「あのことのせいで……」という恨みや後悔に囚われている時、より大きな神の物語の中に「自分の居場所」を見出せるなら「赦し」と「和解」がずっと楽になります。
私たちはこの世を支配する不条理の中で、本当の意味での「夢」を忘れてはいないでしょうか。夢を見させ、それを実現してくださる神のみわざにともに目を向けてみましょう。それは自分の人生を神の視点から再定義(リフレイミング)することでもあります。
1.「『あの夢見る者』と兄弟たちから憎まれたヨセフ」
37章2節には「これはヤコブの歴史である」と記され、ヤコブの子のヨセフの物語が始まります。
まず、「ヨセフは17歳のとき」の悲劇の前に、その原因として「イスラエル(ヤコブに与えられた名)は、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた……ヨセフの兄たちは……彼を憎み、穏やかに話すことができなかった」(37:3、4) と描かれます。
ヤコブ自身「イサクはエサウを愛していた。猟の獲物を好んでいたから」(25:28) という関係で傷ついていましたが親の過ちを繰り返します。
しかもヨセフは兄たちの思いに無頓着に、自分が見た夢を兄たちに告げます。それは、畑で束を作っていたところヨセフの束がまっすぐに立って、兄たちの束が周りに来てヨセフの束を「伏し拝む」というものでした。それを聞いた兄たちは、「おまえが私たちを治める王になるというのか」と言って、「ますます彼を憎むようになった」と描かれます (37:8)。
ところが、ヨセフはなおも別の夢を、「太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と語ります。それは父と母と11人の兄弟たちすべてが彼を伏し拝むという意味でした。
その後「父はこのことを心にとどめていた」(37:11) と記されます。この夢を見させてくださったのは神ご自身でした。その後の記述は、その夢が実現するという物語です。
「その後、兄たちはシェケムで父の羊の群れを世話するために出かけ」、父ヤコブは、兄たちの思いに無頓着に、へブロンから約80㎞も北に離れた地にヨセフを使いにやります (37:12、13)。シェケムはヤコブがラバンの家から帰ってきた時に土地を購入し、同時に現地の人との恐ろしい争いになった場所で (33:18–35:4)、ヤコブが兄たちと羊の群れを心配するのも当然ですが、彼は息子たちの葛藤を全く見ようとはしません。
兄たちはそこから約20㎞北のドタンにいましたが、「兄たちは遠くにヨセフを見て……互いに『見ろ。あの夢見る者がやって来た。さあ、今こそあいつを殺し、どこかの穴の一つにでも投げ込んで……凶暴な獣が食い殺したと言おう。あいつの夢がどうなるかを見ようではないか』と話し合った」(37:18–20) と描かれた悲惨が待ち受けていました。
この際、長男のルベンはヨセフを救い出し、父のところに返そうとしますが、穴に投げ込むことには同意します。しかし、ルベンのいないうちに、四男ユダの主導で、ヨセフはイシュマエル人の隊商に売られます。それはユダが、兄弟たちに弟ヨセフを殺させないためでした。
この時点から、ルベンに代わってユダが兄弟たちを導く姿が見られます。それにしてもイシュマエル人も、アブラハムの子孫ですが、女奴隷ハガルの子でした。ここに、約束の子が、奴隷の子に売り飛ばされるという皮肉が描かれます。
ところでヨセフの痛みや悲しみが描かれないまま、エジプトでファラオの廷臣、侍従長ポテイファルの家に売られたと記されます。38章には、その後の話しの展開のために四男のユダの家のことが記されます。
そして39章2節に至って初めて、主(ヤハウェ)の名が登場し、侍従長の家で「主 (ヤハウェ) がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり……彼の主人は、主 (ヤハウェ) が彼とともにおられ、主 (ヤハウェ) が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た」(39:2、3) と描かれ、その家の全財産の管理を委ねられます。さらに「主 (ヤハウェ) はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福され」(39:5) ます。
何とも不思議なことに、奴隷に売られたヨセフが「成功する者」と呼ばれ、彼のゆえにエジプト人の家が祝福されると描かれているのです。
ただ、「ヨセフは体格も良く、顔だちも美しかった」(39:6) ことに惹かれた主人の妻は、彼に関係を迫ります。しかし、彼は「どうして……神に対して罪を犯すことができるでしょう」(39:9) と言って拒絶します。ここで初めて彼の信仰が表現されます。それは主の祝福を体験できたことへの応答です。
しかしある日、彼女は彼の上着をつかんで関係を願い、拒絶されると、「私にいたずらをしようとして私のところに入ってきました」(39:17) と濡れ衣を着せます。その結果、彼は「王の囚人が監禁されている監獄に」入れられます (40:20)。
ここでもヨセフの無念の気持ちには触れられないまま、「主 (ヤハウェ) はヨセフとともにおられ、彼に恵み (ヘセド) を施し、監獄の長の心にかなうようにされた。それで、監獄の長は……すべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった……それは、主 (ヤハウェ) が彼とともにおられ、彼が何をしても、主 (ヤハウェ) がそれを成功させてくださったから」(39:21–23) と描かれます。この描写は、2、3節とほとんど同じです。
なお、37章から始まるヨセフ物語には「主 (ヤハウェ) 」という名が50章までに12回登場しますが、そのうち8回がこの39章に集中します。他の三回は38章におけるユダの子たちへの怒り、他の1回は49章18節のダン族に対するヤコブの祈りだけです。
つまり、39章こそがヨセフ物語の核心部分であり、そのテーマは、主は苦難のただ中に、ともにおられ、それを益に変えてくださるということです。
主がヨセフとともにおられるなら、なぜ兄弟から奴隷に売られ、無実の罪で監獄に入れられるのかと思います。その悲劇をもたらしたのは人間の罪ですが、その中で神のご計画は着実に進んでいました。
ですから私たちも、置かれている状況が人々の罪の結果であっても、それも神の御手の中にあることを覚え、そこで誠実に生きることが求められます。神の祝福は、その不条理のただ中に現されるからです。
2.「解き明かしは、神のなさることではありませんか。」
40章では、献酌官長と調理官長が「王に対して過ちを犯し」、監獄に拘留され、ヨセフが彼らの「付き人」になったと描かれます。ある時、この二人は自分たちが見た「夢」のために悩んでいました。
それに対し、ヨセフは「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください」(40:8) と自分の信仰を告白しながら、彼らに促します。ここでの二人の高官の葛藤と、ヨセフの余裕が何とも対照的です。
献酌官長の夢は、三日のうちに彼がもとの地位に戻されるというもので、ヨセフはそれを解き明かしながら「あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して……私に恵み (ヘセド) を施してください」(40:14) と訴えます。
彼はあらゆる機会を用いて、不当な状況から抜け出るように努力しています。一方、調理官長の夢は悲惨なもので、すべてがヨセフの解き明かしの通りになります。
その後、「ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった」(40:23) と描かれ、「それから二年後、ファラオは夢を見た」(41:1) と記されます。ヨセフは二年間も監獄で待ち続ける必要がありました。しかし神はご自身の時にファラオ(王)に不思議な二つの夢を見させ「心が騒ぐ」ようにされました (41:8)。
献酌官長はこのとき初めてヨセフのことを思い出し、ファラオに紹介します。王がヨセフに夢の解き明かしの能力を尋ねると、彼は「私ではありません。神がファラオの繁栄 (シャローム) を知らせてくださるのです」と答え (41:15、16)、その夢が、七年間の豊作の後に七年間の飢饉が続くことを意味すると解き明かします。
その際、彼は「神が、なさろうとしていることをファラオに(お告げに、示され)」(41:25、28) と繰り返し、「神によって定められ、神がすみやかにこれをなさる」(41:32) と神のご支配を強調します。
その上で「さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの地の上に置かれますように」(41:33) との具体的な政策提言までします。
それに対しファラオは、「神の霊の宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか……神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。おまえが私の家を治めるがよい……私はおまえにエジプト全土を支配させよう」(41:38–41) と言います。
驚くことに、自分を現人神と称するファラオ自身がヨセフの神の偉大さを認め、彼を囚人から総理大臣の立場へと一挙に引き上げたのです。これはいかなる成功物語も及ばない、神が演出された逆転劇です。
ただ、ヨセフは同時に、エジプト人としての名を与えられ、現在のカイロの北東12㎞にある「オン」という町の、太陽神を礼拝する「祭司」の娘と結婚させられます (41:45)。
これは彼がエジプトの支配層に完全に受け入れられたことを意味しますが、同時に、それは彼が支払わざるを得なかった代償と言えましょう。
ここで、「エジプトの王ファラオに仕えるようになったとき、ヨセフは三十歳であった」(41:46) と記されます。これは奴隷に売られて13年後です。彼は苦しみを通して祝福を受けたという思いを、マナセとエフライムという二人の名に表わします。
そこには「神が、私のすべての労苦と、父の家のすべてのことを忘れさせた」とか、「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」という痛みも込められます (41:51、52)。
ここに至るまでヨセフの心の悲しみについては描かれませんでした。それは私たちの目が、ヨセフの信仰に向けられる代わりに、神ご自身に向けられるためと言えましょう。これを偉人伝説にしてはなりません。
3.「いったい何なのだろう、神が私たちなさったこれは」
42章では、七年間の飢饉が始まった中で、ヤコブのもとからが十人の兄たちが穀物買い付けに来るようすが描かれます。ベニヤミンは最愛のラケルの一人息子なので留め置かれました (42:4)。十人の兄たちは「顔を地につけて彼を伏し拝んだ」と描かれます (42:6)。
その時ヨセフは「かつて彼らについて見た夢を思い出し」(42:9) ます。まさに神がヨセフに夢を見させ、成就してくださったのです。彼は自分の見た「夢」がこのように実現するとは、夢にも思わなかったことでしょうが、生涯が苦難のまま終わることはないということはどこかで確信していたのではないでしょうか。
42章9節は、「ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出した」で一度文章を切って、「それで彼らに言った。『お前たちは回し者 (スパイ) だ……』」と訳すべきでしょう。ヨセフはその時、かつての「別の夢」(37:9)、父と母と11人の兄弟たちが彼を伏し拝むという「夢」をも思い起こし、その夢を実現させるために、彼らをスパイ呼ばわりすることで、家族のことを話させようとしたのです。
兄たちは目の前にいる「この地の権力者」(42:6) がヨセフであるとは露も知らずに、嫌疑を晴らすために、「私たちは正直者です」(42:11) と言います。ヨセフを奴隷に売り、父に偽った者たちが自分を正直者というのは笑止千万ですが、それこそ鍵のことばです。
彼らは自分たちの家族構成を説明し、「末の弟は今、父と一緒にいますが、もう一人はいなくなりました」(42:13) と言います。それに対し、ヨセフは、末の弟を一人の人が連れて来るまで彼らを監禁すると言いつつ、三日間、彼らを閉じ込めます。
そして、三日目に彼らに、「このようにして、生きよ。この私は神を恐れる者だ。もし、おまえたちが正直者なら、兄弟の一人を監禁させ……穀物を持って行け」(42:18、19私訳) と、新たな提案をします。ヨセフは彼らと同じ神を恐れていると言っいるわけではなくても、これによって彼らの目を神のご支配に向けさせようとしたのではないでしょうか。
兄たちはヨセフに自分たちのことばが通じるとは思わず、「まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった」(42:21) と互いに言い合います。
ヨセフはそれに心を動かされ「彼らから離れて、泣いた」(42:24) と描かれます。そしてシメオンを人質にします。次男に責任を負わせたのは、長男ルベンの無実が分かったからだと思われます。
その後ヨセフは彼らに食料を持たせて父の家へと送り返しますが、その際、穀物の代金までも気づかれないようにそれぞれの袋に返してやりました。帰路の途中で一人がそれに気づいたとき、彼らは「身を震わせて」、互いに「いったい何なのだろう、神が私たちになさったこれは」(42:28私訳) と言い合います。
彼らの心に、神への恐れがよみがえってきているかのようです。そして、父のもとに帰った時、彼らは事の顛末を報告します。不思議なのは、それまでの会話が細かく再現されていることです。それによって、読者の心はヨセフと兄たちとの緊張関係に向けられます。
そして彼らは自分たちの袋すべてに「銀の包み」があるのを発見して、父とともに「恐れた」(42:35) と記されます。そこに神のさばきへの恐れがあったとも言えましょう。
4.「神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました」
43章では、穀物を食べ尽くした後、ヤコブの方から再びエジプトに穀物を買いに行くことを願うようすが描かれます。
それに対し。今度はユダがベニヤミンを連れて行く必要を説き、「私自身があの子の保証人となります」(43:9) と言って父の説得に成功します。
その際、ヤコブの名が6節以降は「イスラエル」と描かれ「全能の神 (エル・シャダイ) が……あわれんでくださるように。そしておまえたちのもう一人の兄弟とベニヤミンを渡してくださるように。私も子なしになるときにはなるのだ」(43:14一部私訳) と言います。
今人質とされているシメオンを「おまえたちの兄弟」と呼び、ベニヤミンを失う可能性しか考えていないことには唖然とします。
ただ、イスラエルが自分にとっての最悪が起こることも「全能の神 (エル・シャダイ)」の御手の中にあることを認め、全てを神に委ねる祈りが記されることは画期的です。これは主ご自身が、アブラハムへの契約がヤコブを通して実現することを保証した際の自己紹介の呼び名で (35:11)、神への信頼の思いが込められています。
43章16節以降で、ヨセフは兄たちが弟を連れてきたので、彼らを手厚くもてなすために自分の家に招き入れます。彼らは恐れて、前回の「銀」を返したいと願いますが、それは彼らが自分たちを「私たちは正直者です」と繰り返し (42:11、31)、ヨセフも「おまえたちが正直者かどうか」を試した (42:19、33、34) という流れから大切なことでした。
それに対しヨセフの家の管理者は、イスラエルの神を意識しつつ「あなたがたの父の神が……宝を入れてくださったのです。あなたがたの銀は、私が受け取りました」(43:23) と安心させ、シメオンを解放します。これによって彼らの正直さが証明されました。
その後ヨセフが「同じ母の子である弟のベニヤミンを見て……弟なつしさに胸が熱くなり……急いで奥の部屋にはいって……そこで泣き」(43:30) ます。
ところが44章で、ヨセフは彼らを食料とともに送り帰すと見せかけ、ベニヤミンの袋に愛用の銀の杯をしのばせ、盗人に仕立て上げ、捕えました。それは兄弟たちを試すためでした。ヨセフは父に溺愛され、兄たちから憎まれましたが、ベニヤミンも同じではないか心配だったことでしょう。
それで彼はベニヤミンを奴隷とし、兄たちを父のもとに帰すと言います。それに対しユダは、父の気持ちになりきって「私の妻は二人の子を産んだ……一人は……きっと獣にかみ裂かれてしまった……おまえたちがこの子まで私から奪って、この子にわざわいが降りかかるなら……白髪頭の私を、苦しみながらよみにくだらせることになる」(44:27–29) と父の言葉を紹介します。
レアの子であるユダにとって、ラケルだけが「私の妻」と呼ばれ、自分たちが「子」と見られていないことは何よりも辛いことでしたが、その気持ちを真正面から受け止めています。
そればかりかユダは、「どうか今、このしもべを、あの子の代わりに……奴隷としてとどめ、あの子を……帰らせてください」(44:33) と、自分をベニヤミンの身代わりにして欲しいと懇願します。ヨセフを奴隷に売った張本人が父親の悲しみを自分の悲しみとして、自分を妬ましいラケルの子の身代わりの奴隷として差し出そうとしています。
ヨセフはそれに心を動かされ、部屋から他の人をみな出したうえで、「私はヨセフです、あなたがたがエジプトに売った弟の」(45:4私訳) と初めて正体を明かしました。
しかし、それと同時に、「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました」(45:5) と言って彼らを安心させました。
ここでは何と、兄たちによって「奴隷に売られた」ことを、「神に遣わされた」ことへと言い替えています。彼は自分の身に起こった許しがたい悲劇を、イスラエルの民への神の救いのご計画の物語の一部分として再構築(リフレーミング)することができました。
さらにヨセフは、「私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を……エジプト全土の統治者とされました」(45:8) と言って、父のヤコブと全家族をエジプトに呼び寄せると宣言します。飢饉があと五年続くと神から示されていたからです。
それからヨセフは、自分を奴隷に売った「兄弟みなに口づけをし、彼らを抱いて泣いた」と描かれます (45:15)。実はこの情景こそが、いわゆるヨセフ物語と呼ばれる部分のクライマックスだと思われます。物語の中心はヨセフの成功というより「兄弟の和解」にあります。
46章ではヤコブとその妻と11人の息子たちのヨセフとの再会が描かれます。これはかつてヨセフが第二の夢を「太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」(37:9) と語っていたことの成就と言えます。
5.「神はそれを良いことのための計らいとしてくださいました」
イスラエル(ヤコブ)は自分の死を前にヨセフを呼び寄せ、約束の地に葬るように願います (47:29、30)。彼はさらに「全能の神はカナンの地ルズで私に現れ、私を祝福して」(48:3) という28章のベテル体験を伝えます。
その後、ヨセフは父をエジプトの医療技術を用いてミイラにし、出エジプトのリハーサルのような葬儀を行います (50:1–11)。神は昔、アブラハムを深い眠りに落とし、「あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。しかし……その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出てくる」(15:13、14) と語られました。それこそイスラエルの子らが成就を待ち望むべき真の「夢」でした。
その後、兄たちはヨセフの復讐を恐れ、父の遺言として「おまえの兄弟たちは実に……悪いことをしたが、兄弟たちのそむきと罪を赦してやりなさい」(50:17) と言っていたことを持ち出し、赦しを乞います。それは父が敢えて直接ヨセフには命じずに、兄たちの謝罪に任せたという意味であったのかと思われます。
その後、兄たちはヨセフの「前にひれ伏し」、「私たちはあなたの奴隷です」(50:18) と言います。かつて兄たちは彼の最初の夢を聞き、「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか」(37:8) と怒りましたが、それが文字通り実現しました。
それに対しヨセフは「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりになることができるでしょうか。あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです」(50:20) と言います。何と神は、人が憎しみで謀った悪さえも用いて、良いことのための計らいへと変えられます。
これをもとに、パウロは後に、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、神がすべてのことをともに働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28別訳) と告白しました。それは夢物語ではなく、私たちすべての信仰者にとっての最も大切な確信です。
ただそれは、奴隷に売られた悲劇の主人公がエジプトの総理大臣にされる個人の成功物語としてではなく、アブラハムの子孫を「天の星」のように増やし、約束に地に住まわせるという神の救いのご計画の一部として「益とされる」という意味です。
神は、かつてアブラハムに見させた夢を、またヨセフに見させた夢を実現してくださいました。ヨセフ物語とは、その神の物語の一部です。ですから、ヨセフは死に臨んで、約束の地を思い、自分の遺骸をミイラにして約束の地に携え上るように遺言します (50:25)。
奴隷から一夜のうちに総理大臣とされるという劇的な変化を期待するなら、人生は失望に終わるでしょう。聖書が描くのはヨセフ個人ではなく、神の民の物語です。
私たちも好むと好まざるに関わらず、人と組み合わされながら生きています。自分一人の人生の完結に囚われる代わりに、「たとい、私が苦しんでも、それが他の人の祝福の契機とされるなら、それが私の喜びです」と言える人によって、この世界に愛が広がって行きます。
そこで自分の出生とその後の歩みを、神の視点から再定義(リフレイミング)できるとき、どのような暗い中でも、そこに希望が生まれます。私たちの世界のゴールは平和(シャローム)の完成にあるからです。