先日ご紹介したアンゲラ・メルケル自伝「自由」上下巻を読み終わりました。僕がドイツにいたのは1979年~1985年ですので、まさに僕の知らないドイツ近代史を学ぶことができた思いです。
何しろ16年間もドイツの最高権力者の立場にいた方の記録です。なお、その間、日本の首相は、小泉、安倍(第一次)、福田、麻生、鳩山、菅、野田、安倍、菅、岸田と十人の方がなっておられます。この記録にも小泉さんと安倍さんの名がかろうじて登場する程度です。
一番心に残ったのは2015年8月にある記者が彼女に「難民の波が拡大した」ことを問い詰めたときに、それが彼女の気に障った理由が次のように書かれていたことです。
私にとって、彼らは「波」ではなくて人間だ。ドイツに留まれる可能性があろうがなかろうが、そこに変わりはない。
私が1990年に政治の世界に足を踏み入れたのは、人間に興味があったからだ。波や、匿名の群衆ではなく、人間に。
そして私の国は当時も、そして今も、たとえその望みを叶えられないとしても、一人ひとりの人間に目を向ける国だ。
ここには彼女が東ドイツで、個人ではなく、集団の一員としか見られなかった時代を振り返っての心の叫びがあります。それこそ「自由」の本質です。
また彼女の属した政党、また現政権の政党は「キリスト教民主同盟」と呼ばれますが、そのキリスト教とは、「私たちのもとにやってきた人々を尊厳ある人間として扱うことを義務とし、心からそれを重視することを意味した」とも記しています。
彼女の難民受け入れ政策は、今後も批判され続けるでしょうが、この基本的信念は、ナチスドイツの優勢民族思想の深い反省に立ったもので、それは多くのドイツ人に共有されています。
また、先週から始まったイスラエル軍のイラン攻撃が、国際的な批判を浴びていますが、彼女は「ネタニエフ首相が就任して以降、(パレスチナ問題に関する)意見の相違は越えがたいものとなる。私たちは『合意できないという点で合意する(we agree to disagree)』という決まり文句でしか意見の一致を見ることができなくなった」と深く嘆いています。
しかし同時に次の基本政策を明確に語っています。
こうした意見対立には徹底して向き合うことが必要だが、それが両国の関係を根底から揺るがすようになり得ないと私は確信している。ドイツとイスラエルは互いを遠ざけようとする力よりも強い絆で結ばれているからだ。だから私は、ガザ地区を支配するハマスによるロケット攻撃や、イランの核開発計画といったイスラエルの脅威に対して、次のように強調した。
「私の以前のどの連邦政府、どの連邦首相も、イスラエルの安全に対するドイツの特別な歴史的責任を負ってきました。このドイツの歴史的責任は、私の国の国是の一部です」。
彼女は昔も今も、イスラエルのネタニエフ首相の軍事強硬路線には反対を続けています。しかし、同時に、イスラエルという国を地図から消し去ろうとするハマスやイランの脅威は深く自覚しており、ドイツは目の前の政策にどれほど批判しても、イスラエルという国を守る側に立つという立場を明確にしています。
日本の首相が10人交代する間、彼女がドイツの首相の座に留まり続けることができた理由は、まさに目の前の意見の対立を超えて、ドイツが守り続ける立場を、国民に分かりやすく語り続けることができたからと言えましょう。
これは、私たちの信仰の姿勢に関しても言えます。詩篇57篇は、目の前に次から次と危機的な状況が迫ってくる中で、神の民としての揺るがない基本が歌われています。
詩篇57篇1–11節「私は暁を呼びさましたい」
標題はサムエル記第一22章1節または24章3節に記されているように、ダビデがサウルの手から逃れながら、「ほら穴」に身を隠したときを指しています。
第一の場合は、そこに「困窮している者、負債のある者、不満のある者たち」が集まってきて四百人の集団になったことが描かれています (同22:2)。これは、ダビデが自分の軍隊を持つ契機になりました。
また、第二の場合では、ダビデはほら穴の奥に隠れていて、用をたしにきた「サウルの上着のすそを、こっそり切り取った」(同24:4) という中で、敢えてサウルに手を下さなかったという記事に結びつきます。
どちらの場合も、ダビデは「獅子の中にいます」(4節) と描かれる危機的な状況の中に置かれながら、「私は暁を呼びさましたい」(8節) と表現される「夜明けのしるし」を見ようとしていました。
ダビデは、自分が「ほら穴」の中に身を隠している切羽詰った状況を「滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます」(1節) と告白しています。
ときに、様々な形での人の攻撃を恐れながら、臆病な姿で身を隠すようなことがあっても、その状況を「御翼の陰に身を避けます」と、美しく表現できるなら、その現実を神の視点から優しく見られます。
そして2節では、自分が呼ばわっている神を「私のために、すべてを成し遂げてくださる神」と描きます。そこに自分の将来への安心感が告白されています。
3節は原文で、その神のみわざが、「天から送って、私を救われます」(私訳) とまず描かれます。そこでは何が送られるかが分かりません。
その上で、神が私の敵を「責めておられる」ことが記され、「神は恵みとまことを送られる」と記されています。
「恵み」とはヘブル語のヘセドの訳で、神がご自身の「契約を全うする愛」という意味、「まこと」はアーメンと同じヘブル語の語源のことばで、神の真実さを現します。
つまり、神が天から送られるのは、ダビデの回りが敵だらけと見える中で、ダビデに対しての神の約束が必ず成就されるという「希望」に他なりません。危機的な状況は変わらなくても、そこから新しいことが始まろうとしているという「しるし」を見ることができます。
6節では、「彼らは私の足をねらって網を仕掛け……私の前に穴を掘り……自分で、その中に落ちました」という、敵の自滅の兆候が描かれています。
また7節では「私の心は揺るぎません」(または「準備されています」)と繰り返されます。
そして8節でダビデは、二度「目をさませ」と繰り返し、三度目は同じ動詞を用いて、「私は暁を呼びさましたい」(または「暁を目覚めさせたい」)と自分の願望を歌います。
最後に9–10節で、賛美が小さな「ほら穴」から全世界に広がって行く様子が大胆に記されます。彼は自分の危険を訴えながらも、全世界に対する神のご計画に目が向かっています。
現代の私たちにとって、キリストの十字架と復活によって、「暁」はすでに「呼びさま」されています。
パウロは、「割礼」のような目に見える信仰のしるしにこだわっている人に対し、たったひとこと「大事なのは新しい創造です」(ガラテヤ6:12) と断言しました。創造主なる聖霊が私をとらえ、混沌とした私と世界のうちにすでに「新しい創造」を始めてくださいました。その「しるし」に目を留め、神を賛美しましょう。
【祈り】主よ、あなたは私が危機的な状況の中にあるとき、そこに既に「夜明けのしるし」(暁)を見させてくださいます。「新しい創造」を日々、覚えることができますように。