ローマ人への手紙15章1〜13節「希望の神がすべての喜びと平安で満たす」

2025年6月8日

ローマ人への手紙15章1–13私訳と関連聖句

「希望」こそ人に生きる気力を与えます。そして私たちは、「一つの希望にあずかるように招かれた」(エペソ4:4協会共同訳) と言われます。「一つの希望」が何であるかを私たちは本当に理解しているかが問われます。

そして人と人とを結びつけるのも「希望」です。そしてそれは聖霊の働きから生まれるものです。

1.「私たちは一人ひとり隣人を喜ばせなさい、互いを築き上げるという善のために」

15章1–3節は次のように記されます。

1 私たち力ある者たちには負い目があります、力のない者たちの弱さを担うということの、また自分を喜ばせてはならないということの。
2 私たちは一人ひとり隣人を喜ばせなさい、築き上げるという善のために。
3 というのはキリストもご自分を喜ばせなかったからです、それは「あなたをそしる(嘲る)者たちのそしり(嘲り)がわたしに降りかかった」と書かれてあるとおりです。

初めに「私たち力ある者たちには負い目があります、力のない者たちの弱さを担うということの、また自分を喜ばせてはならないということの」というキリスト者の責任が記されます。ここで「力ある者たちの負い目」または「責任」が記されていることは極めて興味深いことです。

自分に力」が与えられていると思う者は、それを誇るのではなく、それを生かす「責任(負い目)」を感じるべきなのです。

それは「貴族の義務(ノブレス・オブリージュ:noblesse oblige: noble obligation)」という概念の基本と同じです。イエスは「多く与えられた者は皆、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます」(ルカ12:48) と言われたことから生まれたものです。たとえば英国の王族は戦争になったら前線に出て危険を冒すことが求められています。

そして感じるべき「負い目」の内容が、「力のない者たちの弱さを担う」こととして描かれます。これは「信仰において弱い者を受け入れなさい」(14:1) と言われていたように、ユダヤ人クリスチャンの身に着いた食物律法の習慣を尊重することを意味したと考えられます。

さらにそれが「自分を喜ばせてはならないということの」「負い目」と記され、さらにそれが「私たちは一人ひとり隣人を喜ばせなさいとの命令に言い換えられます。私たちの時代は、滅私奉公という集団主義的な強制への反発として「自分を喜ばせる」ことが悪ではなく、その大切さにも目が向けられますが、ここでは「自分を喜ばせてはならない」というよりも隣人を喜ばせる」ことに目が向けられます。

しかもその目的が「築き上げるという善のために」と記されます。これは「霊的な成長のため」というより、新改訳の脚注にもあるように「建て上げるため」というのが原文で、ユダヤ人と異邦人からなるキリストの教会の建て上げがテーマになっていると考えることができます。

興味深いのはそれがここでは、キリストの生き方に倣うこととして、「というのはキリストもご自分を喜ばせなかったからです、それは『あなたをそしる(嘲る)者たちのそしり(嘲り)がわたしに降りかかった』と書かれてあるとおりです」と言われることです。

これは詩篇69篇9節からの引用ですが、その文脈はダビデの嘆きで、主を待ち望む者たちが彼の事例でつまずくことのないように、また辱めを受けないようにという願いですが、それが同時にキリスト預言として記されています。

その6–9節では、「万軍の主 (ヤハウェ) 、主(主人)……を待ち望む人々が、私のことで恥を見ませんように。イスラエルの神……を慕い求める人々が、私のことで卑しめられませんように。それは、あなたのために私がそしりを負い、侮辱が私の顔を覆っているのですから。私の兄弟からは、のけ者にされ、同じ母の子らにさえ、私はよそ者です。あなたの家に対する情熱が、私を食い尽くし、あなたをそしる者たちのそしりが、私に降りかかりました」と記されます。

これはキリストに倣うという歩みが、人々が心の底で持っている神への不満を自分が代わって担うことを指します。

基本的にアダムの子孫は、神から与えられた使命を生きるという代わりに、自分を幸せに、また自分を成功させてくれる神を求めます。その期待が裏切られたとき「せっかく神を信じて、教会に行ったのに、何の意味もなかった」と思うことさえ起きるかもしれません。そのような神への不満を、ダビデが、そしてキリストが担っておられたというのです。

人々から誤解され、嘲りを受けるために神を信じるとは、自虐趣味に聞こえるかもしれません。しかし現実は、神と神の家に対する情熱」が高くなればなるほど私たちは誤解を受け、また嘲りを受ける機会が増えて来ます。

イエスがエルサレム神殿の中で「牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たち」を追い出したときに、「弟子たちは『あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い起こした」と描かれていました (ヨハネ2:14–17)。

イエスの神の家に対する熱心さ、情熱が人々の反感を買うという意味で、それはイエスが詩篇69篇に描かれるような辱めを受ける歩みであったと言われているのです。それこそアダムの子孫が支配する世界で、キリストに倣う者たちに起きる現実です。

私たちは避けられない苦しみを担うためにキリストの御跡に従っているのです。しかし、そのような中でこそ、かえって私たちはキリストにある復活の力、創造主なる聖霊の働きを体験することができます。

キリストの御跡に従うことは辱めを受けることでもありますが、そこでこそ体験できる聖霊の働きがあります。イエスに従うという情熱を持つことなく聖霊のみわざは体験できないことも覚える必要があります。

2.「忍耐と励ましの神が……互いに同じ思いを抱かせてくださいますように」

15章4–6節は次のように記されています。

4 それは、前に書かれたことは私たちへの教えのために書かれたからです。それは忍耐をとおして、また聖書の励ましをとおして、私たちが希望を持ち続けるためです。
5 どうか忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。
6 それは、あなたがたが一つの口において調和して、神に栄光を帰するためです。その方は私たちの主イエス・キリストの父です。

4節で改めて聖書が書かれた目的が記されます。それは「私たちへの教え」のためであり、「忍耐をとおして、また聖書の励ましをとおして、私たちが希望を持ち続けるため」と記されます。つまり、聖書が記された目的は、自分にとって不都合な現実の中に「希望」を持たせるためなのです。

なおここでの「忍耐」とはときに軍隊用語として用いられ、味方の陣地から遠く離れた敵前に前線基地において、援軍の到来を待ち続ける忍耐心を現わします。何よりも大切なのはいのちの危険にさらされながら、神の救いを待ち続けることです。途中で諦めたらすべての計画が無駄になります。

そして、「聖書」はそのような忍耐が報われることを「励ます」証し集のようなものです。そして「希望」こそが、逆境の中に耐える力を生み出します。

ギリシア神話の「パンドラの箱」の物語では、ゼウスは火を盗んで賢くなった人間にわざわいをもたらすために土からパンドーラという女を造り、彼女に贈り物の箱を与えたのですが、女は好奇心に負けて箱を開けてしまいます。すると箱の中からありとあらゆるわざわいの種が出て全世界に広がってしまいます。

ただ最後にエルピス(希望)が箱の底に残ります。それは、人間は諸悪に充ち満ちた世にありながら、希望のみを頼りに生きていることを現す寓話と言われます。

事実、ヴィクトール・フランクルというウィーンの精神科医も、ナチス・ドイツの強制収容所で生き残るための最大の力は「希望」であったと証ししています。

5節では、神のことが「忍耐と励ましの神」と呼ばれながら、「キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように」という「祈り」が記されます。「同じ思い」とは「キリスト・イエスにふさわしい」「希望」を指すと言えましょう。

イザヤ11章では神が「エッサイの根」から生まれる「ダビデの子」としての「救い主」をこの混乱に満ちた地上に遣わす目的が、弱肉強食がない平和(シャローム)の世界の実現として、「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主 (ヤハウェ) を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである」と描かれています。

それを人間社会では、すべての民族が互いの食生活や肌の色の違いを超えて、ともにイエス・キリストの父なる神がほめたたえられる世界を指していると言えましょう。

2008年11月に米国で初めての黒人が大統領に選ばれた際、その45年前のマルティン・ルーサーキング牧師の I have a dream という演説に改めて注目が集まりました。

彼は自分の夢を上記のイザヤ書のレトリックを用いながら、

友よ。私は今日、皆さんに申し上げたい。今日も明日もいろいろな困難や挫折に直面しているが、それでも私にはなお夢がある……

私には夢がある。それはいつの日か……かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、ともに兄弟愛のテーブルにつくことができることである。

私には夢がある。それは、いつの日か不正義と抑圧の暑さにうだっている州が、自由と正義のオアシスに変えられる事である……私には夢がある。それは、いつの日か私の幼い4人の子供たちが、彼らの肌の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住めるようになることである。

私には夢がある。それは……いつの日か幼い黒人の男の子と女の子が白人の男の子と女の子と手をつなぎ、兄弟姉妹として歩けるようになることである。

と訴えました。

現代のアメリカで、オバマ元大統領ほどその評価が分かれる人はいないとも言えます。多くの福音派の信仰者は彼の政策が米国の常識を変えてしまったと嘆いています。ただ、キング牧師が語った「夢」がアメリカを動かし黒人の大統領を生み出したことは確かです。それは聖書に基づいた「夢」を、また互いへの非難ではなく、共通の夢を語ることができたからです。

この「夢」こそが聖書に記される「希望」に他なりません。今、多くの国々で政治的な見解の極端なほどの二分化が進んでいます。

米国や韓国のようなクリスチャン人口の多い所では、クリスチャンの間で政治の話しができなくなるほどに、感情的な対立が生まれています。しかし共通の夢を私たちが持つことができるなら、協力が可能になります。

6節では、「一つの口において調和して神に栄光を帰す」と記され、そこで「栄光」を「帰される」神が、「イエス・キリストの父なる神」と呼び変えられます。

その背後にはイザヤ45章22–24節の、地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ……すべての膝はわたしにむかってかがめられ、すべての舌は誓い、わたしについて『ただ主 (ヤハウェ) にだけ、正義と力がある』と言う」という預言があります。

それをもとにピリピ人への手紙2章3–11節では「キリスト賛歌」が、「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい……キリストは……ご自分を空しくして、しもべの姿をとり……自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それはイエスの名によって、天にあるもの、地にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」と記されています。

つまり、平和への道は、私たちがイエス・キリストに見られるしもべの姿に倣うことなのです。私たちに与えられている能力は互いに仕え合うために用いられる道具に他なりません。

しかもその最初で「互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」と記されていることは、能力に関する優劣ではなく、身分的な立場を指します。

今も昔も、人の能力の差は歴然としており、自分の能力を卑下することの勧めではありません。少なくとも当時の世界の貴族は自分の能力を誇る必要はありませんでした。外国語ができるとか、お金の計算ができるという能力は、「奴隷の価値」を現わす基準でしかなかったからです。

本当に身分が高い「すぐれた人」は、そのような能力を持つ必要ありませんでした。私たちは自分の能力を積極的に認めるべきです。ただそれは、人に効果的に仕えるための道具に過ぎません。

3.「ですから、互いに受け入れ合いなさい」

15章7–9節は次のように記されます。

7 ですから、互いに受け入れ合いなさい、それはキリストが神の栄光のためにあなたがたを受け入れてくださったのと同じようにです。
8 私は言います。キリストは割礼者に仕える者となられました、神の真理のためにです。それは父祖たちへの約束(複数)を確証するためであり、
9 また異邦人たちもあわれみのゆえに神に栄光を帰するためです。それは、「それゆえ私は異邦人たちの間であなたをほめたたえます。あなたの御名をほめ歌います」と書かれているからです。

7節の「ですから、互いに受け入れ合いなさい、それはキリストが神の栄光のためにあなたがたを受け入れてくださったのと同じようにです」とは、何よりもユダヤ人と異邦人が互いに受け入れ合うことの勧めです。

ただその原点に「キリストが神の栄光のために」それぞれを「受け入れてくださった」ということがあります。

さらに8節でパウロは、敢えて「私は言います」と強調し、キリストが割礼を受けているユダヤ人に「仕える者となられ」たのは「神の真理のため」であり、その目的は「父祖たちへの約束(複数形)を確証するため」であると述べます。

神がモーセとイスラエルの民に律法を与えた目的は、イスラエルが神にとっての「祭司の王国」(出エジ19:6) となるためであったと記されています。そこには全世界の民に対しイスラエルの神ヤハウェを証しするという使命があります。

イスラエルは誤った選民思想でその目的を果たす情熱を失っていましたが、「ダビデの子」として現れた救い主イエスこそが、「イスラエルの王」としてその使命を全うしてくださいました。

とにかく、ユダヤ人は異邦人を神の民として招き入れるために最初に召されたのです。

そして9節では、ダビデの体験に基づく詩篇18篇の結論部分が、「それは、『それゆえ私は異邦人たちの間であなたをほめたたえます。あなたの御名をほめ歌います』と書かれているからです」と引用されます。

これはダビデがサウルの手から救い出されたことを感謝する個人的な感謝の歌ですが、そこに「異邦人たちの間での賛美」が描かれているのが興味深いことです。それはダビデの危機的状況の中で、彼を支えたのは異邦人からの改宗者であったという歴史的な事実からも明らかです (Ⅱサムエル15:19)。

さらに15章10–13節では、次のように記されます。

10 それはまたこうも言われます、「喜びなさい、異邦人よ、主の民とともに」と。
11 そしてさらに「ほめよ、すべての異邦人よ、主を。主をたたえるように、すべての国民(くにたみ)が」と。
12 またさらに、イザヤも言っています、「エッサイの根が生じることになる。立ち上がる方は異邦人たちを治めることになる。この方に異邦人たちは望みを抱くことになる」と。
13 どうか、希望の神があなたがたを満たしてくださいますように、信じることにおけるすべての喜びと平安をもって。それによって、聖霊の力においてあなたがたを希望に満ち溢れさせますように。

10節の引用は申命記32章43節からのもので「喜び歌え、国々よ、その民とともに」と訳すことができます。この文脈は、神にとっての「瞳」(申命記32:10) のように大切なイスラエルの民が、「自分を造った神を捨て」(同32:15) たことに対して神の怒りが注がれますが、その後で神が彼らを建て直すという神のご計画の結論部分です。

その際、主はアッシリアやバビロンなどを用いてイスラエルをさばいたものの、最後は、主の報復がそれらの異教の帝国に対してなされ、イスラエルの民が解放されることを指しています。そのイスラエルの救いを見た異邦人に向け、「喜びなさい、異邦人よ、主の民とともに」と訴えられているのです。

それはイスラエルの「救い」が、異邦人の「救い」の始まりとなると解釈できるからです。それはその後の預言書のテーマでもあります。神はエルサレム神殿を破壊するまでご自身の怒りを現しながら、最後にはイスラエルの民をその苦しみから救い出すと約束します。

そしてそこから全世界の異邦人がイスラエルの神を礼拝するようになるという歴史のクライマックスに至るというのです。それこそ歴史のゴールです。

11節の引用は詩篇117篇からのものです。これは最も短い詩篇で、最初に「主 (ヤハウェ) をほめたたえよ」、最後に「主をたたえよ (ハレルヤ)」と記され、呼びかけられる対象が、「すべての国々」と「すべての国民(くにたみ)」と記されます。

つまり、イスラエルの民に対する主の真実の愛(ヘセド)の「大きさを全世界の民が目撃することによって、全世界の民がイスラエルの神、(ヤハウェ)をあがめるようになるというのです。

12節の引用はイザヤ11章10節のギリシア語七十人訳からのものです。ヘブル語聖書では「エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く」と記されています。

一方、七十人訳では、「エッサイの根が生じることになる。立ち上がる方は異邦人たちを治める。この方に異邦人たちは望みを抱くことになる。この方に憩う者は誉れを受けることになる」と記されます。

ヘブル語で「もろもろの民の旗として立つ」という部分が七十人訳では、キリストの復活を示唆するように立ち上がる方は異邦人を治める」と記されます。

これは、1章3、4節で、「それは御子に関することで、この方は肉によればダビデの子孫として生まれた方、また聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力とともに神の御子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです」と記されていたことを思い起こさせます。

つまりイエスは、人としてはダビデの子(エッサイの根)であり、神の子として公に示されるためには身体の復活が必要であったと描かれているのです。

そしてそれをもとに「この方に異邦人たちは望みを抱くことになる」と記されます。まさにキリストの復活から異邦人たちの救いの時代が始まったのです。

15章13節は次のように記されます。「どうか、希望の神があなたがたを満たしてくださいますように、信じることにおけるすべての喜びと平安をもって。それによって、聖霊の力においてあなたがたを希望に満ち溢れさせますように」

神がここでは「希望の神」と敢えて呼ばれます。それは、8章24、25節で、「それは、望みにおいて私たちは救われたからです。目で見る望みは、望みではありません。目で見ているものを、誰が望むでしょう。 しかし、まだ見ていないものを望んでいるのですから、私たちは忍耐をとおして待ち望みます」と記されていたことを思い起こさせます。

神の真実に応答する私たちの「信仰」こそがこの「望み」を私たちの心に生み出しますが、それは同時に「喜びと平安」をも生み出します。そして「望み」はこの「喜びと平安」によって保たれるとも言えます。

そして、先の「信じることにおける」が「聖霊の力において」と言い換えられます。私たちの信仰は、「聖霊の力」から生み出されるからです。

そして最後にその聖霊の働きが「あなたがたを希望に満ち溢れさせてくださる」と記されます。とにかく「希望(望み)に満ち溢れる」ことが信仰の働き、また聖霊の力として描かれるのは本当に興味深いことです。今の時代に欠けているのは何よりも「希望」と言えるかもしれません。希望がないからこそ、生きる気力も生まれません。

この世界にはいつもいろんな問題が起きます。そのとき神はなぜこんな非道なことを許されるのかと不審に思うこともあるでしょう。しかし、「望みにおいて私たちは救われた」ということばは大きな慰めになります。

神は最終的にこの地を平和(シャローム)で満たしてくださいます。聖霊は私たちにその希望を確信させてくださり、それを先取りする「すべての喜びと平安 (シャローム)」であなたを満たしてくださいます。

当教会のヴィジョンは「新しい創造を ここで喜び シャロームを待ち望む」ですが、そこではキリストの十字架と復活で始まった「新しい創造」と、歴史のゴールである「平和 (シャローム)」に心の眼が向けられます。