先日の土曜日の午後は多くのケーキやクッキーをいただきながらある方の発題をもとに発達障害に関して語り合う機会が与えられました。
ご自身の子育てにおける葛藤から話が始まりましたが、それが参加者間の当事者たちの分かち合いに向かい、とってもとっても素晴らしい雰囲気の中での優しい会話になりました。
発達障害と言っても、まさに千差万別で、それぞれに固有な悩みや葛藤があります。日本では特に、身近な周りの人が、その生き難さを直してあげようと必死になることで、その人の心に大きな劣等感や心の傷を与えることがあります。
その中で感動的だったのは、レストラン事業と障害者施設をコラボさせた黒岩功代表の でした。
黒岩氏は小学校4年まではすべてにおいて徹底的な落ちこぼれ児童と見られていましたが、調理実習の授業で、母親の手伝いで身に着けていたキャベツの千切りを披露し、みんなの喝さいを浴び、そこから調理師への道を歩み出します。
料理人としての立場を築くと共に、昔の自分と同じように落ちこぼれ意識を味わっている方々に就労の場を提供しようという働きを始め、多くの方々の理解と賛同を得て働きが驚くほど順調に伸びています。
また北海道から生まれて世界展開をしている家具会社ニトリの会長の もユニークです。彼は自分が発達障害であることを七十代になってから公表しています。それは生き難さを抱えている人に希望を与えるためでした。
「苦手は克服しない」というのは面白い言葉です。それでは周りの人々に迷惑や負担をかけると思いますが、写真を見るだけで、それを許してもらえるようなキャラクターの方だとわかります。まわりに迷惑をかけることに居直ったり、自己正当化をしない限り、そこに互いの弱さを補い合う助け合いが生まれるからです。
上記はすべて、発題者さんから教えられたことです。
詩篇68篇は、まさにダビデがすべてが神のあわれみによるということを感謝した歌です。ダビデほど周りの人々から助けられやすい人もいなかったように思います。互いの弱さを受け入れ合い、助け合える交わりこそ、主が与えてくださる恵みです。
詩篇68篇「日々、私たちの重荷を担われる方」
1節の表現は、民数記10章35節の「契約の箱が出発するとき」のことばとほとんど同じです。ですからこの詩は、ダビデが主の「契約の箱」をエルサレムに運び上げたときのことを歌っていると思われます (Ⅱサムエル6:12–19)。それはダビデが全イスラエルの王として、エルサレムを首都と定め、ペリシテ人を圧倒的に打ち破った直後のことです。
「神は立ち上がり……神を憎む者たちは御前から逃げ去る」(1節) とあるように神が契約の箱とともにエルサレムに住んでくださることによって、神の都は安泰になると歌われています。神の敵は「煙」のように「追い払われる」というのです (2節)。
神の箱の到来を「正しい者たちは、小躍りして喜ぶ」(3節) という表現に、「ダビデは主 (ヤハウェ) の前で力の限り跳ね回った」ことを思い起こします (Ⅱサムエル6:14)。また、「雲に乗って来られる方のために道を備えよ」(4節) という表現に、主が決して「契約の箱」を住まいとしているわけではないことが明らかにされます。それは、何よりも、神の臨在を現わすしるしであって、それを偶像のように見ることも許されませんでした。
15節の「神々しい山 バシャンの山よ」とは標高2,800mのヘルモン山で、冬に積もる雪はイスラエル全体の水源ともなるかけがえのない山です。
一方、「神がその住まいとして望まれたあの山」(16節) とは、エルサレムのあるシオンの山で標高約800m足らずに過ぎません。しかし、「主はとこしえにそこに住まわれる」と言われたのはヘルモン山ではなくシオンの山でした。それをヘルモンの山々が「ねたみ見る」というのです。
17節で「神の戦車は 幾千万と数知れず」とあるように、神に従う者の勝利はすでに確定していますが、それに続く18節は、キリストとその民の勝利を示唆したみことばとしてエペソ人への手紙4章8節で引用されます。
ここでの「あなたは捕虜を引き連れて いと高き所に上り 人々に贈り物を与えられた」という記述は、前節の「私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました」という圧倒的な恵みをを証明するために引用されます。
これは戦いに勝った将軍が、捕虜を引き連れて戦勝パレードを行い、配下の兵士に分捕り物を分ち合う様子を指しています。同じように神の御子は神の戦いの将軍として、すべてのクリスチャンに賜物を与えてくださるのです。
これが「契約の箱」のエルサレム入城と重ねられるのは、イエスがそこで十字架に架けられたことが、「悪魔の策略」「この暗闇の世界の支配者たち」(エペソ6:12) に対する勝利を意味するからです。
エペソ書の文脈では、キリストは十字架の死にまで降られることによって、「もろもろの天よりも高く上げられた」(4:10) と記されます。十字架は忌まわしい敗北のシンボルでしたが、それがキリストにある勝利の記念碑となったのです。しかも、それはすべての信者にとっての勝利、圧倒的な恵みを受ける根拠とされました。
19節で、「ほむべきかな 主。 日々 私たちの重荷を担われる方……死を免れるのは 私の主 神による」と記されるのは、人々が「契約の箱」を運び入れたように見えても、事実は、主が私たちの真ん中に住まわれ、私たちのすべての重荷を担って、問題を解決してくださるからです。その象徴が、十字架が勝利の記念碑とされたことです。
【祈り】主が「私たちの重荷を担われる」ために、私たちのただ中に住んでいてくださることを感謝します。その驚くべき恵みの豊かさをなお深く味わう者とさせてください。