詩篇56篇〜イスラエルの不安

 中東で再び戦争が起きています。
 国連の原子力機関がイランの核兵器開発を断定し非難した後に、イスラエルが、イランの核関連施設に先制攻撃を開始しました。同時にイスラエル政府が国民に特別警戒を要請しています。一方、イランは速やかな報復を宣言しています。

 正直、イランの核開発を国連が断定したからと言って、イスラエルがすぐにイランの核開発施設を攻撃することを正当化できるとは到底思えません。イランの核開発に反対するのは私たち皆の責任かと思いますが、それと先制武力攻撃を正当化することとは別問題の気がします。

 どうもイスラエルの現政権は武力行使に対する躊躇があまりにもなさすぎるような気がしてなりません。
 それにしても日本では、イスラエルの野蛮さばかりが話題になりますが、ガザを支配するハマスもまたイランも、イスラエルという国を地上から抹殺することが神(アラー)のみこころであると言っていることも確かです。
 ですから、イスラエルの方々は自分たちの存亡をかけて、イスラエルの抹殺を願う人々の力を削ぐことを考えざるをえせん。
 皆様の身近な方が、「あなたの存在を地上から消し去ることが神のみこころである」などと言っていたら、どれほど恐ろしいことでしょう。

 ガザ地区への食糧補給をイスラエルが妨害し、そのために多くのガザの住民が飢饉に苦しんでいるという話しも、注意が必要なようです。
 イスラエル殲滅を公式なアジェンダとしているハマスの関わりなしに、食料補給を可能にできるようにとイスラエルが必死に動いているということは全く報道されません。
 世界中の多くの報道が、イスラエルの横暴さばかりに人々の目を向けさせようとしているのかもしれません。
 もちろん、僕はイスラエルの現在の政権をそのまま応援するつもりはありません。しかし、もっとイスラエルの危機意識を理解するような報道もなされてよいような気もしています。

 ただそれにしても聖書には、現在のガザ地区でのダビデの話しが何度も登場します。ダビデは前のイスラエルの王サウルからいのちを狙われ続けた結果、ガザ地区を支配しているペリシテ人に助けてもらう必要がありました。
 三千年前とはまったく違う民族がガザ地区に今は住んでいるのですが、とにかくイスラエルの王だダビデがガザ地区の支配者に助けを求めたという不思議を覚えて、ガザ地区の平和のために祈りたいと思います。

詩篇56篇1–13節「神に (in God) 信頼しています」

 標題はサムエル記第一21章10–15節のことを指しています。これはダビデがサウルの前から一人で逃げ出して間もなくの頃ですが、彼が自分の身を隠そうとしたガテとは、ペリシテの町であるばかりか、ゴリヤテの出身地です。
 当時の誰も、まさかダビデがその町に忍び込むなどとは思いもよりません。だからこそ、彼はそこを選んだのかもしれません。しかし、彼は自分の正体が明らかになりそうになったとき、「捕らえられて狂ったふりをし」(同13節)、どうにか逃げ延びます。それは詩篇34篇の背景でもあります。

 1節は原文の語順では、「あわれんでください(私を)、神よ」という嘆願から始まり、ダビデは自分の孤立無援の切羽詰った状況を訴えます。
 その上で、「私」を強調しながら、「恐れのある日に、私は、あなたに信頼します」(3節) と告白します。ヘブル語は動詞の中に主語を含めることができますから、ここでの「私」という代名詞は大きな意味を持っています。そして、これ以降、原文では「私」という代名詞は登場しません。

 そして、4節の原文では、「神にあって、(神の)ことばを(私は)ほめたたえます。神に(私は)信頼し、恐れません」と記され、10、11節でも、「神にあって、みことばを(私は)ほめたたえます。主 (ヤハウェ) にあって、みことばを(私は)ほめたたえます。神に(私は)信頼し、恐れません」と記されています(括弧内のことばは原文では明記されていない)。
 つまり、ここでは、「神にあって」「神に」という神の約束や神のご支配の現実こそが強調され、信じる「私」の主体性は隠されているのです。
 なお、英語では両者ともヘブル語に従って『In God』と記されています。アメリカ合衆国の建国のモットーは、「In God we trust」(神に私たちは信頼する)であると言われ、このことばは同国のすべてのコインや紙幣に刻印されています。
 紙幣自体には何の価値もありませんから、そこに神への信頼を書き込むことによって、互いに価値を認め合えるのかもしれません。

ダビデはこのときは追われる身で、孤立無援ですが、自分に王としての任職の油を注いでくださった神ご自身とその「みことば」に信頼して逃げ続けています。
 
8節では「あなた」という代名詞を強調しながら、ダビデは神に向かって、「あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください」と、自分が逃亡しながら流した涙が、神の記憶の中にしっかりと留められることを願っています。

彼は、不安定な自分の歩みが、神の御手に包まれていることを信じています。また、自分が戦わなくても、祈りに答えて神が敵を退けてくださると告白します (9節)。

そして10節では、「神にあって」「主 (ヤハウェ) にあって」と繰り返し、ダビデを公に王とするという主(ヤハウェ)の「みことば」を「ほめたたえ」(10節) ています。

 ダビデは神に向かって自分の涙が「あなたの皮袋にたくわえ……あなたの書」に記録されることを願い、それがこの聖書に成就しています。

同じように私たちの名は、神の「いのちの書」に記されています (黙示3:5、17:8)。
 信仰の歩みは、「私は、あなたに信頼します」という主体的な告白から始まりますが、その後は、自分の歩みすべてが神の中に (in God) 守られていることを覚え、「私」を忘れて生きることができるのです。


【祈り】主よ、私の名が「あなたの書」に記されていることを感謝します。自分の信仰ではなく、あなたの約束、あなたのご支配の中で、自分の生涯を見させてください。