詩篇76篇〜仕事の聖書的な意味

 小生は今週火曜日から四週間にわたって、クリスチャンライフ学院というところで、この世の仕事を聖書からどのように見るかという視点での講義をしています。毎週一回、夜の講義にZoomを中心に8名の参加者ですが、とっても活発な議論の中、楽しくお話しをさせていただいております。

 この世の仕事には矛盾がつきもので、どの職場にもさまざまな葛藤が生まれます。そこでは自分の意に反する仕事もせざるを得ません。
 パワハラが問題にされても、組織の命令に背くことは、自分の身を危険にさらすことになります。僕も、自分を振り返りながら、脅しに負けるように、嫌な仕事をしてしまったことを今も、悔やむことがあります。
 簡単に解決は見えませんが、脅しに屈しない生き方をどこかで貫きたいと思います。そのような際に励ましになるのが、詩篇76篇であるとも言えます。
 そこでは、神がさばき主として、弱い立場の人を守ってくださることが描かれています。神のさばきは、社会的な弱者にとっては救いとなるのです。

詩篇76:1–12「実にあなたは恐ろしい方」

 ギリシャ語七十人訳では、この詩の標題の終わりに「アッシリアについて」と記されますが、この詩は、アッシリア帝国がヒゼキヤ王の導くエルサレムを紀元前701年に攻撃した時、ヒゼキヤ王の祈りに答えて、主の使いがアッシリア軍の十八万五千人を滅ぼし、彼らを奇跡的に退却させたことを思い起す歌とも理解できます (Ⅱ列王記19章)。
 1、2節では神がご自分の「御名の偉大さ」をご自分の民に「示される」とまず記され、その理由が、ご自身の「住まい」が「サレム」(エルサレムの昔の名)またシオン(神殿の立つ丘)にある」からと述べられます。3節では「神はそこで 弓の火矢を砕かれる。盾も剣も 戦いも」とあるのは、まさに神が真夜中のうちにアッシリア軍を滅ぼされたからです。そのことが4、5節で、「あなたは輝かしく……どの勇士たちにも 手の施しようがありませんでした」と描かれます。神の前に彼らはあまりにも無力でした。
 6、7節では、「ヤコブの神よ……あなたは 実にあなたは恐ろしい方 お怒りになれば だれが御前に立てるでしょう」と、「あなた」が強調されながら、神を嘲った者に対する激しい怒りが描かれます。
 それはアッシリア王がヒゼキヤに、「おまえが信頼するおまえの神にだまされてはいけない。エルサレムはアッシリアの王の手に渡されないと言っているが……私の先祖は、ゴザン、ハラン……の人々を滅ぼしたが、その国々の神々は彼らを救い出したか」(Ⅱ列王記19:10–12) と言ったことへの神の応答でした。
 アッシリア王が、イスラエルの神を、周辺諸国の偶像の神々と同列に扱ったことに神は怒りを発せられたのです。神の恐ろしさの前に、凶暴な帝国は身を潜めざるを得ません。

 8節では、「天からあなたの宣告が聞こえると 地は恐れて沈黙しました」とありますが、ここでの「地の恐れ」は、先の「あなたは恐ろしい方」への応答です。
 そしてその原因は「神が さばきのために……立ち上がられた」からですが、その「さばき」とは「地のすべての貧しい者たちを救う」(9節)ために他なりません。
 そして10節では、「まことに 人の憤りまでもがあなたをたたえ あなたはあふれ出た憤りを身に帯びられます」と記されます。これは先のアッシリアの王が自分の言うことを聞かないヒゼキヤとイスラエルの民に憤りを燃やしてエルサレムを滅ぼそうとしたことが、かえって神がいかに「恐ろしい方」であるかを明らかにし、神の御名をたたえる結果になったことを指します。
 神は、人の憤りまでもご自分の身に帯び、ご自身の敵に報復されるのです。

 11、12節では「恐るべき方」ということばが繰り返されます。それはあくまでもこの地の王国が恐怖によって人々を支配することの対比で記されていることばです。
 アッシリア帝国は世界初めての他民族を支配する帝国でした。その支配は命令に逆らう者に容赦のない残酷な刑罰を行なうことによって成り立っていました。
 主はその恐怖の帝国との比較でご自身の方がはるかに「恐るべき方」であることを示すことによって、人間の奴隷になる必要がないことを示されたのです。
 今も、脅しや暴力で人を従えようとする野蛮な人がいますが、それに怯える必要はありません。神の怒りは、自分の力を誇り社会的弱者を虐げる人に向けられているからです。神の怒りは、神の愛の現れなのです。


【祈り】主よ。人は何としばしばこの世の権力者の憤りにおびえて自分を偽って来たことでしょう。どうか真に恐るべき方を知ることによって、恐怖の奴隷状態からお救い下さい。