創世記27章~33章「主の祝福がもたらす豊かさ」

2025年7月20日

多くの人々は、富や名声に惹かれて依存症の罠にはまります。確かに富も力も人間関係も極めて大切ですが、それらすべてをもたらす方がどなたなのかを忘れてはいないでしょうか?

ウエストミンスター大教理問答の第一では、「人間のおもな、最高の目的は何であるか」という問いに対して、「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである (Man’s chief and highest end is to glorify God, and fully to enjoy him forever)」と答えられます。

信仰の核心とは、何かの義務を果たすというよりは、主を喜ぶに他なりません。そして主の祝福を受け継ぐことは、何にも代えがたい宝です。

1.イサクからの「祝福」を得るために、すべてを失ったヤコブ

「イサクはエサウを愛していた。猟の獲物を好んでいたからである。しかし、リベカはヤコブを愛していた」(25:28)という歪んだ関係は、祝福の継承における悲劇を生みます。

イサクは自分の判断でエサウを祝福しようとしますが、その前に猟の獲物を食べたいと願います (27:1–4)。それを聞いたリベカは、ヤコブに「子よ。あなたへののろいは私の身にあるように」(27:13) と言ってまで、祝福を騙し取る計略を授けます。

ただそれはリベカが双子を胎に宿した時から「兄が弟に仕える」(25:23、ローマ9:12) と「神の選び」を聞いていたからです。真の問題はそれが夫婦間で共有されていなかったことにあります。

そして愚かにもイサクは声の違いに気づきながら、「おいしい料理」(27:4、7、9、14、17) に気を惹かれ、ヤコブを祝福します。先に「エサウは長子の権利を侮った」(25:34) と非難されましたが、イサクも同じ問題を抱えていたと言えます。

「祝福」とは、イサクの祈りにあるように「神が……天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。諸国の民がおまえに仕え……おまえの母の子がおまえを伏し拝むように」(27:28、29) とあるように成功と繁栄、尊敬などを得ることを意味します。

ヤコブはそれを受け、エサウは正反対の言葉を受けました (27:39、40)。不思議なのは、イサクは騙されてヤコブを祝福したのに、それが有効であったことです。それは祝福を与える権威が神にあったからです。

実際、エサウに対するイサクの祈りの内容を見ると、それが彼の意志を超えた神から出ていることが明らかです。後の教会の歴史では、迫害の中で信仰を捨てた司祭が授けた洗礼は有効であるかという議論が起こった時、礼典の有効性は司式者の信仰ではなく、その権威を授けた教会にあるという判断が下されます。洗礼を授けるのは、個人ではなく教会なのです。

エサウはこのことで激しく怒り、「あいつの名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけて(語根:アカブ)。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った」(27:36) と言い、ヤコブを殺すことを決意します (28:41)。

母リベカはエサウの心の声を聞き、ヤコブをハランに住む兄ラバンのもとに遣わし、そこでエサウの憤りが鎮まるのを待たせるともに、信仰を共有できる妻を娶るようにと願います。リベカはイサクに「私は(エサウの妻の)ヒッタイト人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました」と言いますが (27:46)、それはヤコブを逃がす口実ばかりではありません。リベカは、神の民を作るために父の家を離れて見知らぬ土地に来ました。もし息子たちがカナンの娘を娶ってしまうなら、彼女の人生自体が否定されます。

その意味でエサウは既に、自分で祝福の継承者となる道を閉ざしていたのです。

イサクはヤコブを送り出すに当たり、改めてヤコブが祝福の継承者であることを明らかにします。ただし、エサウを気遣うイサクは、遠い旅に出るヤコブにほとんど何も持たせず、しもべも同行させず、一人で送り出しました。ヤコブはイサクからの祝福の祈りだけを財産に、見知らぬ地に向かいます。

その上で、「ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった……ある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした……彼はその場所で石を取って枕にし……横になった」(28:10、11) と簡潔に描かれますが、彼は不安と寂しさで一杯だったことでしょう。

彼は、母リベカの勧めがあったにせよ、結果的には、まだ見ることができない将来の「祝福」を得るために、目の前の家族も財産もすべてを失ってしまったのです。エサウは「祝福」は逃しましたが、家族と富に恵まれていました。あなたならどっちを選ぶでしょうか?

2.「まことに主 (ヤハウェ) はこの場所におられる……ここは天の門だ」

ヤコブは孤立無援で暗闇に囲まれています。しかし、「彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた」(28:12) と描かれます。それは、からの助けがヤコブに向けて差し伸べられ、神と彼との間を取り次ぐ御使いがいることを示します。

しかも、そこで起こった現実が何と、「主 (ヤハウェ) がその上に立って」(28:13) と描かれます。これは「主 (ヤハウェ) はマムレの樫の木のところで、アブラハムに現れた」(18:1) とあったことに匹敵します。

そこで、主(ヤハウェ)が直接に、「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主 (ヤハウェ) である……この地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり……地のすべての部族は、あなた(子孫)によって……祝福される。

見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り……あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない(28:13–15) と仰せられます。

ヤコブのこの体験は、私たちにとっても「信仰の原点」となります。人は基本的に孤独を恐れますが、聖書は、積極的に、神の前にひとりになることを勧めます。孤独を避ける代わりに、深めるのです。

イエスの父となるヨセフが、誕生する救い主の名が、「インマヌエル(神が私たちともにおられる)」と聞かされたときも (マタイ1:23)、彼が許嫁のマリヤの妊娠のことを知り、たった一人で思い悩みながら眠っていたときでした。

その後、「ヤコブは眠りから覚めて」、「まことに主 (ヤハウェ) はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった……ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ」と言い、「その場所の名をベテル(神の家)と呼び」ます (28:16–19)。私たちも八方塞と思える中で、ひとり静まる時、自分の上に「天の門」が開かれているのを知ることができます。

ところで、イエスは公生涯の初めに、ナタナエルの信仰告白に応答して弟子たちに向かい「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります」(ヨハネ1:51) と言われました。これこそ、イエスが様々な偉大なみわざを行なうことができた理由です。

そして私たちが「神の子」とされるとは、イエスに起こったことが私たちにも起こるということです。目の前の道が閉ざされていると思えるときにも、天の門が開かれているなら心配する必要はありません。神の御使いがあなたの上を上り下りしてくださるからです。

このヤコブの夢から生まれたのが讃美歌320番「主よ、みもとに近づかん」です。今から約百年前、タイタニックが氷山にぶつかって沈没し始めたとき、ウォレス・ハートリーという英国のヴァイオリニストは、乗客たちのパニックを鎮め、女性や子どもが異常に少ない救命艇に誘導されるようにと、八人の弦楽バンドを励まして演奏し続けました。彼らが船と共に沈む直前に演奏されていたのがこの曲だと伝えられています。

親が子のために命を捨てられるように、主にある「永遠のいのち」を確信する者は、命がけで人を愛することができます。この美しい歌詞を味わう時、真の喜びをどこに見いだすべきかが心に迫ってきます。

ヤコブはこれに感動し、「神が私とともにおられて……無事に父の家に帰らせてくださるなら、主 (ヤハウェ) は私の神となり、石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます(28:20–22) と誓約します。

それは自分の旅路が成功に終わったことを確認したあかつきには、同じ場所に主 (ヤハウェ) のために祭壇を築くという意味です。今、余裕のない人もこのような誓約で道を開くことができます。

この夢はヤコブにとって信仰の旅路の出発点を飾るものでした。私たちも、不安を持ちながらも最初の一歩を踏み出す時、神の約束が自分に迫ってくるのが分かります。

3.ヤコブが受け継いだ「祝福」がもたらした富

ヤコブは母の郷里に辿り着きましたが、そこにラバンの娘ラケルが羊の群れを連れてやって来ます。まさに、ヤコブを生まれる前から選んでおられた神は、彼が願う前からすべてを備えておられました。

私たちは自分の信仰の未熟さを卑下する必要はありません。主の祝福が信仰を育んでくださるからです。

ヤコブはラバンのもとに身を寄せ、彼に仕えます。ヤコブは、「ラケルのために七年間あなたに仕えましょうと言って、結婚の了承を得ます (29:18)。ところが婚姻の祝宴の後、朝になってみると、そこにいたのは姉のレアでした。これはヤコブが目の悪いイサクを騙したことに似ていますが、人を騙す能力はラバンがはるかに上手でした。

ただこの後のことが「主 (ヤハウェ) はレアが嫌われているのを見て、彼女の胎を開かれたが、ラケルは不妊の女であった」(29:31) と記されます。レアは嫌われる代わりに多くの子どもが与えられ、ラケルはヤコブの愛を得る代わりに不妊を悩みました。神は苦しみとセットに祝福を与えておられました。

しかも、主はそれぞれの葛藤をご覧になり、ときに応じてあわれみを施し、ヤコブに多くの息子たちが生まれる道を開かれました。そして、レアは主のあわれみを受けルベン、シメオン、レビ、ユダを次々に産みます。その中で、彼女は主(ヤハウェ)に感謝し、主をほめたたえています (29:32、33、35)。

一方、ラケルは姉に嫉妬し、「私に子どもをください。でなければ、私は死にます」とヤコブに迫ります (30:1)。ところが、ヤコブは、リベカの不妊に悩んだ父イサクの場合のようには祈りはしなかったようです。ラケルは女奴隷のビルハによって子を得ようとし、それによってダンとナフタリが生まれます。

それに対抗し、レアは自分の女奴隷ジルパによってガドとアシェルを産みます。

その後、長男ルベンは「恋いなすびを見つけ」(30:14)、母レアに持ってきます。これは不妊治療に効果があると見られたようですが、息子が母の夜の生活まで気づかうとは異常です。まさにアダルト・チャイルドとも言えましょう。

しかも、このレアとラケルの争いに、ヤコブは家長としての責任を果たそうとはしていません。これは残念ながら、アブラハムやイサクにも見られた姿勢であり、機能不全家族の特徴です。

その後、レアはイッサカルとゼブルンを産みます。このように、神は、嫌われているレアをあわれみ、彼女から六人もの男子を誕生させます。

その上で、「神はラケルに心を留められた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた」(30:22) と記されながら、ヨセフの誕生が描かれます。不思議にも、レアとラケルがヤコブの愛を得ようと必死になったおかげで十一人の男子が誕生したのです。

ヤコブは家長としては失格でしたが、神が彼とともにいてくださったからです。神の「祝福」因果律を超えた形でヤコブに及びました。それにしても、レアもラケルも、極めて人間的な動機で動きながらも、それぞれの子を神の賜物と受けとめ感謝をしていました。家族としての関係は歪んでいるのですが、それぞれなりに、神を見上げて歩んでいたというしるしです。

この後、ヤコブは郷里に帰ることを望みますが、ラバンは彼のおかげで家が豊かになっていたことを認め、帰すのをしぶります。ヤコブはラバンと交渉し、彼に裏切られながらも、自分の家族も家畜を増やしました。それは(ヤハウェ)がヤコブとともにおられたからです。

これこそ祝福を受け継いだ証しであり、その結論が、「このようにして、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、それにらくだとろばを持つようになった」(30:43) と記されます。たとえ人から騙され、裏切られても、主がともにいてくださるなら、すべてが祝福に変えられます。

そのことが詩篇37篇では、「悪を行う者に対して熱くなるな……彼らは草のようにたちまちしおれる……主 (ヤハウェ) に信頼し、善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主 (ヤハウェ) をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる……主 (ヤハウェ) を待ち望む者、彼らは地を受け継ぐ……柔和な者は地を受け継ぐ。また、豊かな平和 (シャローム) をおのれの喜びとする」(1、3、4、7、11) と約束されます。

4.「ヤコブは……御使いと格闘して勝ったが、泣いてこれに願った」

その後、主(ヤハウェ)はヤコブに「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる」(31:3) と言われます。これは20年前のベテルでの主の顕現 (28:15) に続くものです。

ただヤコブは、「ラバンを欺いて、自分が逃げるのを彼に知られないようにし……自分のものすべてを持って逃げ」る必要がありました。

ラバンがヤコブに追いつて、彼を責めたとき、ヤコブは「もし私の父祖の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう」(31:42) と言います。ラバンも神の警告を聞いて、ヤコブを平和のうちに去らせました。

その後、「ヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが……現れ」(32:1)、エサウとの出会いを恐れる彼を励まします。彼は御使いたちを見て、「ここは神の陣営だ」と言い、そこを「マハナイム」と呼びます。ヤコブは今、約束の地に入る前に兄との和解を望み、使者を遣わします。

ただそれに対し、エサウが「四百人を引き連れてやってくる」との知らせが届きます。

そこでヤコブは必死に、「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。私に『あなたの生まれた地に帰れ。わたしはあなたを幸せにする』と言われた主 (ヤハウェ) よ」と呼びつつ、「私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに値しない者です。

私は一本の杖しか持たないで、このヨルダン川を渡りましたが、今は、二つの宿営を持つまでになりました。どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してくださいと祈ります (32:9–11)。

そして彼は合計550頭にも及ぶ家畜を、「エサウへの贈り物」として選び、それを三つの群れに分けて先に行かせます (32:14、15)。そこでヤコブは、「贈り物で彼をなだめ、その後で彼と顔を合わせよう。もしかすると、私を受け入れて(私の顔を上げて)くれるかもしれない」と思ったと描かれています (32:20)。ヤコブは自分がエサウに対して咎を負っていると思っていたので、彼の怒りを「なだめ」ようと必死でした。

ところがその後、ヤコブは、どうしたわけかその夜のうちに起き、「二人の妻と二人の女奴隷、そして十一人の子どもたちを連れ出し、ヤボクの渡し場を……渡らせ」(32:22) ます。今や彼は獲得したすべての物を明け渡した上で、一人だけ、後に残ります。

するとこのとき、ある人が夜明けまで彼と格闘し」(32:24) ました。これはヤコブが求めた戦いではなく、ある人の側から彼に向き合った結果です。彼の人生は、自分の知恵と力で成功をつかみ取るようなものでしたが、今も、ふって湧いた格闘に勝つことだけに必死です。それは自分の内面の恐れとの戦いでもあります。

しかし、「ももの関節」(32:25) が外されたとたん、その人に必死にすがりつき、祝福を願い求めます。その際、彼は自分の名を尋ねられ、ヤコブと答えることによって、自分の生き方をも顕にします。そこには「押しのける」とか「つかみとる」という意味がありました。

それに対し「その人」は、あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ(32:28) と、新しい名を与えます。「イスラエル」とは、「戦う」と「神」とを合わせたものです。そしてその意味を「あなたが神と、また人と戦って、勝ったから」と言います。

後にホセアは彼の生涯を、「ヤコブは母の胎で兄のかかとをつかみ、その力神と争った。御使いと格闘して勝ったが、泣いてこれに願った。ベテルでは神に出会い、神はそこで彼に語りかけた」(12:3、4) とまとめます。彼は生まれる時から兄のかかとをつかみ、兄を二度も押しのけ、祝福を父から騙し取りました。しかし、彼が最初から向き合うべき方は、神ご自身でした。

ここでヤコブが、「あなたの名を教えてください」(32:29) と尋ねるのは、神をも自分の頭で把握したいという気持ちの現れとも言えましょう。

しかし、彼に必要なのは、ただ遜って神の祝福を受けることでした。そして彼は、願った「祝福」を受けることができました。これこそが、神と戦って「勝った」と言われる意味ではないでしょうか。私たちもときには、祝福」を受けるために、神との祈りの格闘が必要かもしれません。

彼はこの出会いを通して、「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」(32:30) と言います。そこには恐れと同時に、喜びがありました。

彼は「そのもものために足を引きずっていましたが (32:31)、太陽は彼の上に昇って」いました。これは何と感動的な情景でしょうか。これは夢ではなく現実でした。そのしるしが「足を引きずって歩く」ことでした。そしてその痛みの中で、神の圧倒的な祝福を感じることができました。私たちも同じように、現実の痛みを通して「祝福」を体験することができます。

その後、ヤコブは家族の先頭に立って、「七回地にひれ伏し」(33:3) ながらエサウに近づきます。それに対し、「エサウは……走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた」と描かれます (33:4)。

つまり、イスラエルという名には、自分の力で戦う生き方から、神の御前に遜るという生き方への転換が込められているとも言えましょう。

なお、ここでヤコブへの祝福が、「足を引きずる」ことの中で現わされたように、神の力は「弱さのうちに完全に現れる」(Ⅱコリント12:9) と記されます。

そしてそのようなヤコブの生き方は、私自身を現わしています。自分の弱さを隠し、神も人も自分の頭の枠でとらえようとし、自分の不安と戦っていました。しかし、あるとき、不安を抱えたままの自分を支える神がおられることに気づかされました。

私の歩みは、精神的に足を引きずるような状態のままですが、その私の上に太陽が上り、神の愛に包まれているということが少しずつ分かってきました。不動の心を持つことが目標ではありません。

ヤコブが神から特別に愛されたのは、彼にその資格があったからではありません。神は彼を一方的に選び、数々の恵みを施し、神を信頼することを教え、最後に何よりも「祈ること」を教えてくださいました。それはイエスが弟子たちに「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び」(ヨハネ15:16) と言われたのと同じです。

そして神は忍耐をもって彼を導き、彼の誓約を実行させてくださいました。あなたの歩みにも同じような神の導きがあります。それを象徴するような「新しい名」があるのかもしれません。

たとえば私の場合、不安のただ中で神の御手に「抱擁」されているというイメージが迫ってくることがありました。あなたの人生にも、ヤコブを導かれた神のあわれみが迫ってくる体験があったことでしょう。