詩篇59篇〜四団体牧師研修会

 今週は月曜日から水曜日まで、自由福音教会連盟の牧師研修会が開かれ、百数十人が集まっておりました。福音自由のほかに、関東を中心にした聖契キリスト教団、中部地区を中心とした同盟福音キリスト教会(ドイツの福音自由の宣教)、また岡山県を中心とした聖約キリスト教団(スウェーデンの福音自由教会の宣教)の四団体の牧師が十数年ぶりに一同の集まりました。それぞれの働きが紹介され、互いのために祈ることが主な目的でした。また聖書の学びや小セッションも持たれ、僕は、「市場経済に生かされる福音」というテーマで少しお話しできました。

 十数年前も今回も、ドイツ人の宣教師との交わりが楽しかったです。「善き力にわれ囲まれ」というボンヘッファー作詞のドイツの新しい讃美歌が歌われてることを彼らは喜んでいましたが、百数十名の牧師がそろってこの賛美を歌ったことは本当に感動的でした。ボンヘッファーがヒトラー政権のもとで絞首刑にされる直前に生まれた詞です。
 また、当教会で何度も歌っている36年前にドイツで生まれた「イエス、あなたのもとへ」の日本語訳をドイツの宣教師に紹介したらとっても喜んでくださり、すぐに日本語でいっしょに歌ってくれました。
 またドイツでの日本人伝道の働きも聞くことができ、今年11月に私たち夫婦が予定しているヨーロッパ研修旅行の予定が豊かになりそうで感謝でした。

「善き力にわれ囲まれ」の原歌詞の直訳は次の通りです

善き力(複数形)に誠実に、静かに囲まれている。
素晴らしく、守られ、慰められている。
それで私はこの日々を君たちとともに生きたい。
そして、君たちと共に新しい一年へと入りたい。

なお、古き年が私たちの心を苦しめようとしている。
なお、邪悪な日々の重荷が私たちを押さえつけている
ああ主よ、私たちの怯えた魂に救いをお与えください。
その救いは、あなたが私たちのために造られたもの。

善き力(複数形)に素晴らしく守られているので、
何が起きようとも、私たちは安心して待ち望んでいる。
神は、夕も朝も 私たちと共におられる。
そして確かにすべての新しい一日、一日に

そして重く苦い杯が私たちに差し出される
それは破滅の極みにまで満たされる苦難だ。
私たちは怯えることなく感謝を持って受け止めよう。
それをあなたの善き愛しい御手から。

暖かく明るい光を 今日 輝せよう
それはあなたが闇の中にもたらしたものだ。
もしできるなら、私たちを再び一緒へと導いてください。
どちらにしてもあなたの光は闇の中に輝くことを私たちは知っている。

 これとほとんど同じことが詩篇59篇1–9節で歌われています。

詩篇59篇「私の力、あなたを私は、見守ります」

 標題はサムエル記第一19章11節を指しています。これはサウルがダビデの家を見張らせ、朝になって彼を殺そうとしたときのことです。このとき、サウルの娘でダビデの妻となっていたミカルが、ダビデを逃がしました。彼の逃避行はこのときから始まりました。彼はラマにいるサムエルを頼りますが、そこもサウルが攻撃しようとします。
 1節は原文の語順では、「救い出してください(私を)、敵の手から、(私の)神よ。(私に向かって)立ち上がる者たちから、高く上げてください(私を)」と記されています(確固内は語尾変化で判断されることばで「私」という代名詞は記されていない)。
 そして2節でも同じように、「救い出してください(私を)……救ってください(私を)」と繰り返されます。ダビデは、自分が敵の手の届かないところに「高く上げ」られることを願い、ひたすら神に「救い出してください」「救ってください」と嘆願しています。
 そして3節では、自分が攻撃の対象とされていることの不条理が、「それは私のそむき(ペシャー)のためでもなく、私の罪(ハター)のためでもありません。ヤハウェよ。こちら側には、とが(アボン)がないのに……」と訴えられています (私訳、括弧内はヘブル語)。
 ここには罪に関する類語が三つ重ねられながら、「自分の側には、攻撃される理由がない」と訴えています。ある意味で、ダビデがサウルから命を狙われるのは、神の側の選びから始まっています。
 サウルには隠されてはいましたが、神は確かにダビデに目を留め、王としての任職の油をサムエルを通して注いだのです。その結果として、ダビデは巨人ゴリヤテを打ち、ペリシテ人たちに対し数々の勝利を挙げました。
 女たちが「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」(Ⅰサムエル18:7) と歌うようになったのは、神ご自身がサウルに代えてダビデを王に立てられたことが、目に見える形で現れたに過ぎません。その兆候を見て、サウルが脅威を抱いたのも当然とも言えましょう。
 それに対しダビデは、神の選びを論じることなく、ただ、神のみわざが現されることを願います。4節では「目を覚ましてください」「見てください」と訴え、5節では先の「目を覚まして」とは異なった原文で、「すべての国々を罰するために起き上がってください」(私訳) という嘆願が記されます。
 それに挟まれるように、「あなたこそはヤハウェ、万軍の神、イスラエルの神」(私訳) と、神の御名が様々な表現で呼ばれています。
 6節ではダビデのいのちを狙う者たちが、町をうろつき回る、嫌われ者の野生の「犬」にたとえられます。ただ同時に、7節では、「彼らのくちびるには、剣がある」と記されながら、「だれが聞くものか」という彼らのあざけりが記されています。これは神に従う者たちの信仰を揺るがす「剣」です。多くの人は、「神は私の訴えに耳を傾けて下さらない」と失望しているからです。
 しかし、そのような不信仰なことばこそ、最終的には神のあざけりの対象になります (8節)。そのような中でダビデは、「私の力、あなたを私は、見守ります。神は私のとりでです」(9節) と告白します。
 ダビデは神の守りが見えない状況で、霊の目を開きながら、神がすべてを支配しているとの信頼を告白します。私たちも同じように、神の救いを求めて祈る中で、神のご支配を知ることができます。


【祈り】主よ、私たちも自分に落ち度がない中で、責められることがあるかもしれません。そのとき、ただ、あなたの御名を呼び求め、あなたの助けに期待させてください。