詩篇71篇〜福知山訪問記

明日は80年目の終戦記念日ですが、いかがお過ごしでしょう。

 先週末は、当教会の後継牧師をお送りくださった福知山福音自由教会、その開拓の篠山(ささやま)福音自由教会をお尋ねしてきました。
 今回は両教会の合同礼拝で100名近い方が集っている中で、当教会からの感謝の気持ちをお伝えさせていただくことができました。
 福知山教会からは現在の福音自由教会をリードする牧師が何人も育てられ派遣されております。各クリスチャンホームにおいて信仰継承が着実になされ、第二世代、第三世代の信者の方々が教会をリードしておられます。とっても明るく、互いに信頼し合って、各世代での横の交わりも麗しいほどに築かれている感じが、食事の交わりの中にも自然に現わされていました。

 土曜日には老人介護施設入居中の寺村先生のお父様をお見舞いさせていただきました。声を出すことはできないものの、私たち夫婦の訪問をとっても喜んでくださり別れ際に何度も握手を求めてくださいました。
 その後、寺村幸雄先生のご実家にお邪魔し、お母様、寺村先生の8歳上のお姉さま、6歳上のお兄様と2時間あまりゆっくりとお話しできました。
 お母様の礼子さんは、福知山教会の若いたましいを包容力をともなった厳しさで導いて来られた伝説的な方ですが、80歳半ばになってますます謙遜を身に着けておらました。私たちの訪問を「夢のような恵み」とまで言って、喜んでくださいました。
 今回は何よりも、幸雄先生が、ご家族、教会の交わりで、驚くほど豊かな愛を注がれ、安心して成長して来られたことを目の当りに見られ、それを実感できました。
 
 私たちの創造主である方は、それぞれをユニークな環境の中で育ててくださいました。生きるだけで大変な厳しい環境の中で育って来られた方には、逆境の中でも自分の道を切り開くたくましさが身についている場合が多くあります。
 一方、本当に恵まれた環境の中で、豊かな愛情を注がれてきた方は、自然と人を信頼し、多くの方々との信頼関係を築く力が備わっているとも言われます。
 当教会は36年間も、かなり偏った性格の牧師のもとで歩んできましたが、今回の訪問を通して改めて、主ご自身が最高の人材を当教会に与えてくださったことを心から実感し、感謝できました。人が生まれ育った環境を見ることは、今後の信頼関係を築くうえで本当に大切なことだと実感できた旅でした。

 詩篇71篇は、一人ひとりが、神の奇跡的な守りの中で育ってきたことを語っている詩篇です。

詩篇71:6-9、15–20「私は多くの人にとって奇跡と思われ」

 筆者の母は、大雪山の麓の村で筆者を出産した際の危機的な状況を何度も語ってくれました。昔は助産師が各家を訪ね、出産を助けましたが、6節では「あなたは私を母の胎から取り上げた方」と、神が助産師かのように描かれます。神は人の誕生を導く方なのです。
 しかも7節では、「私は多くの人にとって奇跡と思われました。あなたが私の力強い避け所だからです」と続きます。
 筆者の母は八十台半ばまで未信者でしたが、筆者の誕生以来の奇跡とその後の歩みを見て、「聖書のことは良くわからないけれど、おまえが信じる神を、信じてみたい」と言って、洗礼を願うようになりました。
 このダビデの告白は、危機的な中で神に守られ続けた心からの感謝の現れであり、それが私たちと同じ肉の姿となられたイエスの告白であり、またすべてのイエスにつながる信仰者の告白となるのです。
 私たちそれぞれの出生もその後の歩みも、どれひとつとっても同じものはなく、すべてが創造主の「奇跡」とも言えます。それをどれだけ感謝できるかが問われています。
 9節では「年老いたときも……私の力が衰え果てても」と、人々の世話にばかりならざるを得ない状況になっても、創造主にすがりながら生きて行くと改めて告白します。「私は生まれたときから」死の瞬間まで、神に「抱かれて」いるからです (6節)。
 15節では、神の「義」と「救い」が並列されます。ときに神の義の法廷を思い浮かべ、それを「どんな些細な罪も見逃さないさばきの場」と説く場合があります。しかし、16節でも、「私はあなたの力とともに行きます……ただあなたの義だけを心に留めて」と記されるように、神の「義」とは、「多くの人々にとって奇跡と思われ」るほどに、神の「力強い」御手に守られ続けることを意味します。それは神の「真実」とも言いかえることができましょう。
 「義」または「正しさ」とは、神がアブラハムとその子孫への約束を守り通してくださるという聖書全体のテーマの中で理解されるきです。
 さらに18節は、「年老いるまで……私を捨てないでください。あなたの大能のみわざを、後に来るすべての者に告げ知らせるまで」と訳すことができます。
 それは「年老い」て、神のみわざを後代の人々に「告げ知らせる」責任を果たすことができる「まで」、「私を捨てないで」と祈ることを意味します。それは神の真実を伝えるためです。
 そして19節では「神よ あなたの義は天にまで届きます」と告白します。その「義」も神の「真実」と言い換えることができます。その神の真実が、「あなたは私を多くの苦難とわざわいとに あわせられましたが 私を再び生き返らせ 地の深みから 再び引き上げてくださいます」と、苦難のただ中での確信に満ちた希望として表現されます。
 使徒パウロは、「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:13) と書き残しました。
 私たち一人ひとりが、不真実に陥ることがあっても、主はご自身の「義」によって私たちを立ち直らせ、生涯を全うさせてくださいます。それが「多くの人にとって奇跡と思われ」る人生です。


【祈り】主よ、あなたの私に対する義、正しさ、真実に心より感謝します。自分の人生を通してあなたの義を深く味わい、それを後の世代に分かち合えるように助けてください。