詩篇46篇〜ハラリ「情報の人類史」

 今、イスラエルの歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の新刊「ネクサスー情報の人類史」を読んでいます。
 そこで、「不可謬という幻想」などという章を中心として、「聖書を誤りのない神のことば」と信じるユダヤ・キリスト教の伝統に大きな疑問が投げかけられています。

 ただ、残念ながら、ハラリ氏は、ユダヤ人でありながら、「詩篇の祈り」をどこまで味わったことがあるのかと、残念に思いました。
 詩篇の中には、神の沈黙、神のみわざへの不信、神への抗議など、正直な心の訴えが満ちています。
 他の聖書の箇所でも、僕はメッセージの準備の中で、「この記述は間違っているのではないか……」と率直な疑問を抱きながら、聖書を読んでいます。
 するとそのたびごとに驚きの発見があります。

 聖書が神のことばであると信じる交わりは、疑いの表明をタブー視するものではなく、自由にそれを表明し、考え合うことができる交わりです。

 ハラリ氏の本では、それに続いて全体主義の問題が指摘されていました。そこでは共産主義の理想への疑問を表明することは決して許されませんでした。互いが互いを監視するシステムができていました。
 1930年代のスターリンの粛清の時代に 1934年の党中央委員会の139名のうち五年後にも委員でい続けることができな人はたった2名だけだったとのことです。7割の委員が銃殺されたとのことです。
 また互いを監視し合うシステムは秘密警察を中心に行われますが、秘密警察自体の中も相互監視のシステムが厳しく、1935年にその幹部としていた35名のうち1945年まで生き延びたのはたった二人で、そのうちの一人は精神病院に送られ、残りの一人も銃殺されたとのことです。

 現在のロシアのプーチン大統領は、そのような秘密警察の生き残りです。どのように彼を説得することができるか、それがウクライナの将来に関わります。

 詩篇46篇は、詩篇44篇で「起きてください。主よ、なぜ眠っておられるのですか」と神に訴えていた「コラ人」による神への信頼の歌です。
 まさに神への疑いの表明から生まれた信頼の歌です。

詩篇46篇1–11節「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」

 この詩は、エルサレムが死海の東側にある国々の連合軍からの攻撃にさらされ、絶体絶命になった時に生まれたと推測されます (BC850年頃)。Ⅱ歴代誌20章にはその時の様子が記されます。ユダの王「ヨシャパテは恐れて、ただひたすら主 (ヤハウェ) に求め」(3節)、「このおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません……どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです」(12節) と祈りました。
 私たちも恐れを感じる時、これらの姿勢に習いつつ、ただ神に目を注ぐべきでしょう。そしてこの時、主 (ヤハウェ) の霊が預言者に臨み、「この戦いは……神の戦いである……主 (ヤハウエ) の救いを見よ」(14–17節) と告げられます。「それで……コラ族のレビ人たちが……大声を張り上げてイスラエルの神、主 (ヤハウェ) を賛美した」(18、19節) というのです。

 「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」(1節) とありますが、その後の、「それゆえ……」(2節) ということばが大切です。
 危機に直面すると身体が反応しますが、自分で恐れを鎮めようとせず、神に目を向けます。その結果、「われらは恐れない」と告白できるのです。
 「たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも……山々が揺れ動いても」(2,3節) とは足元が崩れ去ることの象徴的表現です。起こり得る最大の悲劇を想定しながら、それらすべてを支配する創造主に目を向けるのです。

 4節の初めは、「あっ。川だ!」という驚きです。エルサレムは山の上にあり、攻撃されると水が生命線です。終わりの日に、神殿から水が湧き出て、四方の地をエデンの園のように潤すと預言されているように (エゼキエル47章)、神こそが生命の水の源です。
 しかも、神が「そのまなか」におられる都は揺らぐことがありません。「神は夜明け前にこれを助けられる」(5節) とありますが、それは二度も起きました。
 ヨシャパテ王の時、主は伏兵を設けて敵の連合軍を同士討ちにさせ、全滅させました。その約150年後のヒゼキヤ王は、アッシリヤ帝国に包囲され、「祈りをささげ、天に叫び求めた。すると、主 (ヤハウェ) はひとりの御使いを遣わし……アッシリヤの王の陣営を……全滅させ」(Ⅱ歴代32:20、21) ました。
 それを前提に、「国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ……神が御声を発せられると、地は溶けた」(6節) と神の救いが描かれ、世の不安定さが「山々が海のま中に移る(原文:揺らぐ)」(2節) と描かれ、その対比で「その都は揺るがない」(5節) と記されます。それこそ「万軍の主」が「まなか」におられることの意味です。
 
 「やめよ」(10節) とは、「そのままにしておく」という意味で、新共同訳は「力を捨てよ」、英語は「Be still(静まれ)」の訳が一般的です。水中で、もがけば沈み、力を抜くと浮き上がります。私も自己弁護に一生懸命だった時、ふと「神の支えは、沈むに任せると体験できる!」と示されました。
 そして、原文では、「知れ」という命令が続き、その内容が、「わたしこそ神。国々の間であがめられ、地の上であがめられる」と述べられます。「あがめる」とは、「高い」の派生語で、神が万物の創造主として、今もすべての政治、地の出来事の上におられ、すべてを支配しておられるという意味があります。
 不安に圧倒されるようなとき、何よりも大切なのは、「やめよ!」との御声を味わうことです。


【祈り】主よ、自分にとって「世界の終わり」と思えるような危機にあっても、右往左往するのではなく、「やめよ、そして知れ、わたしこそ神」との声を聞かせてください。