昨日は猛暑の中、鴻巣福音自由教会で開かれた故淀野誠三先生の葬儀に参列して来ました。この7月末で77歳になるところだったということで、早すぎる死と思えました。
ただ、この9年前の脳出血以降、視力と言語能力がほとんど失われ、牧会の働きはご長男に任せておられ、奥様がご自宅で介護を続けておられたので、ご遺族も教会の方も、神様の御手の中にある平安を味わっておられました。
淀野先生とは2001年のスイスのラサという小さな村で開かれた研修会にともに参加して以来、親しくお交わりをいただく機会がありました。
私がお会いしたころは、多くの若い牧師が先生から学びたいと思うようなすばらしい働きを進めておられたころでした。当時の僕はいろんな意味で自分の働きに行き詰まりを覚えていましたが、そのような僕の話しを共感しながら聞いてくださいました。淀野先生は、僕が悩んでいた一つ一つが、真実に悩むべきことを悩んでいるように受け止めてくださいました。
何の解決もないようでも、僕が悩んでいることのすべてが、神の愛のみ手の中にあると感じさせてくれる、何とも言えない優しさがありました。
淀野先生はご自分の働きに対する神様の召しを本当に真実に受け止めておられ、その時代の雰囲気に流されることなく、徹底的に聖書のみことばに向き合い、真実にみことばを取り次いで来られた方です。
僕の場合は先生のような自分に対する厳しさはなかったのですが、志においては、先生と同じような理想を持っていたので、同じ方向を見ているという励ましを受けることができました。
振り返って見ると、本当に、淀野先生との出会いによって、僕は自分らしい聖書の解き明かし、牧会に、自信をもって進めるようになったと思います。
今から15年~20年前に鴻巣教会の祈祷会や青年会でご奉仕させていただく機会がありました。今回葬儀に参列したらそのことを覚えて、それ以降の小生のメッセージを聞いていただいているという複数の方に出会うことができました。
改めて淀野先生と僕の聖書解釈に共鳴し合う部分があることを覚えて嬉しくなりました。
淀野先生は今から45年前に、生まれ育った関西圏から、一本の杖だけを持って埼玉県の北の地にやって来られました。病に倒れる少し前に、創世記32章10節の以下のみことばがご自身のみことばであると証ししておられました
私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるのに値しない者です。私は一本の杖しか持たないで、このヨルダン川を渡りましたが、今は、二つの宿営を持つまでになりました。
これは、まさに機せずして先日の当教会での礼拝メッセージの中心聖句の一つでした。その際にヤコブの物語全体を振り返り讃美歌320番「主よ、みもとに近づかん」を歌いましたが、昨日の葬儀でもこの賛美が出棺の際に歌われ、本当に、主の真実に心からの思いを馳せることができました。
以下の詩篇65篇のテーマは、主の真実、主に義です。
詩篇65篇「義のうちに答えられます」
1節の原文は「御前には静けさと賛美があります。神よ、シオンにおられる」という順で記され、「あなたに誓いが果たされますように」と続きます。そこには、聖なる神の前に軽々しく近づくことができないという思いが込められています。
それでいながら2節では、「祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります」と呼び掛けられます。それは、聖なる神が「肉なる者」を招いてくださるという逆説の不思議です。
3節にあるように、私たちは「数々の咎」が自分を圧倒するような中で、神の御「赦し」のゆえに神に近づくことができます。私たちにとっては、神の御子イエスの十字架こそが、神のあわれみに満ちた「赦し」のシンボルです。
クリスチャンとは、イエスの十字架が自分の罪のためであったと信じ、咎を抱えたままの自分が、神の招きを受けていると信じる者です。ですから4節の「幸いなことよ あなたが選び 近寄せられた人」とはすべての信仰者に向けられたことばです。私たちは聖なる神の「大庭に住む」者とされ、神の「家の良いもの……聖なるもので満ち足りる」ことができるのです。
5節の原文の語順は、「恐るべきみわざで、義のうちにあなたは答えてくださいます。私たちの救いの神よ。あなたは信頼の的です。すべての地の果ての」と記されています。
ここに記された神の「義」とは、神が私たちの咎に応じて厳しいさばきを下すという意味ではなく、2、3節にあったように、神が「祈りを聞かれる方」であり、「背きを……赦して」くださる方であるということを意味しています。
私たちは「大波のとどろき」や「もろもろの国民の騒ぎ」におびえますが、私たちは神がすべてを「鎮め」てくださることを信じられ、「高らかに歌う」ことができるようにしてくださいます (7、8節)。
9–13節には、神が約束の地をありとあらゆる祝福で満たし、豊かな収穫をもたらしてくださることが、数々の美しい描写で記されています。「あなたは地を訪れ、水を注ぎ これを大いに豊かにされます……広やかな平原は……喜び叫び 歌っています」(9–13節) という美しい約束を声に出して読むときに、私たちの心には、神への信頼が生まれることでしょう。
私たちは、しばしば、「不信仰な私たちが神に信頼できるようになったら、神は私たちを豊かに祝福してくださる」というような、因果律で神の祝福を考えがちです。しかし、聖書は、疑い深く、狡猾で、自己中心なイスラエルを、神が「選び」「近寄らせて」くださった結果として、彼らが約束の地に導かれたと描いています。
すべてが、神のあわれみから始まっているのです。そして私たちの信仰とは、そのような神の真実、また「義」に対する私たちの応答に他ならないのです。たしかに、聖書には、民の不信仰や不従順に対する神のさばきが繰り返し記されますが、それはあくまでも、圧倒的な神のあわれみを繰り返し軽蔑した「恩知らず」に対するさばきとして描かれます。
イエスの十字架は、私たちの罪に対する神の厳しいさばきを意味してはいますが、それ以前に、神の一方的な赦しと招きのメッセージなのです。
神の「義」を、聖なる神が罪人を招いてくださるという、神の真実の物語から読むことができます。ルターの宗教改革は、そのような「神の義」の意味の再発見から始まった運動でした。
【祈り】聖なる神よ、あなたが咎に圧倒される私たちを赦し、招いてくださることを心より感謝します。聖書を神のあわれみの計画から読む者とさせてください。