詩篇69篇〜ガザの悲惨をともにうめく

 いま世界での最大の話題は、イスラエルが取り囲むガザ地区の飢餓状態かと思います。
 8月3日オーストラリア・シドニーのハーバーブリッジで9万人のガザ地区パレスチナ難民応援 が行われました。参加者は口々に「われわれはみなパレスチナ人だ」と唱えて、イスラエルのガザ攻撃を非難していました。
 たしかに、イスラエル政府がどれほど自分たちの行動を正当化しようとも、そこにある飢餓状態に対する責任に関しては、誰も否定できない事実かと思います。

 ただ同時に一つ認識する必要があるのは、基本的にガザ地区の悲惨な情報は、ガザ地区を実効支配するハマスの管理下にあるガザ保健省からの であるということです。イスラエルはガザとの境界を封鎖し、外国人ジャーナリストや人道支援活動家を立ち入り禁止にしているからです。

 ハマスという組織は、ガザ地区の食料配布組織から始まったと言われますが、それが過激なテロ組織へと成長してしまいます。 からご覧いただくことができます。
 昨年その指導者のハニヤ氏がイスラエルによって暗殺された時、日本のメディアでも、彼がプライベートジェットを乗り回し、カタールの五つ星のホテルに住み、途方もない財産を蓄えていたということが報道されました。

 国連の公式な食料援助はこのハマスが支配する公的な組織を通して配布されます。一方、イスラエルは、イスラエル殲滅を目標に掲げるハマスの軍事組織を絶滅することを、何よりの目標にしています。
 彼らにしてみたら、国連からの援助金でハマスの指導者が私腹を肥やし、彼らの飢餓キャンペーンによってイスラエルがますます孤立している状況です。

 イスラエルにとっても、現在のガザ地区の飢餓状態は、看過できない非常事態です。食糧配給で力を持つようになったハマスを介すことなく食糧援助をすることが彼らにとっての最大の課題です。

 世界中の多くの人々は、ガザ地区の悲惨の報道を聞くと、すぐにイスラエル非難へと心が動きます。書店に行って、パレスチナ問題を報じる本を見ても、基本はすべて、イスラエル批判へと心を向けさせるような論述になっています。
 
 もちろん、イスラエルのガザ地区攻撃を全面的に是認することができる人はほとんどいないことでしょう。イスラエル国内においてもネタニエフ首相の軍事政策への激しい非難があります。
 しかし、事実は、パレスチナ難民との共存は、ほとんどのイスラエル人自身も目指していることだということです。
 今、世界中で、誰よりもガザ地区の悲惨に心を痛めているのはイスラエルに住む人々かもしれません。それは自分たちの安全と直結していることでもあるからです。
 
 悲惨な情報を聞くとき、すぐに「誰が悪いのか?」と問う前に、その背後にある問題の複雑さに目を留め、まずともにうめき、共に嘆くとというプロセスが大切なように思います。
 詩篇69篇こそは、出口の見えない心の葛藤を神に訴える祈りです。
 ガザの悲惨を聞きながら、その問題の解決のために労している指導者の葛藤に心を向けるべきかと思わされます。

詩篇69篇1–4節、16–21節「わたしは渇く」

 この詩は、22篇とともに、キリストの十字架と復活を預言的に描いたものと見られますが、どちらもその千年前のダビデのどん底の苦悩と勝利の中で生まれたものです。
 筆者はカウンセリングの場で、来談者の悩みをお伺いした後に、「水が喉にまで入って来ました。私は深い泥沼に沈み 足がかりもありません。私は大水の底に陥り 奔流が私を押し流しています……私は 奪わなかった物さえ 返さなければならないのですか」(1、2節) という箇所をお読みすることがあります。
 すると、「それこそ、私の今の気持ちです」と、自分の絶望感が聖書に記されていることに感謝してくださいます。
 神の御子が人となってくださったのは、私たちの絶望感をともに味わい、担ってくださるためでした。それは、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った」(イザヤ53:4) 記されているとおりです。
 そして、イエスは十字架の上で、私たちすべての人間の代表として、神から御顔を背けられている絶望感を、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46) と祈られました。それは詩篇22篇1節のことばそのものであるとともに、この詩の16-18節に描かれた祈りでもあります。
  
 そして19、20節に描かれた「嘲りと恥と恥辱」とは、イエスが十字架で体験されたものに他なりません。イエスの十字架の苦しみの描写では、肉体的な痛みを示唆する表現はほとんどなく、ローマ軍の兵士たちやユダヤ人の宗教指導者たちからどれだけひどい嘲りを受けたかばかりが描写されています。
 ある人が、「人間の基本的な苦しみは人間関係から生まれるものである」と言っていますが、私たちが日々の生活で味わう苦しみの基本も、人々から謂れのない中傷を受けることから生まれるとも言えましょう。

 人に関わることが仕事であるような場合は、それが解決の糸口が見えないほどに悲惨になる場合があります。しかも、信仰者である場合は、そこで「人の理解を求めるのではなく、神の慰めを求めなさい!」などと、叱咤激励されることがあります。
 そのようなときに、「私が同情を求めても それはなく 慰める者たちを求めても 見つけられません」(20節) という表現を見ると、心がほっとします。
 同情者や慰める者を求めたくなる気持ちが決して否定されずに、孤独感がそのまま訴えられているからです。
 
 そしてそこで受ける嘲りが、「私が渇いたときには酢を飲ませました」(21節) と描かれています。その渇きとは、この文脈からするなら、人の愛への「渇き」と言えましょう。
 イエスが十字架上で、「わたしは渇く」とおっしゃったことに関して、「聖書が成就するため」と記されていますが、それはこの詩篇の祈りを、イエスが味わい、祈られたことと理解できましょう。
 私たちがそれなりに誠実に、問題に向き合っているつもりなのに、謂れのない中傷を受けるとき、それはまさにイエスの十字架の歩みの御跡を従っていることを意味しているのです。
 残念ながら、イエスに誠実にお仕えしようと思えば思うほど、イエスと同じような「嘲りと 恥と恥辱」を受けるという現実があります。しかし、そこで自分の苦しみが、イエスの御跡に従っていることの結果であると感じられるなら、そこには同時に、「復活」の希望に満ちた喜びがあふれることになるのです。


【祈り】イエス様、あなたは私が嘲りと恥と恥辱を受け、愛に渇いているとき、そこに真の慰めをお与えくださいます。さらに私を、主の御跡に従う者とさせてください。