世界のいたるところで戦争が起きています。私たちは本当に熱く平和のために祈る必要がありましょう。
イエス様は、「剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26:52) と言われ、軍事力による問題の解決を戒められました。
しかし、16世紀のスイスの宗教改革者ツィングリの銅像には、彼が聖書と剣を併せ持っている姿が描かれています。彼はカトリック勢力との戦いに従軍牧師として参戦し、命を落としたからです。
その話を聞いた同時代の先輩のルターは、「剣を取る者は剣で滅びる」と書いてあるではないか、と冷たく言い放ったという記録が残されています。
ところがドイツでは最近のウクライナ情勢を経て、軍事予算の急拡大がなされています。最近の米国のトランプ政権がウクライナに防空システムパトリオットの供与を承認したのは、ドイツのメルツ首相(キリスト教民主同盟党首)が、いち早く、ドイツがパトリオットの代金を支払うと申し出たからだと言われています。
最近、アンゲラ・メルケル元ドイツ首相の「自由」を読んで気づいたことがあります。ドイツでは戦後から2011年まで18歳以上の男性の徴兵制度がありました。メルケル首相の時代にそれが変わりました。
しかし、彼女はその本で、「兵役義務は停止されたが、廃止されてはない」と繰り返し強調しています。
彼女が自分の政権時代を振り返って、軍事予算の削減を急ぎ過ぎたことを反省しているほどだからです。兵役義務の復活はあり得るということのようです。
先日の7月5日、ウクライナですばらしい宣教活動をしておられる船越先生ご夫妻が当教会に来られ、宣教報告をしてくださいました。その多くの時間を使って、ウクライナが自国を軍事力で防衛することの正当性を訴えておられました。彼自身は、昔は軍事力を否定する絶対平和主義者であったとのことです。まだの方は でご覧いただくことができます。
私たちはみな、心からの平和を願っています。人を殺すための軍事力による問題解決は絶対に避けるべきと思って当然とも言えます。しかし正当化できない軍事力を行使して攻めて来る国がある中で、「黙って迫害に耐えましょう!場合にっては黙って殺されましょう!」とは言えないという人々の気持ちにも理解をすべきでしょう。
この世の政治には、「あちらを立てれば、こちらが立たず」という二律背反がつきものです。現実を知れば知るほど、どう判断して良いか分からなくなることがあります。そこには、真理への渇き、または神への渇きがあると言えましょう。神への渇きこそ、以下の詩篇63篇のテーマです。
63篇1–8節「私のたましいは あなたに渇きます」
標題には、「ダビデがユダの荒野にいたとき」とあります。これは彼がサウル王に追われ、ユダの荒野をさ迷っていたときを思い起して作られたのでしょう。私たちの人生にも、いわれのない非難を受けて、荒野をさ迷うようなときがあるかもしれません。
1節の「あなたは私の神。私はあなたを切に求めます」という告白に、創造主ご自身との親密な関係が告白されています。
ただ、置かれている状況が、「水のない 衰え果てた乾いた地」なので、神しか頼りにできないという意味で、「私のたましいは あなたに渇き、私の身も あなたをあえぎ求めます」と言われます。
私たちはあまりにも様々なものに囲まれ過ぎて、神に渇くことが少ないかもしれませんが、よく目を開くと、この世的な土台など、いつ崩れるか分からないような不安定なものに過ぎません。
興味深いのは、「私は……こうして聖所で あなたを仰ぎ見ています」(2節) と言われる「聖所」が「荒野」であるということです。それは、神の「力と栄光」が見られる場所こそが「聖所」であり、それは私たちが試練のただ中で体験できる場だからです。
「あなたの恵みは いのちにもまさる」(3節) とありますが、ここでの「恵み」とは、神がご自身の契約を守り通してくださるという「真実の愛」(ヘセド)です。それが今ここにある現実の「いのち」よりもすばらしいというのは、その神の愛こそが人生の真の基礎となっているからです。
私たちは目に見えるものの背後にある、神の真実に目を留める必要があります。大宇宙の中でのこの地球環境のすばらしさを思い巡らすだけで、すべてが当たり前ではなく、神の創造のみわざの不思議によることが分かります。
「それゆえ私は 生きるかぎりあなたをほめたたえ あなたの御名により 両手をあげて祈ります」(4節) とあるのは、神の「恵み」(真実の愛)を心から味わったことの結果です。ここには、神に渇き、神との交わりを「あえぎ求め」ていた者が、「私のたましいは満ち足りています。喜びにあふれた唇で……賛美します」(5節) と告白するという驚くべき変化が描かれています。それは、荒野のただ中で体験できた祝福です。
1200年前後に生きたカトリックの聖人フランシスコは、イタリアの豊かな商人の息子でしたが、財産権をすべて捨てて無一文になることで、驚くべき喜びと平安を体験したと言われます。
ダビデが体験したのも、そのような貧しさの中にある自由だったのかもしれません。ダビデの愚かさが目に付くのは、王権が安定した後のことです。
富と権力は人間を堕落させる誘惑に満ちています。もちろん、この社会の様々な不条理や貧困の問題を解決するために、富と権力は非常に有効な手段となります。基本的に政治はそれをいかに社会全体のために有効に用いるかを巡っての戦いの場とも言えます。
しかし、人は、富と権力を手にしたとたん、それがすべて創造主から一時的にあずけられているものに過ぎないということを忘れてしまいがちです。そこに落とし穴があるのです。
「まことに あなたは私の助けでした。御翼の陰で 私は喜び歌います」(7節) という告白こそ、神の「恵み」(真実の愛)を体験した結論です。目に見える豊かさに「渇き」を覚えるのではなく、創造主との交わりに「渇き」持つことの中に心の自由があります。
【祈り】主の、あなたの力と栄光を、目に見える富や権力ではなく、あなたとの交わりの中で見ることができるようにしてください。私のたましいは あなたに渇きます。