昨日の報道ステーションでドイツのメルケル元首相のインタビューがありました。
以前から何度もお話ししてますように、僕はメルケルさんにとっても親しみを感じています。すばらしい政治家だったと思います。
ただ、彼女の退任の半年後にロシアのウクライナ全面攻撃が始まりました。彼女の融和政策がすきを作ったという見方があり、それまでのロシアやまた中国との融和政策が非難されるようになりました。
また彼女に驚くほど多くの中東からの避難民を受け入れましたが、それが多くの社会問題を起こし、現在のドイツでの右翼政党の大躍進のきっかけになったと言われます。
16年間も首相の座にいたのですから、非難される題材に事欠くことはありません。東ドイツのルター派国教会の娘として生まれ育ち、西側の自由に憧れ、東ドイツが西ドイツに吸収されるという統一の後、政治家になりました。彼女はそのような過去がなかったら、決して政治家などにはならなかったと断言していました。政治は、まさにいろんな意見、いろんな思想、利害がぶつかり合う場だからです。
彼女が自分の歩みを「自由」という題の本にまとめました。彼女にとってまさに「自由」ほど尊いものはないからです。
プーチン大統領が、20世紀最大の悲劇はソビエト連邦の解体だと言う一方で、メルケルさんの人生にとっての最大の喜びは、ソビエト支配下にあった共産党独裁から解放されたことと言っています。
これほど明確な価値観の違いがある中で、彼女はプーチンさんと対話を続けてきました。そしてその対話が途切れたとたん、あのプーチン氏の誤算によるウクライナ大侵攻作戦が始まったとも言えます。メルケルさんは、コロナのせいでプーチンさんとの対話ができなくなり、彼の欧州やウクライナ理解を正す人がいなくなったことを非常に残念に思うと語っておられました。
プ―チンさんは、もと秘密警察の職員としてソ連邦の解体、ロシアの弱体化をとっても悲しんでいました。彼は孤独で、いろんなトラウマをかかえていました。
詩篇52篇はダビデをサウルに売り渡そうとしたエドム人ドエグのさばきを願う歌です。プーチンの側近をドエグに重ねて見ることには、多くの批判があることでしょう。プーチンを支えるドエグのような人物が問題をますます複雑にしてしまいます。
今夜も上野のJTJ神学校で詩篇の講義をしてきます。とってもやりがいのある働きですが、夜9時までの講義は、この年になるときついですね。
お祈りいただければ幸いです。
詩篇52篇1–9節「見よ。彼こそは、神を力とせず……」
この標題の内容はサムエル記第一21、22章に記されています。ダビデは一人でサウル王から逃げる途中、祭司アビメレクを頼ります。
ダビデは自分がサウル王から追われていることを隠しながら、「聖別されたパン」を受け取るとともに、彼が以前に撃ち殺したゴリヤテ所有の剣を手にします。
ただ、それをサウルの忠実な家来のエドム人ドエグが見ていました。ドエグはそこで「サウルの牧者たちの中のつわものであった」(同21:7) と描かれていました。それが1節の「勇士よ」(1節) という呼びかけの背景にあります。
ドエグは、ダビデがアヒメレクから援助を受けたという事実をサウルに伝えますが、そのとき、サウルは息子ヨナタンがダビデと契約を結んでいたことを耳にして、深い孤独感に襲われ、「だれも私のことを思って心を痛めない」(Ⅰサムエル22:8) とまで嘆きながら自己憐憫に浸っていました。
ドエグの伝え方はその屈折した感情を刺激し、火に油を注ぐかのような形になっていました。そのことが、「お前の舌は破滅を図っている……おまえは……義を語るよりも偽りを愛している」(2、3節) と非難されます。
事実、ドエグはダビデの逃亡に関し、「アヒメレクは彼のために主 (ヤハウェ) に伺って、彼に食料を与え、ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えました」(同22:10) と報告しています。
これはサウルの心に、まるで、主とその祭司までもがダビデの味方となったかのような印象を与えかねない表現です。
しかも、「ペリシテ人ゴリヤテの剣」をダビデが再び手にするということは、ユダヤ人ばかりかペリシテ人までもが、ダビデの勇気をたたえていることを思い起こさせます。
それは、人がときに、他人の悪口を敢えて伝えることで、「私だけがあなたの味方ですよ」とアピールするような効果を狙ったものです。
その結果、祭司アヒメレクに罪が帰せられ、サウルは彼を殺すように命じます。サウルの近衛兵たちが、主の祭司たちに手をかけることを躊躇している中で、ドエグは85人もの祭司を立ちどころに殺しました。
そればかりか、ドエグは祭司の町ノブの子供を含めたすべての人を全員殺します。エサウの子孫のエドム人であるドエグとしては、主の民イスラエルの仲間と認められるために必死に王に仕えているつもりなのでしょう。それは、見捨てられ不安を持つ人が、人の歓心を得るために頑張るようなものです。
それに対しダビデは、ドエグがそれによって全能の神ご自身を敵に回し、ドエグ自身が、「生ける者の地から……根こぎにされる」(5節) と述べ、それは、「神を力とせず、おのれの豊かな富にたより、おのれの悪に強がる」(7節) 者たちへの裁きであると語ります。
ドエグはサウル王の歓心を「豊かな富」とすることで、滅亡するのです。
一方、ダビデは、「しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ」と、神に守られている者として豊かな実を結ぶ者とされていることを確信しています。
それは、「神の恵み (ヘセド)」という「契約の愛」が「いつも、ある」(1節) ことを思い起させます。またそれは、「私は、世々限りなく、神の恵み (ヘセド) に拠り頼む」(8節、カッコ内筆者) という告白を生みます。
人の歓心は変わりますが、主の恵みは永遠だからです。人を動かすことより、主の恵みに拠り頼む中にこそ真の自由があります。
【祈り】主よ、私たちはときに、人の歓心を得ようと、誤った方向に情熱を傾けることがあります。どうか、いつでもどこでも、主の眼差しを意識して生きさせてください。