先週金曜日にお伝えしたことですが、「パレスチナ解放」と叫んで、親パレスチナの男が、ワシントンDCにあるイスラエル大使館を襲い、若い男女の職員を殺害しましたが、そのお二人のヤロン・リシュチンスキーさんとサラさんは、二つの面で私たちと非常に近しい人でした。
彼らは、イエスを救い主と信じるようになった回心したユダヤ人でした。男性の方は日本語と日本に大変興味があり、ヘブライ大学で東アジアについて学び、関西大学に交換留学する予定でした。けれどもコロナで行けなくなり、DCのイスラエル大使館で勤務していました。
彼は婚約者のサラさんとともに、パレスチナ難民とユダヤ人の和解のため、またガザ地区のパレスチナ難民支援の活動をしていました。
実はイスラエルにはありとあらゆる政治思想があり、このように民族和解のために活躍している多くのユダヤ人がいます。
そして今、2006〜2009年までイスラエルの首相を務めたエフード・オルメルト氏が、同国のガザ攻撃を「戦争犯罪」であり、止めるべきだと訴えました。 からご覧いただけます。
この記事の中に、ネタニエフ首相の発言も引用されています(Xのツイッター)。彼はこの二人のユダヤ人の悲劇をもとに、彼らが世界に広がる反ユダヤ主義の犠牲者であると語っています。しかし、彼らはそのように言われることを悲しむように思われます。彼らは決して、ネタニエフ政権のやり方には賛同していなかったと思われるからです。
ただ、パレスチナ難民のために奉仕してきた彼らが殺されると、現政権はそれをも理由にして、イスラエルのガザ地区への攻撃はますます激しくしています。
何度も書きますが、ガザ地区を実効支配しているハマスは、イスラエルを地上から抹殺することを綱領にかかげているテロ集団です。ですから、ハマスが力を温存していると、第二、第三の悲劇が生まれることは明確です。
ただ、現在のイスラエル政府のやり方も、まるでガザ地区のパレスチナ難民のいのちをあまりにも軽く見ている、過剰防衛と言えましょう。
そのことを、以前の首相が、現政権を批判することは、決して反ユダヤ主義ではない、現政権のやり方は間違っていると、厳しくネタニエル政権を批判しています。
イスラエルのシンボルは、ダビデの星です。
しかし、ダビデの偉大さは、自分の意見を絶対化せずに、神と人との前に徹底的に謙遜であったことにあります。そのことが詩篇51篇に記されています。
詩篇51篇1–13節「雪よりも白くなりましょう」
「この人は何という卑怯なことをしたのか。その子供たちが堕落し、自滅したのも無理がない……」と言われるような人、それこそダビデに他なりません。しかし同時に、彼ほど神に愛され、喜ばれている人もいません。その神秘の鍵がこの詩にあります。
標題の背景は、サムエル記第二11、12章に記されていますが、この事件は、神がダビデ王国を安定させ、「その王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」(同7:13) との契約を結ばれて間もなくの頃です。主はダビデの子の誕生まで、彼が自分から悔い改めるのを待った上で、預言者ナタンを遣わします。彼はそこで初めて自分の罪を認めます。
この初めは原文で、「あわれんでください」(お情けを!)との叫びです。しかも、「御恵み (ヘセド) によって」とは、先の契約に訴えることです。
その上で彼は「そむきの罪」、「とが」、「罪」という類語を用いながら、それらから自由にされ、再出発することを願っています。ただし彼は、すべてがリセットされることを願ったのではなく、「私の罪は、いつも私の目の前にあります」(3節) と告白し、世界中にそれを知らせています。彼の願いは、神との交わりを以前と同じような親密なものに回復することでした。
彼は、自分の罪を何よりも、創造主に対する反抗と認め、主のさばきに服しようとしています (4節)。
主はダビデの罪を指摘した際、「わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす……」(Ⅱサムエル12:11) と宣告されましたが、彼は息子アブシャロムによって都を追われるときにも、それを謙遜に受け止めました。
「信仰」とは何よりも、「自分の罪を言い表す」(Ⅰヨハネ1:9) ことです。人が、自分の罪を誰かに告白できるとしたら、それこそ信頼の証しです。それは神への信頼の行為に他なりません。
ダビデでさえ自分から罪を告白できませんでした。教会は常に罪を告白した人を暖かく迎えるべきです。もちろんその際、「人は種を蒔けば、その刈り取りもする」(ガラテヤ6:7) という原則も忘れてはなりませんが、その人を追い詰めるようなことをせずに、その人が罪の実を刈り取ってゆく過程を支え励ます姿勢が必要でしょう。
その上でダビデは、自分の中には根深い罪の性質が生まれながら宿っていることを認め、「心のうち」「心の奥」から造り変えられることを願います (5、6節)。「ヒソプ」(7節) は、過越しのいけにえの血を、かもいと門柱に塗る際に用いられた植物で、ここでは神の主導で「私」がきよめられることが願われます。
これはキリストの十字架を指し示します (Ⅰヨハネ1:7)。「そうすれば……雪よりも白くなりましょう」(7節) とは、そのみわざが徹底していることです。神は、どんな人をも、内側から造り変えることができます。
10–12節では、それを成し遂げる聖霊のみわざが、「ゆるがない霊」「聖霊」「喜んで仕える霊」と三つの側面から描かれます。
旧約聖書の中で、これほど明確に聖霊のみわざが語られているところはありません。
しかも、ダビデが「救いの喜び」の回復を願うのは (12節)、「罪人」たちの回復のため (13節) でもあります。ダビデは自分の罪を公にすることによって、後の人々が神の御前に立ち返られるようにしました。そこに彼の心の真実が見られます。ただし、それもすべて神のあわれみの中で起きたことでした。
【祈り】主よ、私があなたの御前で自分の罪を告白できるように助けてください。そして、あなたの聖霊によって、日々、私を「雪よりも白く」してください。