ローマ14章1〜12節「立場の弱い人を受け入れなさい」

2025年5月11日

ローマ人への手紙14章1–12私訳と関連聖句

先日のメッセージでアウグスティヌス (354年~430年) の回心において、「ですから、昼にふさわしい歩み方(昼らしい、品位ある生き方)をしようではありませんか。遊興や酩酊ではなく、また、淫乱や好色でもなく、争いやねたみでもない生き方を。むしろ、主イエス・キリストを着なさい。そして欲望を満たそうなどと、肉の計らいをしてはなりません」(13:13、14) とのみことばが決定的な意味を持ったという話しをしました。

その場に立ち会っていた友人のアリピウスは、それに続く、「信仰の弱い人を受け入れなさい」というみことばによって、回心をすることができたと記されています。

アウグスティヌスは自分が肉的な情欲から自由になれないことを悩んでいましたが、アリピウスはかつて好奇心によって剣闘士の戦いの見世物の虜になっていたところをアウグスティヌスのことばによってそれと絶縁し、彼の弟子のような存在になっていました。しかし彼は一方で、アウグスティヌスの情欲の強さには呆れるような仕草も見せていました。

アウグスティヌスはアリピウスの生活態度は自分よりはるかに健全で、神のみ旨に近いと感心していたのです。

しかし、日ごろの生活態度がしっかりしている人は、意外にも、心の底では自分の信念の弱さに悩んでいたりするということがあります。それは外面的に安定した生活態度を守ることで自分の内面の弱さを隠すことができるからです。

ですから意外に、生活を律することができる人の方が、心の底での「信仰が弱い」という逆説があるかもしれません。そしてそのような人は、自由に生きている人を心でさばいている場合があります。

弱いと見える人が強く、強いと見える人がとっても弱いという逆説がありますが、クリスチャンの交わりの中では、「弱い立場の人」をそのままで受け入れるということが普遍的な勧めかと思われます。

1.「信仰において弱い者を受け入れなさい」

14章1–3節は次のように訳すことができます。

信仰において弱い者を受け入れなさい(歓迎しなさい)、その考え方への批判に陥らないようにしながら。ある人はすべてのものを食べてよいと信じています。しかし弱い人は野菜を食べます。
食べる人は食べない人を見下してはなりません。しかし一方で、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。それは、神がその人を受け入れてくださったからです。

1節は「信仰の弱い人」というよりも、「信仰において弱い者を受け入れ(歓迎し)なさい (Welcome those who are weak in faith: NRS訳)」と記されます。ですから、強調点は「弱い立場の人」を歓迎することの勧めと言えます。

それはここでは「弱い人は野菜を食べます」と記されるように、教会の交わりの中で野菜ばかりを食べている生き方を逆説的に「弱い人」と呼んだのだと思われます。

当時のユダヤ人は食物律法を守ることを何よりも大切にし、そのため異邦人とともに食事をすることができなくなりました。その習慣はクリスチャンになってもそう簡単には消えません。ユダヤ人は豚肉を食べないばかりか、血の混ざった牛肉も食べません。彼らはコシェルと呼ばれる規定で準備された肉しか食べられませんでした。

なお当時のローマ教会ではユダヤ人クリスチャンが少数派でした。その少し前にユダヤ人がローマ市から一時的に追放されて少し前になって戻ってローマに戻って来ることができたばかりだったからです。つまり、食物律法を守り続けるユダヤ人クリスチャンは「信仰が弱い」というより「立場の弱い人」と言える状態でした。

パウロは敢えて信仰が強いと見える彼らを「信仰において弱い」と再定義することで、優しく受け入れることを勧めました。

コリント人への手紙第一8~10章では。「偶像に献げた肉」を食べて良いかどうかに関してパウロは驚くほど丁寧な議論をしていました。

そこでは白黒が明確な決まりを提示する代わりに、「自分の前に出される物はどれも……食べなさい」と言いながら、それでつまずく人がいるなら「食べてはいけません」という不思議な教えでした (同10:27、28)。つまり、普遍的な原則ではなく、その肉が出されたときの状況によるというのです。

そのようなことを聞いた人は、それなら基本的に肉を食べないことで、つまずきを避けられると考えるように導かれることもあります。それはユダヤ人的背景を持っているかいないかを超えた基準と言えます。

ですからパウロはここで、民族の枠を超えた基準で、「ある人はすべてのものを食べてよいと信じています。しかし、弱い人は野菜を食べます」と述べます。

これは「野菜しか食べない」という菜食主義の人というより、良心の葛藤を避けるために、クリスチャンの交わりの中では野菜しか食べないという規律を自分に課している人と言えます。

ただ、そこではそのような「考え方」に対しての「批判」が生まれます。「何を食べてもよいと信じて」いる人は、ユダヤ人の過去の習慣や人々のつまずきの可能性にばかり気遣う人を「信仰の弱い人」と「見下して」しまう可能性がありました。

また反対に食べない」という信仰的な生き方を大切にする人は、そのように自由な生き方をする人を信仰の基準に反する人と見たかもしれません。

たとえばこれは現代で言えば、飲酒の問題に適用できるかもしれません。アルコール依存症の問題を抱えている人がいる交わりの中では、みながお酒を飲まないということは極めて信仰的な判断です。

それがより普遍的になり、「クリスチャンはお酒を飲むべきではない」と思う人がいるかもしれませんが、そのような人こそ、ここでの「信仰において弱い者」に当てはまると言えます。私たちはそのような信念を持つ人を受け入れます。

しかしそのような人が、お酒を飲む人をさばくようになってしまっても本末転倒です。そのような人は、イエスご自身が最初の奇跡で、「水をぶどう酒に変えた」ことをどのように説明するのでしょう。

たとえば米国の福音的なクリスチャンはお酒を飲まない場合がほとんどかもしれませんが、私たちが昔集っていたフランクフルトの福音自由教会では聖餐式の際に葡萄ジュースの席とぶどう酒の席のどちらかを選ぶことができるようになっていました。ドイツでは飲酒自体を悪と見るクリスチャンはほとんどいません。

ただし、ここで何よりも問われていることは、肉を食べてよいかどうか以前に、食べる人食べない人も、お酒を飲む人も飲まない人も、神がその人を受け入れてくださった」という一点にあります。

それでパウロはその議論を進めて、「あなたはいったい何者なのですか、他の家のしもべをさばくとは。自分の主人次第で彼は立ち、また倒れます。しかし、彼は立つことになります。なぜなら、主はその人を立たせることができるからです」(14:4) と記します。

ここでは一般的な「しもべ」ではなく「家のしもべ」ということばが使われています。ある家のしもべに仕事を命じ、またその仕事を評価できるのは、その家の主人だけです。他の家の主人が、別の家のしもべに働きを命じ、またその人の働きに報酬を払うことは絶対にできません。

私たちはそれぞれ、固有の歩みの中で、信仰に導かれました。それぞれの信仰を導いたのは、主ご自身であって、どこかの組織でも、どこかの指導者でもありません。それぞれの固有の歩みを尊重すべきです。

私は神の導きの中で、ドイツで学び、証券市場を中心とした市場経済の大切さを深く自覚し、仕事が充実する中で牧師としての働きに召されました。そのプロセスの中から必然的に、政治や経済の課題に関しての見解が日本の多くのクリスチャンの標準から異なる場合が生まれました。

日本の教会には第二次大戦の反省を経ての固有の偏りがあるように思います。それが世界的な標準からすると偏りに見えたからからこそ、50代半になって「お金と信仰」などという著作を初めとした発信するようになってきました。

あなたも日本の教会の枠を広げるために、創造主によって召された歩みがあるのではないでしょうか。あなたはイエスご自身のしもべです。日本の平均的クリスチャン像から離れている部分があったとしたら、そこにこそ、神があなたを用い、生かしたいと思われる原点があるのではないでしょうか。

自分が人と違っていることを喜び受け入れることの中で、神の固有の召しを発見させていただきたいものです。

2.「それぞれ自分の心の中で確信させられなさい」

14章5、6節は次のように記されています。

ある人はある日を別の日よりも重んじます。しかしある人はすべての日を重んじます。それぞれ自分の心の中で確信させられなさい(受動命令)。
特定の日に思いを寄せる人は、主のために思っています。また食べる人は、主のために食べています。それは神に感謝しているからです。また食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しています。

この背後には、レビ記23章に命じられた「主 (ヤハウェ) の例祭」があるように思われます。そこでは第一の月に相当する「過越の祭り」、それから50日目の「五旬節の祭り」、また第七の10日の「宥め(大贖罪)の日」、第七の月の15日から始まる「仮庵の祭り」などを、主の命令の通りに守ることが意識されていたと思われます。

それがイエス・キリストにある「新しい時代」にあっても、受難節、復活祭、ペンテコステ(聖霊降臨節)、収穫感謝祭などとして守られています。

現代は、イエスの誕生を祝うクリスマスが最大の祭りになっていますが、その背後には、再建されたエルサレム神殿がギリシア人の王によって汚されたときにユダ・マカベオスが神殿をギリシア軍の支配から解放し、神殿をきよめた「宮清めの祭り」(ヨハネ10:22) があります。

使徒パウロも、第三回目の伝道旅行の際にギリシアのコリントに滞在し、その間にこのローマ人への手紙を書いたと思われますが、その後の旅路に関しては「種なしパンの祭りの後にピリピから船出した」(使徒20:6) と記され、またエペソに立ち寄らない理由を「彼(パウロ)は、できれば五旬節の日にはエルサレムに着いていたいと、急いでいた」(同20:16) と記されます。

ですから、初代教会の時代は、イスラエルの歴史から生まれた祭日を大切にしていたことは明らかです。またカトリックや東方正教会では、聖書を読めない人のために特別な祝祭日を設けることによって聖書の教えを、年間を通して覚えるという知恵が発展して行きました。

しかし現代の教会、特にプロテスタント教会においては、「日」に過度の重点を置くよりも一人ひとりが聖書全体を順番に味わうという黙想の生活が大切にされるようになっています(世界の歴史では聖書を目の前に置いて誰もが読むことができるようになってから150年程度しか経っていません)。

それがここでの「すべての日を重んじる」という姿勢です。ガラテヤ人への手紙でパウロは、律法を超えた伝統的な祝祭日に支配され過ぎる姿勢を批判し、「今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています」(4:9、10) と批判しています。

ですから、イスラエルやキリスト教会の伝統から生まれた祝祭日の奴隷になるような生き方も神のみこころに反しています。

パウロはここで敢えて受動態の命令形で、「それぞれが自分の心の中で確信させられなさい (Each one should be fully convinced in his own mind: ESV訳)」と命じています。

私たちはキリストにあって自由を得ています。大切なのはそれぞれが、各自に対する主の導きの中で確信に導かれることです。パウロは、「あなたがたは代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷になってはいけません」(Ⅰコリント7:23) と語っています。

それで各自が自由に判断すべきことが、「特定の日に思いを寄せる人は、主のために思っています。また食べる人は、主のために食べています。それは神に感謝しているからです。また食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しています」(14:6) と述べています。

大切なのは、ある特定の日を守ることや、食べるとか食べないという行動以前に、「神に感謝している」という心の姿勢の中ですべてが行われることです。

ですから、パウロは先の「偶像に献げた肉」の問題に関しても、白黒を明確にする代わりに、「あなたがたは食べるのにも飲むのにも、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリント10:31) と記しています。それは各自の心の中で確信させられるべきことなのです。

3.「ですから、生きるとしても、死ぬとしても、私たちは主のものです」

そのことがさらに14章7–9節では次のように記されます。

それは、私たちの中でだれ一人自分のために生きてはいないからです、また自分のために死ぬ人もいないからです。
もし私たちが生きるとするなら、主のために生きています。またもし死ぬとするなら、主のために死にます。ですから、生きるとしても、死ぬとしても、私たちは主のものです。
それは、このためにこそ、キリストは死んだからです、また生きられたからです。それは死んだ人にも生きている人にとっても、主となるためでした。

「だれ一人自分のためには生きていない、また自分のために死ぬ人もいない」というのは、すべての人に適用できる永遠の真理と言えましょう。私たちの人生は、それぞれ何とも言えない苦労の連続です。そんな人生に何の意味があるのでしょう?

僕の高校時代、自殺が流行りました。でもそのとき単純に、自分が死んだら、母がどれだけ悲しむかを想像し、絶対に死ねないと思いました。でも母自身が、僕が自分の人生を生きることを喜んでいることも明らかでした。それから徐々に、人から喜んでもらえる生き方を考えるようになりました。

ただそれでも、自分は何かの目標に到達したとしても、次から次ぎと目標が現れて、自分は何かに駆りたてられるように生きるだけかと思えたとき、そのような生き方の空しさに気づきました。それと同時に、キリストのために生きるというキリスト中心の人生に憧れを持てるようになりました。

確かに私たちの心は、繰り返し自己中心の思いに囚われ続けますが、キリストは私たちを本当の意味で生かすために、死んで復活されました。ですから、キリストのために生きることが、反対に、もっとも自分を生かす道に通じるのです。

ただそれは決して、自分の中に沸き起こる願望を殺すことではありません。母が僕に自分の人生を生きて欲しいと願っていたとしたなら、まして私のために死んでよみがえられたキリストが、私が自分に与えられた日々を、喜びながら、生きがいを持って生きることを喜んでいないわけがありません。

たとえば、現在の私は72歳とは思えないほど忙しくしています。次から次と奉仕が入ってきます。自分の個人的な都合を優先しても良いとは思いますが、主のために生きたいと思うから、またそこに生きがいを感じるからこそ忙しくなってしまいます。

ただ、それも「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です」(ピリピ2:13) と記されているとおり、主ご自身のみわざとも言えます。とにかく、主のために生きるということは、私たちの心に真の生きがいが生まれることと言えましょう。

4.「私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります」

14章10–12節は次のように訳すことができます。

それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。またあなたはどうして自分の兄弟を見下すのですか。それは、すべての私たちが神のさばきの座に立つことになるからです。
それは次のように書かれているからです。「わたしは生きている、主は言われる。すべての膝は、わたしに向かってかがめられることになる。すべての舌は、神に告白することになる」
ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。

10節での「さばく」「見下す」とは3節と同じことばで、ユダヤ人クリスチャンを中心とした肉を食べない「弱い人」は、異邦人クリスチャンを中心とした食物規程を軽んじる人を「さばく」一方で、肉を「食べる人」は、キリストにある「新しい創造」を理解できていないと「見下す」ことで、教会の中に分裂が起きているという問題をパウロは指摘しています。

そして「すべての私たち(クリスチャン)」が「神のさばきの座に立つ」ということをパウロはイザヤ書を引用して語ります。

まず「わたしは生きている、主は言われる」とは、イザヤ49章18節での「わたしは生きているー主 (ヤハウェ) のことば」からの引用です。

そこでの文脈は、イスラエルの民が「主 (ヤハウェ) は私を見捨てた」(49:14) と嘆いていることに対して、イスラエルの子らがシオンに集められてその場所は狭すぎると言われるほどに増やされるという約束です (49:19、20)。それは生ける神がご自身の民イスラエルを回復してくださるからです。

一方、「すべての膝は、わたしに向かってかがめられることになる……」とは、イザヤ45章23節からの引用で、その文脈は「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」(同45:22) という異邦人に対する招きです。

そこで主は「わたしは自分にかけて誓う」と言いながら、「すべての舌」が「ただ主 (ヤハウェ) にだけ、正義と力がある」と告白するような異邦人の救いを実現するという約束です (49:23、24)。

そこでは同時に「主に向かっていきり立つ者はみな、恥を見る」(45:24) という警告も記されます。つまり、そこでは「地の果てのすべての者」を招こうとする主 (ヤハウェ) の救いのご計画をどのように見るかという姿勢が問われると記されているのです。それはユダヤ人が食物律法を異邦人に当てはめることで、実質的に異邦人を神の民の枠から排除しようとすることに対する「さばき」が警告されているのです。

そして、「私たちはそれぞれ、自分について、神に申し開きをすることになります」(14:20) という警告は、イスラエルと異邦人それぞれに対する主の救いのご計画に対して、私たちがどのように反応したかが問われるということを意味します。

私たちは「口においてイエスを主と告白し」「心において神はこの方を死者の中からよみがえらせた」と信じることで「救われる」と約束されていました (10:9)。

その神の救いのみわざに対して、食べ物のことや特定の日を守るかどうかということで、その救いのご計画を台無しにすることがあるとするなら、それは神を敵に回すことになると言われているのです。

パウロはコリント教会の人々が「私はパウロにつく」「私はアポロに」などといってキリストのからだを分裂させてしまっていることを非難し、「あなたがたは、自分(たち)が神の宮であり、神の御霊が自分(たち)のうちに住んでいることを知らないのですか。もしだれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです」(Ⅰコリント3:16、17) と記しています。

そこでも神の教会を分裂させる者が神によって滅ぼされると厳しく警告されています。私たちはイエスを救い主と信じ告白することで神の前に義と認められ、最後のさばきから「救われ」ますが、神の救いのご計画を邪魔するなら、救いを失うということも忘れてはなりません。

ユダヤ人と異邦人がともに信仰の家族となることこそ新約の福音の核心です。それを現代に適用するなら、教会の多様性こそがキリストにあるいのちの豊かさを証しするという意味です。

この教会の開拓が始まったころ「信仰の弱い者を受け入れる」ことを理念としていましたが、そこに若干の誤解があったことを反省しています。自分を含め「強い」と見える人の中にある「弱さ」を見過ごしていたため、中心となる核がないままに多様性を急ぎ、「強い」と見える人たちが行き詰まってしまいました。

順番が大切です。真の意味で互いの隠された弱さを受け入れることで初めて、弱い立場の人を受け入れる力が生まれるからです。