一昨日(火曜、5月20日)、ジュディス・リッチ・ハリスの「子育ての大誤解ー重要なのは親じゃない」(2017年 早川書房 上下巻)という本をご紹介しました。
この本は出版当時から、「子育ての大切さを軽視するとんでもない本」という評価と、「これによって本当に気が楽になった」と、心からの感謝を訴える両極端に分かれる評価が生まれた言われております。
このメール配信をご覧になった方の中にも同じような反応があったかと思い、念のために追加情報を書かせていただきます。
少なくとも教会では、ふだんから「遺伝子」とか「環境」という代わりに、神のユニークな創造、クリスチャンの交わり、社会との関係などということばを使いますので、この本の紹介に違和感を覚える信仰者がいても当然のことです。
僕がこの本に感動をした最大の理由は、36年間の牧会生活で、様々な子育ての悩みを聞き続けてきたからです。
その多くは、「子どもが勉強してくれない」「成績が伸びない」「塾通いが大変だ」「夫が協力してくれない」「万引きをした」「別の子に乱暴をする」「引きこもりになった」「友人ができない」「まったく教会に来なくなった」「親をバカにする」「子どもに厳しくし過ぎた」「子どもを甘やかしすぎた」「社会に適応できるかが心配だ」とか、など極めて日常的な相談です。
そこに前回書いた「子育て神話」のようなものが影響しているように思い続けてきました。
それは、核家族化が進む中で、子育ての責任が時には母親だけとなるばかりか、夫婦が協力し合っていても、なかなか親族や友人の助けを得られなくて孤立し、行き詰まっている状態です。
そのような中で、さまざまな子育ての成功例のようなものを聞き、それをまねしようとして、かえって自己嫌悪に陥るとか、子どもを責めるような悪循環に陥ってしまいます。
そこには、心の底で、親がしっかりしていたら、子どもはきちんと育つはずという幻想があるような気がします。また子どもがうまく育たないのは、親の未熟さのせいという思いがあるような気がします。それこそが、子育て神話と呼べましょう。
しかもそこでの「子育て」とは、「神と人とに愛される子に育つ」というよりも、率直に言って、りっぱな社会的地位を獲得して、みんなから尊敬される人に育つというようなこの世的な話です。
信仰の成長においても、「親の信仰ではなく、自分の信仰を」と私たちは勧めます。それは親の影響下から抜けるということを意味します。
そして、思春期以降の子どもの信仰において何よりも大切なのは、友人の存在であるというのはほとんどすべてのクリスチャンホームで言われていることです。
ですから、自分の期待通りに育って欲しいという人情、その気持ちの中では、逆説的に、子どもの成長に決定的な作用をもたらすのは、5割が遺伝子で、5割が環境によると大胆に言われると気が楽になります。
そこでは、単純に自分の子の成績や生活態度に過度に悩む代わりに、これは自分の手の届かない遺伝子的な問題で、自分の責任は、自分の子の個性をそのまま優しく受け止めて、それを生かす道を考えることだという前向きな発想になれます。
また、子どもの信仰の成長に関しても、子どもは基本的に親の教えに反抗したいという気質を持つのが常なので、子どもが良い友人関係を築くことができる環境を整えてあげようという方向が見えます。
決して、自分の信仰が未熟だから、子どもが倣ってくれないなどと思う必要はありません。
少なくとも私に相談に来た人で、「子どもへの愛情が足りない」という人は一人もいません。みんな必死に、子育てに励んでいます。
でも一生懸命になればなるほど、子どもは反抗するとか、親が自己嫌悪に陥るという現実があります。そのような人にとって、「子育て神話」からの解放は、まさに福音です。
それは単純に、親の限界を謙遜に認めながら、今、お子さんの個性を尊重し、友人関係を尊重し、自分が裏方に徹して、子どもを愛し続けるという姿勢です。
それにしても確かに、私たちは共同体として、他のクリスチャンとの交わりを通して、子どもの本来の成長の方向を確認し合う必要があります。
ただ、その前に、親の本音を聞けて初めて、福音が通じるという順番を大切にする必要があると思います。
今日は、詩篇49篇です。本当は、この下からの文章こそが大切です。そこに私はたましいを注いでいます。
詩篇49篇5–20節「人は……滅びうせる獣に等しい」
この詩は知恵の詩篇の代表で、詩篇37篇、73篇と同じテーマを扱っています。それは、創造主を無視して生きながら、この世の栄華を誇る者の結末の空しさです。
この詩の12節と20節は、「とどまれない」「悟りがない」というヘブル語で似た発音のことばを挟みながら、「人はその栄華の中にあっても、(とどまれなければ)(悟りがなければ)、滅び失せる獣に等しい」と繰り返されます。
そして、その真ん中に15節のこの詩篇作者の感謝のことば、「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ」が記されています。この構成を何よりも味わいたいものです。
この5–9節では、この作者は何らかのわざわいに会いながら、かえってまわりの人々から中傷されます。彼らは自分の富を誇りながら安心しています。
しかし、そのような中で、作者は、すべての人を支配する「死」の現実の前に、富は何の役にも立たないことを改めて解き明かします。
そして、10、11節では、多くの人が、その死の空しさを、自分の家や土地を後の世代に受け継がせることで、乗り越えようとすると描かれ、12、13節で、そのようなことは何の役にも立たないばかりか、その栄華がやがて消え失せるという現実の中では、人は「滅び失せる獣」と何も変わりはしないと告白します。
そのような現実を前に、16、17節では、富や栄誉に囚われがちな私たちに対する警告のことばが、「恐れるな。人が富を得ても、その人の栄誉が増し加わっても、人は死ぬとき、何一つ持って行くことはできず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ」と記されます。
私たちは、競争社会の中で、この永遠の真理を心に刻むべきです。
人は誰でも、葬儀になると急に宗教的になるような気がします。それは、人はみな心の奥底で死を意識しながらも、それを忘れるようにしているからではないでしょうか。
しかし、自分の人生が、暗闇に向かっているのか、光に満ちた世界に向かっているのか、その方向性がどちらかを知ることで、現在の生き方が大きく変わってくるはずです。
義人ヨブは、不条理な苦しみの中で、「私の生まれた日は滅びうせよ」と自分のいのちをのろってしまいますが (ヨブ3:1–3)、不思議にも、そのどん底で、「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る」(ヨブ19:25–27) と告白するように導かれ、さらに神との対話を続けます。
そして、主は、ヨブがその三人の友人のように自分の悟りに頼らず、神に必死に訴え続けたということ自体を喜んでくださいました。その結果、彼は復活のいのちを生きて味わったのです。
この詩篇作者もヨブも、苦しみのただ中で、自分のたましいを死の支配の奴隷状態から贖い出してくださる方に出会うことができました。私たちの場合は、イエスを自分の人生の主と告白させていただけたことによって、すでにキリストにある復活のいのちを生き始めることができました。これこそ、私たちが何よりも感謝すべき「さとり」(20節) です。
キリストのうちに生かされている者の人生は、すでに、「やみ」から「光」へと移されています。私たちは恐れることなく、神の御顔を拝させていただけるのです。
【祈り】主よ、この世界は、富と栄誉を獲得するための競争に明け暮れています。その空しさを知らせていただき感謝します。神の御顔を拝することを日々、意識させてください。