詩篇70篇〜原爆を思い起こす日

 今日は広島に原爆が落とされたことを覚える日です。本当に何という悲惨が起きたことでしょう。私たち日本人はこの悲劇を語り伝える責任があります。
 残念ながら、多くの方々が核抑止力を信じています。

 ただ、そこには多くの被爆者の方々が、その悲惨さを伝え続けてきた結果として、「こんな恐ろしい爆弾を落とすことになってはいけない」という脅威が広まり、それがこの爆弾を使えなくするという民意と結びついたからという面があると思います。
 軍事的な核抑止力というよりも、原爆の悲惨さを訴えることで、核爆弾を使えなくするという民意が形成されたとも言えるかもしれません。
 
 ただ、戦後まもなくは、多くの方々が被爆体験自体を語ることを恐れていたとも言われます。それがまるで伝染するかのように忌み嫌われた時期があります。そのような中で、被爆者の方々が勇気をふり絞って自分たちの体験を証ししてくださいました。
 そこから全世界に広がる民意による核爆弾を使ってはならないというコンセンサスが広まりました。
 
詩篇70篇には不思議な祈りが記されています。

 1節は原文で「神よ、救い出してください(私を)」「主よ、助けに来てください(私を)」と訴えながら、その両方にかかるように「急いで!」と記されます。
 しかも2、3節でも「私のわざわいを喜ぶ者たち」へのさばきが、「恥を見 辱められますように」「退き卑しめられますように」「立ち去りますように、恥をかいて」と、日本人にも身近な表現で訴えられています。
 なお、「あはは」(3節) と訳されていることばは、ヘブル語では「ヘアッ、ヘアッ」という擬音語です。それは、神の民がわざわいにあっていることを「あざ笑う」様子を赤裸々に描いたもので
 神のさばきと救いが、このような感情表現として描かれるのは非常に興味深いことです。私たちは神のさばきや救いをこのように身近な感覚で味わっているでしょうか。これこそ詩篇の醍醐味です。

 5節では、「私は苦しむ者 貧しい者です」と感情を込めた表現がなされ、一節の「急いで」ということばを再び用いながら、「神よ。私のところに急いでください」と緊急な訴えがなされます。
 そして続く原文では、「私の助け」「私を救い出す方」「あなたは、ヤハウェよ」と神の御名が様々に呼ばれながら、「遅れないでください」と最後に訴えられます。
 なお、詩篇40篇の並行記事では、13節に「みこころによって」、また17節では「主が私を顧みてくださいますように」という、「神を恐れる」表現がありましたが、この詩では、「急いでください」という切羽詰った訴えが何よりも強調されています。
 以前、日本は「恥の文化」で米国は「罪の文化」であり、福音の理解のためには「罪」の意識をより自覚する必要があるなどと言われた時期があります。しかし、先の69篇でもここでも、「嘲り」「恥」「恥辱(卑しめ)」「辱め」などという「恥」の類語が繰り返され、「あはは」とあざ笑うなどの描写などもあります。実は、聖書の表現は日本人の気持ちにずっと親和性の高いものなのです。
 人から侮辱され、恥の痛みに苦しむとき、「人の評価に傷つくのは、罪意識が未熟だからだ!」などと、自分の感情を抑圧することなく、このような聖書の表現を用いて、神のさばきと救いを、大胆に祈るべきでしょう。


【祈り】主よ、あなたは私が恥を見、辱められ、卑しめられているとき、それをともに味わい、私の敵に報いられる方であることを覚え、自分に関しては愛を実践させてください。