今、とてつもなく忙しくしていて、当分、このような配信はお休みしようと思っていたら、またお知らせせざるを得ない気持ちになりました。以下は友人の明石先生からの情報です
「パレスチナ解放」と叫んで、親パレスチナの男が、ワシントンDCにあるイスラエル大使館の、若い男女の職員を無残にも殺害しました。
ヤロン・リシュチンスキーさんは、二つの面で私たちの非常に近しいです。一つは、日本語と日本に大変興味があること。ヘブライ大学で東アジアについて学び、関西大学に交換留学する予定でした。けれどもコロナで行けなくなり、DCのイスラエル大使館で勤務していました。
こちらのヘブライ大の教授の言葉に詳しいことが書いてあります。
https://tinyurl.com/ytj9vbhs
そして、ヤロンさんは、(女性のサラさんもそうですが)イエスをメシアと信じるユダヤ人です。シェア元の記事がそれです。京都でのゲストハウスで宿泊された時の写真がこちらにあります。
https://tinyurl.com/yrc5zhcl
私の日本人の知人・友人も、彼のことを近く知っている人たちがいて、悲しみのどん底にいます。あまりにも、やるせないです。
そして憎しみに対する怒りと悲しみがあります。いまや、命をかけて反ハマス・デモをしているガザのパレスチナ人がいるのに、それでも「フリー・パレスチナ」に共感する人たちは、その行き着くところは、これ、憎しみなのだということを知ってほしいです。
これが起きたとき、ここでは丁度、パレスチナとユダヤの和解のための集会、また、パレスチナ難民支援の集会が開かれていたときでした。このお二人もずっと、この和解と支援の働きを続けて来られたユダヤ人クリスチャンです。
本来、パレスチナの方々にとっても、かけがえのない本当に惜しい方々でした。
現在のイスラエルの軍事行動は、何とも弁護のしようもないほどの蛮行と思えます。彼らの軍事行動の行き過ぎにはみんなが声を上げる必要があると思います。
しかし一方で、ガザ地区を実効支配するハマスは、イスラエルという国を地上から消し去ることを綱領とするテロ組織です。どうしてこのことが彼らの明確な綱領と共に報道されないのかと思います。
今ガザ地区では、ハマスにこの土地から出て欲しいという運動が難民の方々の間に広がっています。
日本のニュースだけを見ていると、イスラエルのような国は、存在しない方がよいという考えた方になる方もいると思います。僕の大学時代の友人もそう言っていました。
今度の日曜日の聖書箇所でも明らかですが、ユダヤ人と私たち異邦人クリスチャンの交わりは、信仰の核心部分です。それが残念ながら、繰り返し忘れられてきた教会の歴史があります。
以下の詩篇はまさに私たちの信仰がエルサレム神殿での礼拝から始まっていることが明らかにされています。
詩篇50篇1–15節「わたしの聖徒たちを……集めよ」
神を礼拝する際、人はときに神へのささげ物を、神の特別な恵みを受け取るための取引かのように考えることがあります。特に「全焼のいけにえ」の場合は、主の前ですべてを焼き尽くすので、礼拝者には大きな犠牲が伴います。当時の礼拝の中心は、何よりも、いけにえを献げる儀式にありました。
しかし、今も昔も、礼拝とは、天地万物の創造主が、私たちを「聖徒」と呼んで、集めてくださることから始まるのです。
冒頭のことばは原文の順番では、「神々の神ヤハウェは語り、呼び寄せられた。地を、日の上る所から沈む所まで」と記されています。
そこには、イスラエルの神が、地のすべての神々を超越する方であるとの意味が込められます。
そして、「麗しさの極み、シオンから、神は光を放たれた」(2節) と、シオンが神の住まいとなっていること、また、神の現れが「食い尽くす火」「激しいあらし」という恐れに満ちたものとして描かれます。
そして4節では主はシオンにおいて、証人として「上なる天と、地とを呼び寄られ」ながら、「ご自分の民をさばく」というのです。そこで主は、「十のことば」を中心とした御教え(律法)を与え、「いけにえ」をささげることによってシナイで契約したこと (出エジプト記24章) を思い起こさせながら、「わたしの聖徒たちをわたしのところに集めよ」と言われます。
そして6節では、「天は神の義を知らせる。まことに神こそは審判者である」と描かれます。「神の義」とは、神がその契約を真実に守られることを意味します。そして「審判者」であるとは、イスラエルの民と結んだ契約に従って、「祝福とのろい」を与えようとしておられることを指します。彼らは契約の原点に立ち返るのです。
そこで命じられた「いけにえ」の規定とは、本来、罪人の中に住むことなどできないはずの「聖」なる神が、イスラエルの民の真ん中の幕屋に住み続けることができるための手続きでした。
決して、神は「全焼のいけにえ」の不足を訴えて、「若い雄牛」や「雄やぎ」を取り上げようとしているわけではありません (8、9節)。
「森のすべての獣」も「千の丘の家畜」らもすべて創造主ご自身のものだからです (10、11節)。まして、主は、「飢えて」いるため「雄牛の肉を食べ、雄やぎの血」を飲むわけではありません (12、13節)。その最初から、「いけにえ」、神の側の必要から生まれたわけではないのです。
「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ」(14節) とは、聖なる神がイスラエルの真ん中に住んでくださるという途方もない恵みの原点に立ち返って、民が「聖徒」(5節) として整えられるために必要なことを、ただ感謝の気持ちと共に実行することの勧めです。
そして、神が彼らのただ中に住んでくださるということを前提に、「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう」(15節) という、神と聖徒の健全な関係が成立すると言われます。
天地万物の創造主が罪人の真ん中に住んでくださるという神秘を私たちはあまりにも安易に考えてはいないでしょうか。私たちにとってはイエスの十字架の血があって初めてそれが可能になりました。私たちはその神秘を、聖餐式を通して覚えることができます。すべては神のあわれみから始まっています。私たちの信仰はそれへの応答です。
【祈り】主よ。あなたが義なる審判者として私たちのただ中に住んでくださることを感謝します。その神秘をいつでも意識しながら、あなたの愛に応答する生き方をさせてください。