詩篇53篇〜メルケル元首相自伝

先日ご案内のように ドイツで16年間 首相を務めたアンゲラ・メルケルさんがご自身の自伝の翻訳出版に合わせて来日されました。「自由」という名の自伝を出版することは、首相退任の前から、次の使命として考えておられたようです。序文に次のように書いてあります

これまでずっと、自分がこのような本を書くことになるとは想像もできなかった。その気持ちに変化の兆しが現れたのは2015年のことだった。その年の9月4日から5日にかけての夜、私はハンガリーからドイツ・オーストリア国境にやってきた難民たちの入国を拒否しないことを決めた。
 この決断、そして特にその結果が、首相としての私にとって転換点となった。それ以前とそれ以降に分かれた。
 当時すでに、もしいつか連邦首相でなくなる日が来たら、この出来事の成り行きを、決断の動機を、そしてその動機と深く関係しているヨーロッパとグローバル化に対する私の見解を説明しようと思った。
 そして、その方法として、書籍以外には考えられなかった。評価や描写や解釈を他人に任せるつもりはなかった。

 今、ドイツ経済は危機的な状態にあると言われます。その原因の一つは、移民、難民を受け入れ過ぎたことの副作用とも言われます。
 そして、その政治的な決断の責任はメルケル元首相にあります。それはヨーロッパ全土を巻き込む問題の始まりでもありました。
 ドイツを始めとする各国で自国第一主義を掲げた右派政党が躍進しています。メルケルさんはその状況の説明責任を果たすために「自由」という本を書きました。
 メルケルさんの父親は牧師ですが、彼は基本的に共産主義の考え方に賛成する立場から、第二次大戦後に敢えて自由なハンブルグから東ドイツの地にわたり、共産党政権の中に聖書の福音を生かそうという使命感を果たそうとしました。ですから彼女の父親は、キリスト教的な社会主義を目指していた人と言えます。
 それに対しメルケルさんは、市場経済を尊重する立場ですから、政治思想においてはご両親とメルケルさんは立場を異にします。
 
しかし、良心の自由、政治的な思想統一に反対するという点では、ご両親とメルケルさんは完全に一致します。
 その背後に、当然ながら、聖書の神のみを恐れる信仰があります。

 上記のメルケルさんの一つの文章を見るだけで、彼女の「自由」に対する思い入れが伝わってきます。彼女はまさに神の前で、神のしもべとしての責任を果たし、その後の問題に対する全責任を負う覚悟で、このような本を書いています。
 興味深いのは、この本の著者に ベアーテ・バウマンという女性の名が並行して記されていることです。彼女はメルケルさんが議員になってまもなく、秘書的な働きで採用された有能な方ですが、メルケル政権の事務局長の立場で支え続けてきた盟友でもあります。
 政治家が自伝を書くときにゴーストライターのような人の助けを得ることは一般的なことです。しかし、メルケルさんは30数年来の盟友の名をこの大切な本の著者として公表することで、彼女の労に報いようとしていると思われます。まさに同労者一人一人を大切にする姿勢の現れが著者名も現れています。

 上下巻合わせて800ページ近くにもなる大著ですが、昨日、その三分の一ぐらいまで読み進めました。その過程で何よりの印象は、本当に人との信頼関係を大切にする誠実な人格者であるということです。
 彼女自身、東ドイツの共産党一党支配の言論統制の中で苦しみ、牧師の娘であるということでいつも監視され続けてきました。1989年末にベルリンの壁が壊れると同時に、彼女は政治活動に全身を打ち込みます。
 それは東ドイツを自由な国に回復したいという思いからです。

 彼女はこの本でほとんどご自身の信仰のことは語っていないように思います。しかし、彼女が常に創造主なる神を恐れ、神の前での責任を果たすという思いで政治に向き合ってきたことはその文脈から伝わってきます。
 詩篇53篇は、神の存在を否定すること自体が、すべての不道徳の始まりであると主張する、多くの日本人には納得しにくい告白です。しかし、僕はこの一見乱暴とも思える言葉の意味を理解できた時に聖書全体の読み方が変ったように思います。

詩篇53篇1–6節「恐れのないところで、いかに恐れたかを」

 この詩は詩篇14篇とほとんど同じことが記されています。ただ、14篇では主(ヤハウェ)という神の名が四度記されているのに対して、ここではすべて神(エロヒーム)という普通名詞が用いられていることです。それは42篇から83篇にほぼ共通します。
 最初に、「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行っている」と記されます。
 14篇とは違い、ここでは「不正」ということばが「忌まわしい」に付け加えられています。なお、「愚か者」とはヘブル語でナバルと記されます (Ⅰサムエル25:25参照)。後にダビデの妻となったアビガイルは、愚かさのため自滅した夫のナバルに関して「あのよこしまな者」と呼びました。
 家来もナバルを避けていました。彼は自分の羊の群れがダビデによって守られていたことを知ろうともせずに、ダビデの怒りを買いました。

「愚か者」とは、「知性が足りない」ことではなく、世界を自分の尺度で計り、見るべきものを見ようとしない「傲慢さ」を意味します。
 使徒パウロはローマ人への手紙3章10–12節で、この1–3節を引用するようにしながら、「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった」と記しています。
 そこでの「義人はいない」という表現は、この詩の1節全体の要約とも言えましょう。「神はいない」と宣言すること自体が、神の怒りを買う罪であるからです。
 なお、この2節では、「神は天から人の子らを見おろして……いるかどうかをご覧になった」と、神の観察の様子が描かれます。それをパウロは、「彼らが神を知ろうとしたがらない」(同1:28) ということの結果として予め記したのではないでしょうか。つまり、この2節にあるように、「神を尋ね求め」ようと「意志しない」こと自体が、罪の始まりとされているのです。

 そして、「不法を行う者ら」は、「パンを食らうように、わたしの民を食らい、神を呼び求めようとはしない」とその罪が指摘されます (4節)。彼らは民を搾取して、食い物にしている罪と、神を呼び求めないという罪が、並行しているという事実を「知らない」のです。

 そして、この5節は14篇と決定的に違い、「彼らは恐れのないところで恐れる」と記されますが、それはレビ記26章36節では、神のさばきとして、「彼らの心の中におくびょうを送り込む、吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ……追いかける者もいないのに倒れる」と記されていることの成就とも言えましょう。
 そして、その理由が、「それは神が、あなたに対して陣を張る者の骨をまき散らしたらだ」と記されます。ここでの「あなた」とは、神を恐れるこの詩の読者と言えましょう。神は、ご自身を恐れ、礼拝する者の味方となり、敵に復讐をしてくださいます。
 その上で、「あなたは彼らをはずかしめた」と記されているのは、神を恐れる者の「幸い」を見る神の敵自身が、自分たちの「愚かさ」を認めざるを得なくなるということだと思われます。

 多くの人々は自分を神とし、自分の尺度で現実を判断し、自分の力で問題を克服しようとします。しかし、神はそのような人に、「恐れ」の心を与えることによって、神を恐れるように招いておられます。私たちも神を恐れることの幸いを証ししましょう。


【祈り】主よ、「神はいない」という愚かさから私たちを救い出してくださり感謝します。様々な「恐れ」に囚われている人々に、神を恐れることの幸いを証しさせてください。