カトリックのローマ教皇に1955年米国シカゴ生まれの方が選ばれたことが大きな話題になっています。僕より2歳若い人が教皇になりました。
彼はご自分の教皇名をレオ14世と名乗りました。
レオとはライオンという意味で、ナルニア国物語のアスランをイメージするかもしれません。とにかく平和を創造するために戦う、貧困と戦う、不正と戦うなどの意味が込められているのかもしれません。
レオを名乗る教皇レオ1世は 紀元440年~461年在位の方で、西ローマ帝国が北のフン族、ヴァンダル族がローマを攻めて来たときに、同時の西ローマ皇帝が怯えてなにもできないような中で、自ら異教徒の支配者と対面で向き合い、二度にわたって彼らの撤退を実現した勇猛で温和な指導者です。
また当時の教会がキリストの神性と人性の関係で神学的な議論が分かれたとき451年のカルケドンの公会議で正統信仰を確立した指導者でもあります。
またレオ13世は1903年まで25年間在位して93年で天に召されるまで、当時の共産主義のイデオロギーと対峙しながら、同時に世界の貧困の問題と戦い続けた有能な指導者です。
とにかくレオという名には 健全な意味での戦う指導者のイメージがあります。
レオ14世は今回、最初に自分をアウグスティヌス修道会の出身であることを明確に語りました。たまたま先日も今度のメッセージでもアウグスティヌスのことを話題にします。彼こそは西方教会の神学的土台を建て上げた大神学者で、初代のレオ1世にも大きな影響を与えています。
マルティン・ルターは レオ10世がサンピエトロ大聖堂の借金返済のために免罪符の発行を認めたことに反発して宗教改革を行いました。ですからレオの名を持つ教皇にも問題児がいます。
ただ、ルターは今回のレオ14世と同じアウグスティヌス修道会の出身です。
また、米国のバンス副大統領は、アウグスティヌスの著作に感心してカトリックに改宗しました。
そのような興味深いつながりがあることを思いました。
20年間もペルーで素晴らしい働きをして、何か国語も話し、バランス感覚を大切にされる方です。彼は教皇レオ1世、レオ13世を心から尊敬しながらレオ14世を名乗ったことは確かです。
彼がカトリック教会を健全に導くことができるようにともにお祈りしたいと思います。
詩篇45篇は王の詩篇と呼ばれ、神がこの世の王を祝福する歌です。
詩篇45篇1–9節「あなたの王座は限りなく」
この詩の標題の最後には「愛の歌」と記され、1節では著者が「王」のためにこの歌を作ったと、その背景が説明され、9節では「王妃はオフィルの金を身に着けて、あなたの右に立つ」と記されていることから、「王の結婚式」の歌とも呼ばれます。
ただ、不思議にもヘブル人への手紙1章8、9節においては、この詩の6、7節が引用されながら、御子が神の栄光に輝き、御使いたちよりもさらにすぐれた、御使いにとっての礼拝の対象であることの証拠として引用されます。
つまり、この歌は、直接的には、王の結婚式のために作られたものでありながら、ダビデの子としての救い主のご支配を預言したものとして、初代教会の人々には理解されていたのです。
そして、この歌が神への不満を祈った44篇に続くものとして配列されていることは興味深いことです。「神よ、どうして……」と祈った後に、理想的な王の出現が歌われているからです。
2–5節には、王の「麗しさ」「尊厳」「義の勝利」が歌われています。そして5節の「国々の民はあなたのもとに倒れ、王の敵は気を失う」という表現は、先の詩篇44篇10–14節で、神の民が敵からかすめ奪われ、食い物にされ、物笑いの種とされていると描かれていることと驚くほど対照的です。
イスラエルの民がそのような悲劇にあったのは、何よりも、ダビデに続く王たちが、神によって立てられた王としての自覚に生きていなかったからです。
その意味で、詩篇45篇は、イスラエルの民が苦難の中で、本来の王の姿に憧れながら歌われたもので、その意味で、真のダビデの子としてのキリスト預言として理解されるのは、極めてこの詩篇の文脈に合っていると言えましょう。
6節の「神よ」という呼びかけは、「王」に向けてのものと思われます。なぜなら、7節では、「神よ、あなたの神は喜びの油を……あなたに注がれた」と、王が「神」と呼ばれ、その王の神が、王に油を注いだと記されているからです。
イエスご自身も、聖書が「神のことばを受けた人々を、神々と呼んだ」と言っておられます (ヨハネ10:35)。なお「神」も「神々」もヘブル語にするとエロヒームという全く同じ単語になります。
6節では「あなたの王座は世々限りなく」と歌われますが、これはダビデが神の住まいとしての神殿を建てると申し出たときに、反対に、神ご自身がダビデのために「一つの家を造る……あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(Ⅱサムエル7:11、16) と約束してくださったことを思い起こさせます。
そして、ここでダビデの王座の支配が「公正の杖」と呼ばれるのは、詩篇2篇9節で、「あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き」とあるように王の力ある支配を意味します。そのことが7節では、「あなたは義を愛し、悪を憎んだ」と記されます。そして「救い主」このような理想的な王として登場されたのです。
8–15節には喜びと栄華に満ちた結婚式の情景が描かれます。それは黙示録19章6–9節では、「小羊の婚宴」として実現すると約束されています。そこでは、「われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう……花嫁は、光輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである」と記されています。
これこそ、すべてのクリスチャンに約束された栄光のゴールです。
【祈り】主よ、私たちの救い主イエスが、ダビデの子として現れ、愛の支配をこの地に実現してくださる王であることを感謝します。私たちをその支配の完成のためにお用いください。