今朝は、米国のトランプ大統領からの日本の輸出品に25%の関税を8月1日からかけるというニュースで驚かされました。
本日の株式市場では、それが想定内ということで、かえって上げ基調になっているほどでした。為替市場も比較的落ち着いているようです。
ところで今年の春、石破首相がトランプ大統領を訪問した際の最大の課題は日本製鉄によるUSスティールの買収でした。
そのとき買収というよりパートナーシップであり多額の設備投資でUSスティールの競争力を上げ、中国に対抗できるようにするという話しが、トランプ大統領から評価されたということでした。
米国の伝統的な製造業の競争力を回復させるということがトランプ政権の悲願です。
それと同じような手法が、造船業にも期待されます。自動車産業も政府間協議では、米国の自動車業界が日本や他の国々が買いたくなるような車を生産できるように設備投資を助けるということができましょう。
実は、米国と日本は切っても切れない密接なパートナーシップを既に結んでいます。
ここで何度も書きましたが、米国の貿易赤字は、米国に世界のお金が集まって来る結果、米国人が身の丈以上の消費をできることの現れに過ぎません。
経済学的には、米国が日本との取引で一方的に損をしているということは絶対にありません。
米国の財政赤字を補填するお金を出している最大の国は、日本です。
以前は、一時的に中国が最大の米国債の保有者であったことがありますが、中国は米国との摩擦を見越すように、数年前からどんどん米国債の保有を減らしています。一方、日本はどれほど貿易摩擦の話が出ても、米国債の保有を増やし続けています。
二番目米国債の保有者は英国になっていますがそこには産油国のお金が多額に入っています。その他のケイマン諸島の場合も同じです。 でご覧いただけます。
ですから、日本からの資本が流れるおかげで、米国政府は本当に助けられているのです。日本製鉄のUSスティール買収に見られるように、日本と米国は強力なパートナーシップが築かれています。
ですから、トランプ大統領の関税政策に怯える必要はありません。短期的には金融市場が長期的には日本からの直接投資が、米国の製造業を守る方向に動きます。それは中国に対抗する必要を日米に共通の利害関係があるからです。
米国からの発信に過剰反応する必要はありません。市場経済のシステムがバランスを取るように動くからです。
国際政治とは関係なく、私たちの目の前にも様々な不安材料が生まれてきます。それに対して私たちは以下の詩篇の祈りで対応することができるでしょう。
詩篇61篇「及びがたいほど高い岩の上に」
この詩の背景は確定できませんが、2節の「私は地の果てから あなたを呼び求めます」との表現から想定できることがあります。詩篇42篇6節では、はるか北の「ヘルモンの地から……あなたを思い起します」と主の民と共に礼拝することへの憧れが記されていましたが、著者ダビデはそれと同じような切羽詰った状況に置かれていると思われます。それはエルサレムでの「幕屋」(4節) 礼拝が守られるようになった後でしょうから、息子アブシャロムのクーデターで都を離れざるを得なかったときかも知れません。
1節の原文は、「聴いてください!」という叫びから始まり、後半も「耳を傾けてください!」という別の文章に分けられています。
2節の原文の語順は、「地の果てから、あなたを私は呼び求めます、私の心が衰え果てるとき。及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください」と記されています。つまり、「地の果て」で心が萎えているときに、安全な「高い岩の上」へと移されることを願っているのです。
私たちの心は周りの状況によって揺り動かされ衰え果てることがあるからです。それを前提に3節では「あなたは私の避け所(シェルター)、敵に対して強いやぐら(砦の塔)」と告白されます。それは、必死に救いを求める中で、神ご自身が彼を敵の攻撃が及ばない所に隠し、守ってくださるとの確信を得られたからです。それは、試練のただ中で与えられた平安でしょう。
その上でダビデは、「あなたの幕屋にいつまでも住み、御翼の陰に身を避けます」と告白します (4節)。それは神が彼に現実的な救いを見させてくださったからです (5節)。
6、7節で、「王のいのちを延ばし……」と王権の安定を神に願っていますが、その根拠を、神ご自身の「めぐみ」(原語は「ヘセド」)という「契約を守る永遠の愛」と、「まこと」(エメット)というアーメンと同じ語源に基づく真実に求めています。ダビデは危機的状況の中で、神の御約束の原点に立ち返って訴えています。それは王権の安定が、民全体の平安につながっているからです。
そして最後に、自分も神の「永遠の愛」と「真実」に応答する生き方をすると改めて「誓い」ます。イスラエルの真の王は、「ヤハウェは王である」(詩篇97:1私訳) と言われるように、「わたしは『わたしはある』という者である」(出エジプト3:14) とご自身を紹介された方だからです。
地上の王は、天の王の御許しの中でのみ王権を保つことができます。ダビデは誰よりもそれをよく理解していました。その彼を、主ご自身が敵の手の届かない高みで守ってくださったのです。
ダビデが息子アブシャロムによってエルサレムから一時的に追い出されたのは、自業自得の罪から始まった家庭の混乱と、その負い目で父親として毅然と対処できなかった優柔不断さのゆえです。
しかし、神は自分の罪を認めたダビデの王権を回復させてくださいました。ダビデはその後も民の人口調査をして神の怒りを買いますが、彼が反省し、主のためにいけにえをささげると、その場が後のエルサレム神殿になります。
ダビデの王座は、不思議にも、過ちに対する真実な対応でかえって強化されて行くのです。
私たちも過ちを繰り返でしょうが、そこで神に立ち返るなら、失敗さえ益とされます。失敗のたびに「高い岩の上に」導かれ、神との交わりを深めることができるからです。
【祈り】主よ、私が自業自得の罪で苦しむようなときにも、この私を敵の攻撃の及ばない高い岩の上に守ってください。私はあなたの永遠の愛と真実に信頼して歩みます。