最近、また恐ろしいストーカー殺人事件が話題になっております。残念ながらそこで、警察の対応のまずさが話題にされています。
一方で、今も、ストーカーから身を隠している方が、意外に身近にいるかもしれません。それを話題にすることで、居場所が特定されるかもしれないということで、ストーカー被害自体を話題にしにくいという現実もあるようです。
しかし、日本の警察組織は、世界標準からしたら本当に信頼できます。ストーカー規制法によって守られてきた方々も数多くおられるようです。しかし、上記のような理由で、それはあまり話題にできません。
証拠をきちんと提示して相談に行くと、丁寧に対応していただけたという話しも聞いています。またシェルターに隠していただけたという話しも聞きます。
シェルターに保護していただいた場合は、自分ですら居場所が分からないほどに保護していただけるとのことです
警察には民事不介入の原則がありますから、痴話げんかによるDVと見られた場合に、介入が難しいということもあるようです。しかし周りの人の助けを得て証拠を提示すると、いろんな保護を受ける道が開かれているようです。
残念ながら、ストーカーに及ぶ人は、しばしばセルフイメージが低く、恋愛の対象を失うことが自分の存在価値そのものが完全に否定されることにつながります。
ですから相手を殺すことを躊躇しないというところまで心理的に追い詰められている場合もあるようです。彼ら自体にも相談相手が必要ですが、多くの場合は孤立しています。
ですから、ストーカーの事例は、それが殺人にまで及ぶ可能性は意外に高いということを、みなが理解し合って助け合う必要があります。
詩篇43篇は、自分が不当な攻撃や批判を受けているときに味わうべき祈りです。
詩篇43篇「神よ、私のためにさばいてください」
この詩は、先の42篇と明らかにセットになっています。ここで著者は、まず最初に、まわりの現実に再び目を向けながら、「神よ、私のためにさばいてください」(1節) と必死に祈ります。
聖書の中では、「さばき」ということばはしばしば、神の敵、また信仰者の敵に対して用いられていますが、ここでも「私の訴えを取り上げ……欺きと不正の人から私を助け出してください」と訴えています。
そして、「あなたこそ、私の神、私の隠れ場です」(2節私訳) と告白されます。聖書の神こそが、真のシェルターになってくださるというのです。
しかしながら、一方で、そこで再び「なぜ……私を拒まれたのですか」と自分の絶望感を訴え続けています。信頼の告白と不安を訴える気持ちは表裏一体です。
しかもそれはイエスが十字架上で感じておられたお気持ちでもあります (マタイ27:45、46) 。また、それは自分が敵の前にいかに無力なものであるかを謙遜に認めることです。
ですから著者は続いて、「あなたの光と、あなたのまことを遣わしてください」(3節) と願いました。私たちにとっては、イエスこそ、「光」であり、「まこと」です。そしてこれは、イエスと同じ助け主である聖霊が遣わされるようにとの祈りでもあります。
何と多くの人々が、表面的な笑顔の奥底に、底知れぬ絶望感を抱えながら生きていることでしょう。その意味で、自分の無力さを真正面から受け止め、絶望感を深く味わいながら、主に必死に叫ぶことこそ、いのちの始まりです。
それこそ、サタンの敗北、神の勝利なのです。私たちの真の敵は、人間ではなくサタンです。十字架はサタンの勝利と見えましたが、復活ですべてが逆転しました。この地に見えるのは、サタンの最後の悪あがきに過ぎません。神の正義の実現は目前です。
作者は、神の「光」と「まこと」によって、神の神殿に戻され、喜びと感謝に満ちて礼拝することを願います (3、4節)。同様に、私たちにとっての真の希望は天のエルサレムです。
私たちはこの地にいる限り、旅人であり寄留者として、神との交わりへの「渇き」を持ちつづけます。しかし、神の御顔を直接に仰ぎ見るという「救い」は、既に保証されています。
ですから、偽りの「新しい時代」(ニューエイジ)、「うお座」に続く「水瓶座の時代」が提供する霊的な恍惚感に惑わされる必要はありません。「渇き」を覚えたまま「絶望」を味わうことが祈りの始まりであれば良いのです。
しかも、神が造られたこの世界に関心を持ち、人の痛みに耳を傾け、ともに「うめく」ことから「愛」が始まります。
ローマ人への手紙8章22–26節には、「被造物」、「私たちの心」、「御霊」による「うめき」の三重奏とも言える状態が描かれていますが、それは、世界に愛が広がり、世界に平和が実現するという過程でもあります。
私たちは、矛盾に満ちた地に遣わされるのですから、ときに落ち込み、絶望感を味わうことがあるのは当然です。しかし、それに呑み込まれて、自己憐憫や被害者意識の中に閉じこもる必要はありません。
自分の気持ちを優しく受けとめつつ、「なぜ、……うなだれているのか」と、自分のたましいに語りかけ、その気持ちを神にゆだねることができます。イエスご自身がこの詩篇を生きてくださいました。私たちもその御跡に従います。暗闇は、光を輝かせる舞台に過ぎないのです。
【祈り】主よ、私たちは世界の不条理を見ながら、それに怒り、同時に無力感を覚えることがあります。そのようなときに、あなたの「さばき」を求められることを感謝します。