詩篇47篇〜ウクライナとロシアの停戦協議

 ロシアのウクライナ侵攻から約三年が経って、今ようやくとウクライナとロシアの停戦協議が始まろうとしています。
 今回は具体的な進展はないというのが一般的な見方ですが、双方の主張の隔たりが世界中にアピールされること自体に大きな意味があります。
 停戦のためにはどこかで妥協する必要があるのは確かですが、それぞれの国の指導者は最高の決着を唱えて、自国民の戦意を高揚し続けていましたので、それは当面諦めざるを得ないということが、それぞれの国で納得できるための時間が必要だからです。

 私たちは誰もが、戦争を嫌い、平和を望んでいます。しかし、中国の有名な古典の序文にも記されているように、人は平和の中での不条理な現状に不満を持って戦いを始めると同時に、戦いに疲れて初めて平和を望むようになるからです。
 残念ながら、平和の中で現状の秩序が守られると、豊かな人はますますそのシステムの中で豊かになり、反対に貧しい人はそのシステムが維持されている限り豊かになる道は限られてしまいます。ですから、政治は長期的な視点から、貧富の格差の是正に注力し続ける必要があります。

 平和の維持には途方もない努力が必要です。それは戦争の悲惨が見えて初めて生まれる価値観かと思います。
 たぶん、当面の間、ウクライナが占領された領土を回復することは困難でしょうが、戦いを止めている間に、ロシアの中で政変が起きるかもしれません。またウクライナの経済が西側諸国の応援で急回復するかもしれません。
 そしてEUとの経済交流によって、ウクライナの人々が幸福を味わうことができるような状態が生まれて初めて、ロシアの人々も気持ちの変化が生まれることでしょう。
 EUはいろんな問題を抱えてはいますが、国境の境目はないに等しくなりつつあります。歴史的に何度も戦いを繰り返したフランスとドイツの国境の壁がどんどん低くなっていることを見れは、その変化は驚くべきことです。19世紀に住んでいた両国民がそれぞれの現在を見たら、本当に、これこそ神の奇跡と見ることでしょう。

 詩篇47篇は、今ここにある、主の恵み、日々の生活の中に神のみわざを認めることが書いてあります。

 明日葬儀を行うご婦人は、長い間、理想を求めて、ある意味で戦い続けてきた方です。しかし、12年ほど前に当教会に集うようになる直前に、「今ここにある神の御支配」に目が開かれて、当教会ではそれまでの生活が嘘のように平安に満たされた歩みなったようです。コロナがなければそのような心境の変化をもっとお聞きすることができたはずなのにと悔やまれます。

詩篇47篇1–10節「神は喜びの叫びの中を……上って行かれた」

 多くの人々は、神がおられる「天」と、人が住む「地」は隔絶していているかのような世界観を抱いています。そこでは、神が天から地を見下ろし、必要と思われる時に、手を差し伸べ、私たちを助けてくださると理解されます。
 そして、人の住む世界に神の御手が差し伸べられることを「奇跡」と呼びます。そして、そのような不思議を体験できるために、私たちは熱心に神に仕え、また神に祈る必要があると考えられます。

 ところが、この詩では、「神は喜びの叫びの中を、主 (ヤハウェ) は角笛の音の中を、上って行かれた」(5節) と不思議な表現があります。これは、イスラエルの王となったダビデが、エルサレムを都と定め、そこに主の契約の箱を運び入れたことを指しています (Ⅱサムエル6章)。
 その際のことが、「ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主 (ヤハウェ) の箱を運び上った」(同15節) と記されています。つまり、聖書の描く神は、ある特定の場をご自身の住まいとされ、そこから世界を治めておられるのです。
 そのことがここでは、「神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる」(8節) と記されます。そして、その王座はエルサレムにあると思われていました。

 先の詩篇46篇では、「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない」(5節) と告白され、エルサレムが敵の圧倒的な攻撃の中で守られたことが思い起こされました。
 しかしその後、イスラエルの民は、周辺の強い国々の神々を拝むことで自分たちの安全を図ろうとしました。そのような中で、主(ヤハウエ)の栄光は神殿を去って行かれます (エゼキエル10:18、11:23)。なぜなら、「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」(詩篇22:3) と記されるように、神は偶像礼拝者の中に住むことはできないからです。
 ですからこの詩では、「喜びの声をあげて神に叫べ……神にほめ歌を歌え……われらの王にほめ歌を歌え……神は全地の王、巧みな歌でほめ歌を歌え」と、心からの賛美が勧められています。
 主の契約の箱は、ダビデが「はねたりおどったり」(Ⅱサムエル6:16) する中でエルサレムに上り、それがイスラエルの繁栄の礎になったのでした。

 しかし、イスラエルの民は、主の栄光が去って行かれたことに気づかず、主のみこころを慕い求めようともせずに、「主 (ヤハウェ) が私たちの真ん中におられるから、バビロン帝国など恐れる必要はない!」などと強がっていました。心が神から離れているのに、同胞の手前では、神に信頼するふりをして、エレミヤのように神のさばきを告げ知らせる預言者を、不信仰な売国奴かのように非難していました。
 しかし、神が求めていたのは、見せかけの信仰ではなく、徹底的にへりくだって、主を慕い求めることでした。

 今の神の神殿とは、キリスト者の交わりそのものです (Ⅰコリント3:16)。イエスご自身も、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタイ18:20) と保証してくださいました。
 イエスの名によって集まるとは、強がりを捨て、自分の罪と弱さを認め、主の贖いのみわざに感謝することに他なりません。そして、主は私たちの交わりのただ中に入って来られ、そこから周囲の世界を治めてくださいます。
 何より大切なのは、日々、主の御前にへりくだって、主を賛美することです。


【祈り】イスラエルの賛美と私たちの交わりを住まいとされる神に感謝します。いつでもどこでも、イエスの御名によって集まり、互いと世界のために祈る者とさせてください。