私たちはどんな罪人であっても、イエスを救い主と信じることで「永遠のいのち」が保障されます。それを明らかにするローマ人への手紙は、「行い」ではなく「信仰」によって神の前に義と認められるという「信仰義認」のテキストとしてばかり見られる傾向があります。
「信仰義認」は聖書を貫く真理ですが、そこから誤解が生まれることがあります。後にペテロも、パウロの手紙には神から与えられた「知恵」が記されていると高く評価しながら、「その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます」(Ⅱペテロ3:16) と警告しています。
またパウロ自身もこの手紙の6章15節で、「では、どうなのでしょう、『私たちは罪を犯しましょう!』とでも、それは『私たちは律法の下にはいません、恵みの下にいます』ということであれば?」という不謹慎な応答があり得ることを想定して問いかけています。その結論は、救いとは「罪の奴隷」から「従順の奴隷」へと変えられることでした。
そしてこの手紙の最初と最後で、パウロは福音宣教の目的を「すべての異邦人」(の中に)「信仰の(主の真実への)従順をもたらすため」(1:5、16:26) と記しています。私たちの信仰は、日々の生活の仕方に現わされるものです。創造主の恵みに「従順な」生き方が問われています。
実は、信仰によって義と認められるという教えは、旧約から一貫する教えで、何も新しいことはないとも言えます。パウロがこの手紙で一番の課題としているのは、ユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つとされるということです。
パウロはこの手紙の最後に「私の福音」と述べ、「世々にわたって隠されてきた奥義」が、キリストにあって「啓示」されたと記しています。その核心に「信仰の従順」ということばがあります。
1.「私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように」
16章20節は
しかし平和の神がサタンを踏み砕くことになります、速やかにあなたがたの足の下にです。どうか、私たちの主イエス(・キリスト)の恵みが、あなたがたとともにありますように。
と記されます。
そこには、「女の子孫が蛇の子孫の頭を打ち砕く」(創世記3:15) という原始福音が秘められています。「平和の神」とは、すべての戦い自体を否定する方ではなく、あなたの足を用いてサタンを踏み砕くという、あなたとサタンとの戦いに勝利を与えてくださる方です。
ですからローマ教会の人々の純朴さは、純粋な祈りとなるときに豊かに用いられます。大切なのは、「分裂とつまずきをもたらす」ような偽教師が確かに現れることに正しい警戒心を持ち、福音の原点に立ち返り、祈り続けることなのです。
なお、ほとんどすべての聖書では24節のことばが省かれていますが、節の番号を付けたときには20節後半のことばが「私たちの主イエス・キリストの恵み」という「キリスト」が入ったことばとともに24節に記されていたためです。ただ、多くの写本では、このことばが手紙を締めくくる祝福のことばとしてこの位置に入っています。
つまり、これまででパウロが書こうとした内容が完結したという意味になります。私たちは誤った教えに目を見張る必要がありますが、互いを警戒し過ぎたり、小さな過ちに敏感になり過ぎる代わりに、「私たちの主イエスの恵み」こそがすべての教えの核心であることを忘れてはなりません。
東方教会で守られていた伝統的な祈りがあります。それは呼吸に合わせて、「イエス・キリスト神の御子、この私をあわれんでください」と繰り返し祈ることです。
互いの間違いを正す代わりに、イエスが預言された救い主キリストであり、永遠の神のひとり子であり、私たちのすべての罪を、すべての弱さをともに担うために私たちの同じ人間になってくださったということを告白することこそが、すべての祝福の始まりになります。
イエスの御名が崇められるところでは、互いに赦し合い、愛し合う愛の交わりが広がって行きます。私たちは自分の問題を見つめると、いつまでたっても変わらない自分に失望し、落ち込むかもしれません。
しかしそのような状態の中でも、私たちのすべての罪のために十字架にかかり復活したイエスに目を留めるときに心が平安で満たされます。どのような霊性の訓練をしてもその最後は、「イエスの恵み」で終わる必要があります。
2.「あなたがたに挨拶しています、私の同労者テモテが……ルキオとヤソンとソシパテロが」
21–23節は
21 あなたがたに挨拶しています、私の同労者テモテが、また私の同胞、ルキオとヤソンとソシパテロが。22 あなたがたに挨拶申します、この手紙を筆記した私テルティオも、主にあって。23 あなたがたに挨拶しています、ガイオが、彼は私の家主(ホスト)です、またすべての教会(単数)にとっての。またあなたがたに挨拶しています、市の会計係エラストと兄弟クアルトも。
と訳すことができます。
「テモテ」がパウロの弟子的な同労者とされた経緯は、使徒の働き15章36節~16章3節に描かれます。パウロは第一回目の伝道旅行の際にバルナバとともに若いマルコを訓練生として選び、同行させました。しかし彼はガラテヤ地方での働きの初めに恐れのためか脱落し、エルサレムに戻ってしまいました。バルナバはマルコに再出発の機会を与えようとしましたが、パウロはマルコを同行させることを断固として拒否しました。
パウロは新たな同伴者としてシラスを選びますが、若い訓練生としてはトルコ中南部のガラテヤ地方を再度訪ねた時に、テモテを選びました。彼の母はイエスを救い主と信じていたユダヤ人でした。
パウロの最後の手紙であるテモテ第二の手紙では、彼はテモテに向かって、「私はあなたのうちにある偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちに宿っていることを確信しています」(Ⅱテモテ1:5) と記されています。彼女たちはパウロの第一回目の伝道旅行の際に信仰に導かれたのでしょう。
一方で「テモテの父はギリシアであった」とのみ記されています。父は未信者のままだった可能性が高いと思われます。現代的に言えば「カタクリ子」です。テモテは当地のクリスチャンの間で評判の良い人で、パウロは彼に将来的な教師としての素質を見出し、彼を弟子のように育てたいと願ったのでしょう。
ただユダヤ人伝道のためには、テモテを名実ともにユダヤ人とするために「割礼を受けさせ」ることが相応しいと思いました。それには当然父の同意が必要になりますが、このギリシア人の父はそれを了承したのでしょう。それは彼はロイスとユニケという二人の女性の信仰の(主の真実への)従順を目にして、その姿勢に感心していたからだと思われます。
とにかく、この後、パウロの右手のような働きをするテモテの背後にはロイスとユニケという二人の女性がいたのです。
「ルキオとヤソンとソシパテロ」についてはあまりよく分かりませんが、7、11節に記されたと同じようにパウロの同胞であるユダヤ人として、パウロがこの手紙を書いているコリント教会の中心メンバーであったのでしょう。
少なくともヤソンはパウロがギリシアでのピリピに続いてテサロニケで福音を伝えたときに、すぐに福音を信じてパウロ一行を家に迎え入れて助けた同胞のユダヤ人でした (使徒17:5)。
ソシパテロはパウロが第三回目の伝道旅行の際にコリントからエルサレムに向かう旅行に同行したソパテロと同一人物であるという解釈があります。
どちらにしてもパウロは同胞のユダヤ人がイエスを拒否し続けていることに「大きな悲しみ」と深い心の痛みを感じていましたが (ローマ9:2)、パウロの宣教を最初の段階から支え続けていたのもユダヤ人であったということを、私たちは忘れてはなりません。
22節ではこの手紙を口述筆記したテルティオの名が登場します。パウロの幾つもの手紙を筆記したのはテモテですが、ここではパウロが突然、テルティオに「私」と呼ばせ、自分のことばで挨拶を許したとき、彼は自分の働きに大きな誇りと喜びを感じることができたことでしょう。
当時は現代のワープロソフトのように書いてしまった文字を簡単に修正はできませんから、この口述筆記者には卓越した文章能力が求められていました。ここにも、人の能力を生かし用いるパウロの愛の配慮を見ることができます。
23節では、ガイオがパウロにとっての家主(ホスト)と描かれます。それはパウロがガイオの家に滞在していたからですが、その家は同時に多くの信者が集まる「教会」としても機能していました。ガイオはⅠコリント1章14節でパウロによってバプテスマを授けられたコリント教会の初穂の「クリスポとガイオ」と記された一人かと思われます。
興味深いのはガイオがここで「すべの教会(単数)にとってのホスト」であると描かれていることです。これはラグビーで one for all、 all for all と言われるのと同じようにガイオはパウロのホストとなることで全世界の教会のホストとなっているという意味だと思われます。
ガイオは自分がパウロのホストとなることで全教会のホストとなっていると言われたとき、どれほどの誇りを抱くことが出いたことでしょう。
「市の会計係エラスト」とは、コリント市の財務長官のような立場であった可能性があります。この名は古代の碑文にも登場するほどの有力者で、この時点でコリントのクリスチャンの一人が行政的にも高い地位を占めていたことを現します。
兄弟クワルトに関しては何も分かってはいません。
ここにはこの手紙を書くパウロを支えている人々の名が記されています。これを見るとき、この手紙が個人的な知恵によってというよりも、兄弟姉妹の交わりの中で記されたということがわかります。
多くの日本の教会は、教会ごとに一人の牧師しかいません。しかし、牧師の働きは本来チームワークの中でなされるものです。パウロには最初、バルナバという使徒的な立場の同伴者やマルコという若い弟子がいました。後にはシラスという同伴者と、テモテという弟子的な同労者がいました。
パウロは常にチームで伝道しています。そしてチーム牧会が機能する教会は、同時に、より多くの人々を受け入れる包容力が生まれます
3.「私の福音……世々にわたって隠されていた奥義の啓示によって」
25–27節は次のように訳すことができます。
25 あなたがたを強くする(確立する)ことができる方、私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって隠されていた奥義の啓示によって、26 さらに、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、また永遠の神の命令にしたがい、すべての異邦人に信仰の(主の真実への)従順をもたらすために知らされたことによって。27 唯一の知恵に富む神に、イエス・キリストを通して、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。
この最後の頌栄のようなことばは、いくつかの写本で15章の終わりに置かれていたとか、他の人によって書き加えらえたという解釈がありますが、よく見ると長いローマ書を簡潔にまとめているような意味があり、この最後に置かれるにふさわしいと言えましょう。
最初のことばは、「あなたがたを強くする(確立する)ことができる方に」と記され、これが最後の「栄光がとこしえにありますように」につながっています。「強くする」とはパウロが1章11節で、「私はあなたがたに切に会いたいと望んでいます、それは御霊の賜物(カリスマ)をいくらかでも分け与えるためであり、それによってあなたがたを強くする(確立する)ためです」(1:11) と記されていたことを思い起こさせます。
しかもパウロは「私の福音によって」「強くする」と不思議な表現を用います。「私の福音」とは、2章16節でも用いられ、そこでは「神がキリスト・イエスを通して人々の隠されたことをさばかれる」ことを指していました。
当時のユダヤ人にとって、父なる神による「さばき」はよく知られていましたが、パウロの「福音」によれば、そのさばきはキリストを通してなされるというのです。そしてここでも、「イエス・キリストを伝える宣教によって」と、キリストによるさばきが福音として提示されます。
カトリック教会で聖母マリアへのとりなしの祈りが盛んになったのは、キリストによるさばきを恐れるためだったと思われますが、福音の核心とは、「神の義」が私たちを「信仰(真実)から(に始まり)信仰(真実)に(進ませます)」ということにありました (1:17)。
「神の義」が神の厳しいさばきの基準ではなく、私たちのうちに信仰を生み出す神の真実であるという宣言こそは、ルターによる宗教改革の基本原理でした。
そしてパウロの福音は、3章23、24節では、「それはすべての人が罪を犯して、神の栄光を受けるに値しなくなっているからです。それで、神の恵みによって価なしに(無償で)義と認められることになりました」と記されました。
そして25節で「世々にわたって隠されていた奥義の啓示によって」と記された「奥義 (mystery)」に関して、11章25節では「イスラエルの一部が頑なにされた」理由が、異邦人の救いのためであると同時にイスラエルの救いのためであると記されていました。
またエペソ1章10節では「天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められること」と記されていました。
またコロサイ1章27節では「奥義とは、あなたがたのうちにおられるキリスト、栄光の望みのことです」と記されていました。
つまり、キリストによる全世界の救いこそが「奥義」の中心で、それが「世々にわたって隠されていた」ことが、パウロが語る「私の福音」によって今このときに「啓示」され、明らかにされたというのです。別にパウロが他の使徒と別の福音を語っていたというわけではありません。
しかし、使徒と呼ばれるイエスの弟子たちの中で誰よりも、旧約の啓示を理解していたのがパウロであったことは誰の目にも明らかでした。
そのことを彼は、「さらに、預言者たちの書を通して今や明らかにされ」(26節) と語っています。パウロの福音こそが、イエス・キリストをイザヤ書を初めとする旧約の預言の成就として提示しているのです。
しかも、パウロはそれを、「永遠の神の命令にしたがい」と補い、それが神の命令によると明らかにします。さらにその目的を「すべての異邦人に信仰の(主の真実への)従順をもたらすため」と説明を加えます。
「信仰の従順」とは1章5節でも「この方(イエス・キリスト)によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人(あらゆる国の人々)の中に信仰の従順をもたらすためです」と記されていました。
つまりキリストの福音の核心は、ユダヤ人に信仰の従順を生み出した教えを、異邦人にも同じように実現することにあるのです。
多くの人々はローマ書の核心を「人は律法の行いによってではなく、信仰(主の真実)によって義とされる」(3:28) ことと考えますが、それは確かに前半の中心的な教えですが、後半ではユダヤ人も異邦人も何の区別もなく、キリストにあって一つの神の民とされるということが強調されます。
その際、ユダヤ人は「律法の行い」ばかりに目を留めていたとしても、律法を守ろうとしたこと自体が間違いだったわけではありません。それは聖霊によって全うされる教えでした (エレミヤ31:33参照)。
一方、異邦人には律法自体を無意味と考える可能性がありましたが、彼らも「信仰の(主の真実への)従順」を目指すべきでした。そのことが15章18節でも「異邦人を従順にするために、キリストが私を通してなしてくださった」と記しています。
従順の動詞形は「聞き従う」でヘブル語ではシェマー(聞きなさい)という命令形に通じます。すべてのユダヤ人は「聞けイスラエル、主 (ヤハウェ) は私たちの神、主 (ヤハウェ) は唯一である。心を尽くし、たましい(精神)を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4、5) を暗唱していますが、それは異邦人にとっても核心的な教えです。
イエスも「これが、重要な第一の戒めです」と言われました (マタイ22:38)。そこでの「主 (ヤハウエ)」に、主イエスを含み加えるというのが、パウロが語る「私の福音」です。
27節の「唯一の知恵に富む神に、イエス・キリストを通して、栄光がとこしえまでありますように」ということばの背後には、11章33–36節があります。
そこでパウロは「ああ、何と深いことでしょう、神の知恵と知識の豊かさは……すべてのものがこの方から発し、この方によって成り、すべてがこの方に至るからです。どうかこの方に、栄光がとこしえにありますように、アーメン』」と記していました。
これはそれまでのキリストによる神の救いのご計画の要約でした。ただパウロは、派閥を作って争いあっているコリント教会の信者に向かって、「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか」と問いかけながら、「しかし、私たちはキリストの心を持っています」と宣言しました (Ⅰコリント2:16)。
キリストが何のために人となり、十字架にかかり、死の中からよみがえって下さったかを知ることは、「キリストの心を持つ」ということです。キリストを中心として、旧約の救いのご契約を見直するということがパウロの福音の福音の核心なのです。
パウロはユダヤ人の救いを切望しながら異邦人に福音を伝えましたが、そこには「それによって、すべてのイスラエルが救われること」(11:25) との目標がありました。
異邦人がユダヤ人と同じように「聞けイスラエル、主 (ヤハウェ) は私たちの神、主 (ヤハウェ) は唯一である。心を尽くし、たましい(精神)を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4、5) と唱和し、それを実践することが「信仰の(主の真実への)従順」です。
「主を愛する」ことにおいて、「律法の行い」と「信仰による義」の区別とか、ユダヤ人と異邦人に何の区別もありません。
新約聖書は旧約の成就に他なりません。「新しい契約」とはイエスが言われたように「律法を廃棄する」ことではなく「成就する」ことです (マタイ5:17)。
また「生ける神の御霊によって」神の教えが「人の心の板に記される」ことです (Ⅱコリント3:3)。
今、旧約のダイジェストを振り返るような説教をしています。旧約には、天国に憧れる以前に、この地上での希望に満ちた生き方が記されています。それをパウロは「信仰の(主の真実への)従順」と呼びました。その目的は、この世界を神の平和(シャローム)で満たすことにあります。