えて末期がんに苦む母親をお見舞いしたとき、彼女は「私は神に委ねることなどできません!」と言っていました。
しかし、どんな慰めも虚ろに響くように思える中で、「慰めを拒んだ」というこの祈りをともに祈らせていただいたところ、「こんな祈りがあるのですね……」とその方の表情が変わりました。
彼女は神に対して抱いている自分の怒りの気持ちを、神のみことばを用いて訴えることができたのです。その後、状況はかえって悪くなっているというのに、神との対話が豊かにされ、彼女の表情は不思議な平安に満たされてゆきます。
これに関してあるドイツの宗教教育学者は、「このことばは、あまりにも素早く、あまりにも安易に与えられる慰めに、断固として抵抗する権利を容認してくれる」と興味深い表現で解説しています。
「優しさ」という字が、「人」が「憂い」の傍らに立つと描かれるように、愛は痛みに共感することから始まります。慰めを拒絶したい気持ちさえ受け入れるのが「愛」の始まりです。
この著者は、「神を思い起こ」すことが、賛美ではなく、「嘆き」を生み出し (3節)、また、「思いを潜め」ることが、かえって「私の霊は衰え果てる」原因になると訴えます。
実際、私たちも、主の御前に静まることで、葛藤が増し加わることがあります。しかし、そこに希望があります。それはその人の「嘆き」が、主に向っているからです。
多くの人は、この詩篇を読み、「私の気持ちがここに記されている!」と不思議な感動を覚えます。それは、不安と悲しみで「息が詰まっている」たましいが、主に向って呼吸を始めるきっかけになります。祈りの基本は、主に向っての「呼吸」なのですから……。
しかも著者は、「昔の日々」(5節) の恵みや、心を震わせた「歌を思い起こす」(6節) ことが落ち込みの原因になると訴えます。それは、目の前の現実が、昔と比べてあまりにも悲惨だからです。
ただ作者は、このように「自分の心のうちで思いを巡らし」たことを、飲み込む代わりに、その不敬虔とも言える気持ちを正直に表現します (7–9節)。
しかしそこで著者は突然、「私が弱り果てたのは いと高き方の右の手が変わったからだ」(10節) と言います。「右の手」とは神の民に祝福と勝利をもたらす神の力の象徴的表現ですが、自分の悲惨が神の御手の中で起こっているなら、神はこの悲惨な状況も簡単に変えられると期待できるからです。
著者はそこから、はるか昔のイスラエルに対する神のあわれみにまで遡ったことで、神のみわざに期待できるようになります。かつて悲しみをもたらした「思い起こし」が、希望と賛美を生み出すようになるのです。
【祈り】主よ、あなたは私たちの心の奥底に潜む、あなたへの怒りや不信すらも、優しく受け止めてくださる方であることを感謝します。私の祈りの呼吸をさらに導いてください。