詩篇64篇〜日の下に、新しいことは何もない——ヤコブの生涯

 最近は毎週のようにパソコンやネット操作でつまずき、新しい時代について行けないもどかしさを感じさせられます。そのような中でも、必死に体力だけは保とうとスポーツクラブに通い続けています。
 昨晩は、「最も激しいズンバ」なるものにチャレンジをして、心から楽しみ汗を流すことができました。不思議なほどに、「古くて新しい動き」に新鮮さを覚えました。

 そのような中で、ふと「日の下に、新しいことは何もない」(伝道者1:9) ということばが思い浮かびました。明日の礼拝でも創世記27章~33章をまとめてヤコブの生涯から学ばせていただきます。今から四千年近く前の物語に、現代の私たちの人生を重ねて見ることができます。
 今から約40数年前、証券会社で毎週のように変わる将来見通しの中で葛藤し、変わることのない救いの真理を語る者となりたいと思わせられました。
 時代の変化について行けないと葛藤を覚えながら、同時に、自分は四千年前から変わることのない人間の歩みと、そこに働く神の恵みを語り続けることができる特権を感謝しています。

 以下の詩篇64篇は、三千年前のイスラエルの王ダビデの祈りです。私たちの多くの悩みは身近な人との行き違いや葛藤から生まれます。そこで起きていることの気保温パターンは昔から何も変わっていません。

詩篇64篇「彼らは自らの舌につまずきました」

 
 この詩は63篇と同じように神との交わりへの渇きが歌われていますが、この前半では特に、敵の攻撃に悩む姿がさらに強調されています。
 1節は原文の順番では、「聴いてください!神よ」という叫びから始まり、「私の声を、私が嘆く時に」と続きます。そして、「敵の脅かしから守ってください。私のいのちを」と訴えられます。「脅かし」とは、ダビデの敵が彼に現実的な脅威を及ぼしている現実を示しています。
 そして、神に向かって、「私をかくまってください!」と訴えながら、「悪を行なう者どものはかりごと」「不法を行なう者どもの騒ぎ」という二つの脅威からかくまわれることを願っています。
 その脅威とは、敵たちが「その舌を剣のように研ぎ澄まし、苦いことばの矢を放っています」という言葉の暴力です。著者は自分を4節で「全き人」と呼んでいますが、それは何の罪もないという意味ではなく、責められる理由がないのに、「隠れた所から」「不意に」いわれのない攻撃を受けることを意味します。
 私たちの世界でも、自分にとって最も痛いところ、傷つきやすいところを狙い撃ちするように、言葉の暴力を浴びせる人がいるかもしれません。それほど、ことばは人を傷つける力を持っています。

 5、6節は、敵たちが「悪事に凝って」「示し合わせて……罠をしかけ」「不正を企み」その「策略」を成し遂げるようすが描かれます。そして、それをまとめるように、「人の内なる思いと心とは 底が知れません」と告白されます。
 それは、人の悪意の深さを描いたもので、残念ながらそのような現実が人の心の奥底にはあります。箴言16章27節には、「よこしまな者は悪を企む。その唇の上にあるものは焼き尽くす火のようだ」と記されていますが、「よこしまな者」の直訳は「ベリヤアルの者」、つまりサタンの手下という意味です。
 私たちの最も傷つきやすい部分を見分けて、巧妙な弁舌で攻撃して来る者は、人間的には「賢い」ようでも、その現実はサタンに操られている者に過ぎません。サタンは「告発する者」とも訳すことができますが、「どのようなことばを投げかけると、相手が怯(ひる)むか……」などを研究している者は、闇の力の支配下にあります。
 彼らの自滅の様子が7節から描かれます。それは「矢」を放とうとする敵に、神ご自身が「矢を射掛けられるので、彼らは不意に傷つきます」という、神ご自身の手による復讐です。
 そのことが、「彼らは自分の舌につまずきました」(8節) と描かれます。まさに、人を貶めた彼ら自身の言葉の暴力が、自分のところに帰って来るというのです。
 そして、「彼らを見る者はみな 頭を振って嘲ります」と、攻撃者自身が、衆目の嘲りの対象とされるという逆転が起きます。
 その結果が9節で、「こうして すべての人は恐れ 神のみわざを告げ知らせ そのなさったことを悟ります」と言われます。サタンに動かされて私たちを攻撃する人は、神の敵として自滅に向かっているのです。そのような霊的な現実を見ながら、私たちは彼らを憐れみ、彼らのために祈る必要がありましょう。
 10節ではこの詩のまとめが、「正しい人は主 (ヤハウェ) にあって喜び 主に身を避けています。心の直ぐな人はみな 誇ることができます」と記されます。
 私たちには、「キリストのうちにある者」としての勝利が約束されています。それを忘れてはなりません。
 


【祈り】主よ、私たちは人の悪意の深さに驚き、怯えることがあります。しかし、主がすべての状況を支配しておられることを感謝します。主の公正なさばきにゆだねます。