ドイツでようやく新政権がようやく5月6日に発足しました。キリスト教民主社会同盟のメルツ氏が、社会民主党との連立政権を樹立できました。日本から見たら信じがたいほどのゆっくりとした動きです。
昨年の11月初めに社会民主党中心の連立政権が瓦解しました。市場経済を重視する連立の自由民主党が増税政策に反旗を翻したからです。
その流れで12月17日に社会民主党のショルツ政権が不信任を受けましたが、総選挙が行われたのは2月23日でした。
それによって第一党に立ったのはキリスト教民主、社会同盟でした。
驚きだったのは不法移民の国外退去を、脱原発政策の修正などを訴える右翼政党と呼ばれている「ドイツのための選択肢」が、20%を超える得票を集め、社会民主党を抑えて第二政党となったことです。
政党のリーダーは熱いパッションで分かりやすい話ができる女性党首です。米国のイーロンマスク氏が応援しているということで話題になりました。
この政党は決してナチスのヒットラーを思い起こさせるような政党ではありませんが、ドイツのインテリ階層は過去への反省から、右翼的な民族主義政権を嫌います。ですから、他の政党はこの政党との協力を拒否せざるを得ません。
今回のメルツ氏が、一回目の投票で首相に選ばれずに、二回目の投票が必要になったという前代未聞の事態は、この右翼政党との対決姿勢が不明確であったからとも言われます。
どちらにしても、これによって、キリスト教民主、社会同盟が政権を取るためには、自分たちがさんざん批判してきた社会民主党と手を組まざるを得なくなりました。
メルツ氏は社会民主党のショルツ政権を批判してきたときの第一の課題は、その増税政策でしたが、国際情勢の変化とともに、軍備拡張、増税政策に動かざるを得なくなりました。
それもメルツ氏の変節として批判されてきました
2月23日に総選挙が行われ、新政権が5月6日にできるまで2カ月半近くもかかるというのは日本の常識では考えられません。しかも、昨年11月の連立政権瓦解から半年も経っています。
今回の連立協議は過去の経緯からほんとうに時間をかける必要があったのですが、それだけ調整しても首相選出の議会選挙では両党合わせた議員数328議席のうち一回目は310票、二回目でも325票と予想外の造反が起きました。そのため今後の政権の不安定さが懸念されています。
ただ、ドイツの政治は、このようにゆっくりと動くだけに、日本からみたらずっと安定的に政権が保たれます。キリスト教民主社会同盟のメルケル政権は16年続きましたし、その後生まれた不安定だった社会民主党のショルツ政権も三年半続きました。ですから、今後のヨーロッパ全体の安定化のためにメルツ政権はそれなりに期待できると思われます。
今後に注目すべきは右翼政党と言われる「ドイツのための選択肢」という政党がどれだけインテリ層から受け入れられるようになるかということと思われます。
環境保護しか訴えないと見られた「緑の党」も長い時間をかけて、ドイツ国民全体からそれなりに受け入れられ、連立政権を組めるようになって行きました。
今日ご紹介する詩篇44篇には、いつも生きて働いておられる創造主に向かって「起きてください。主よ。」と、失礼とも思える訴えが記されています。
長い目で見る信仰生活にはそのように祈りたくなるときもありますが、それでも諦めずに創造主に訴え続けることができるというのは何とも微笑ましいと言えるかもしれません。
詩篇44篇20–26節「起きてください。主よ。」
ある人がユダヤ人のラビに、「アウシュビッツを経験した後で、なぜあなたは神を信じることができるのですか」と聞いたところ、ラビは長い沈黙の後、聞き取れないほど小さな声で、「アウシュビッツを経験した後で、なぜあなたは神を信じないでいられるのですか」と反対に聞いたとのことです。
それこそ祈りの神秘です。この詩の著者は最初に、先祖の時代には神が圧倒的な救いのみわざを示してくださったことを思い起こしながらも、今は、神ご自身が自分たちを苦しめていると訴え、「あなたは私たちを拒み、卑しめました……私たちを食用の羊のようにし、国々の中に私たちを散らされました。あなたはご自分の民を安値で売り、その代価で何の得もなさいませんでした」(9–12節) と、神を責めるかのように表現します。
ただ、それでも、著者は、「神の名を忘れ」ることも、「ほかの神に手を指し伸ば」すことも自分たちはしなかったと告白します (20節)。
著者はその上で、神に従うことの苦しみを、「だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています」と表現します。
使徒パウロはそれを引用しながら、「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです」と記しています (ローマ8:3、36)。
そしてこの詩では、それに続いて、「起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。いつまでも拒まないでください」と、神がご自身の御顔を隠し、「私たちの悩みとしいたげを」忘れておられることに抗議しています。
私は、昔、遠藤周作の「沈黙」という小説に不安を掻き立てられました。そこには江戸時代初期、巧妙な迫害に耐えられなくなって自分の信仰を否認した宣教師の姿が描かれています。
しかし、そのような神の沈黙に抗議する祈りがここには記されているのです。多くの人々は、パウロのような偉大な信仰者は、苦しみのただ中でも、「ハレルヤ!」と神を賛美し続けていたと思うでしょうが、実際は、「起きてください。主よ……いつまでも拒まないでください」と、泣きながら神に訴えていたのではないでしょうか。
しかし、そこには不思議な展開が見られます。パウロは先の手紙ではその直後に、「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者とされています」と告白しているからです (ローマ8:37下線部私訳)。
これは、既にパウロが体験していた霊的な事実です。なぜなら、苦しみのただ中で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ十字架のイエス (マタイ27:46) を身近に感じることができた者は、死に打ち勝った復活のイエスとも一体とされていることを確信できるからです。
神の沈黙に直面することは、神の民にとっての常とさえ言えるかもしれません。しかし、私たちはそこで、「起きてください。主よ」と自分の気持ちを正直に訴えることが許されています。
そして、それが霊感された祈りであるからこそ、そこでキリストの十字架と復活にある勝利を確信できるのです。
【祈り】主よ。あなたが私たちの悩みを受け入れ、それを祈りに変えてくださる方であることを感謝します。どうか私たちの心の底の不信感を、信頼へと変えてください。