この前の月曜日は久しぶりに自由な時間ができたので、古本屋で1980年にリリースされたユーミンのレコードを買って(何と600円で伝統的なLPが手に入る)、そのあと米国の副大統領のバンスさんが2016年に記したヒルビリー・エレジーをキンドルで読みました(ヒルビリーとは米国の東側の炭鉱地帯アパラチア山脈を中心とした地域に住む白人労働者階級を「田舎者」と軽蔑するように呼んだスラングで、エレジーとは 哀歌と訳すことができます。
1980年のユーミンのメロディーを楽しみながら、その四年後の1984年にヒルビリーで生まれたバンスさんの自叙伝を読んで、何か、百年前のアメリカにタイムスリップしたような気持ちを味わいました。
米国の大都市のカルチャーに反感を持ちながら、アイルランド移民の方々が、伝統的な大家族主義を保ちながら、貧しさの中で手を携え、家族を侮辱する者たちには暴力で立ち向かう姿です。
しかし、そこにはアルコール依存、薬物依存の問題があり、歪んだ劣等感がすぐに暴力にあらわれて、家庭を壊し続ける悲惨と、そこから虐待化で生まれ育った人の生き難さの問題が現れます。
僕は以前、この本について聞いたときに、米国の経済発展から取り残された白人労働者の被害者意識のようなものが書いてあると勝手に思い込んでいました。
でも、僕のこのような発信を喜んでくれている大学の友人から、実際の本を読んでいないことを呆れられてしまい、早速読むことにしました。
簡潔に言いますが、この本は、本当に本当に読む価値があります。バンスさんは自分の出生の悲惨さを描きながら、母の薬物中毒で苦しめられながら母を愛していますし、その家族も本当に心から愛しています。
しかしその本の最後では、「自分の中の怪物との戦い」という章があり、そこでは自分が幼児体験の中で培ってしまった、逃走、闘争本能の問題も描いています。彼は自分の内面の問題を赤裸々に描きながら、同時に、そのような問題に向き合うのを助けてくれた法科大学院の同窓生ウシャとの結婚への感謝も描いています。
彼の中には家族や共同体を大切にしたいという熱い思いがあります。彼はこの本を記して間もなくカトリックに改宗しますが、そこににはプロテスタント信仰における過度の個人主義化への警戒感があります。
彼は先日の説教で僕が引用した4世紀のカトリックの聖人アウグスティヌスを尊敬していますが、それも信仰と知性が矛盾しないことと伝統的な価値観を大切にしたいと思いとセットになっています。
先日のゼレンスキー大統領との口論のきっかけを作ったことでバンスさんの品のなさとか攻撃的な言動が問題にされますが、少なくとも彼は自分の中の怪物との戦いが必要だということを公表し、自分には神の助けが必要であるということを、その後のカトリックへの回心を通して明らかにしています。
私たちはバンスさんの心の内側にある純粋な思いをこの本を通して知ることができます。
詩篇41篇はダビデが友人から裏切られ、また不当な非難に耐えているときの歌です。バンスさんが生まれの悪さをバカにされながら、自分の中にある怪物に真剣に向き合い、同時に、アイルランド移民の中で大切にされている家族や共同体を守るような改革を目指しているという原点を以下の詩篇に見ることができます。
詩篇41篇1–13節「弱った者に心を配る幸い」
この詩は4節から9節にダビデの苦悩の中での「うめき」が記されながら、最初と最後で主への賛美と、信頼が歌われています。苦難の中にも確かな望みがあります。
1、2節は私たちがそのまま暗唱すべきことばです。多くの人々が生きがいを求めていますが、それは単純に、「弱っている者に心を配る」ことから生まれます。そのような人を主は「見守り……生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる」と約束されています。
ただ、同時に、そのようにあわれみに生きる人を、「病の床」においても、主は「ささえ」てくださると言われます。3節の後半は、「嘆願」ではなく、「彼が病むときにも、あなたは全くいやしてくださいます」という約束として解釈するのが一般的です。
4節は、「私は」ということばが強調されながら、語ったことばが、「主 (ヤハウェ) よ、あわれんでください……私はあなたに罪を犯しかからです」と、主の御前にへりくだって、すがる祈りが記されています。
それは、「私の敵」が私を「見舞いに来た」ふりをしながら、外では「悪口」を「言いふら」しているからです (5、6節)。そればかりか、「私を憎む者」は、私の死を喜び期待するようなうわさ話をしています (7、8節)。
9節の「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとをあげた」という表現は、裏切られることの痛みを率直に描いたものです。
ヨハネによる福音書13章18節では、イエスは最後の晩餐の席で、このみことばを引用しながら、ユダの裏切りが、聖書の「成就」であると言われます。ただそれは、ユダの裏切りが、神によって動かされたものであるというような意味ではなく、それは聖書に記された人間の罪深さの現われであり、起こるべくして起きたことと受け止めるという意味です。
10節は「親しい友」の裏切りに悲しみながらも、「しかし、あなたは、主 (ヤハウェ) よ」と呼びかけながら、「あわれんでください」と、視点を変えて、訴える姿勢です。悲惨を嘆く代わりに、主の助けに期待するように変わっています。続く言葉は、「そうすれば私は、彼らに思い知らせることができます」と訳した方が良いでしょう。
新改訳での「仕返す」という動詞の語源は、シャローム(平和)と同じことばで、「帳尻を合わせる」というようなニュアンスであり、具体的な復讐の行為をすることではないからです。
その結果が、「このことによって……私の敵が私に勝鬨をあげない」(11節) と記されます。そして、12節の原文は、4節と同じように「私」ということばの強調から始まり、「誠実を尽くしている」自分の姿勢に主が豊かに報いてくださるように祈っています。
イエスは、山上の説教で、弟子たちに向かって、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから」(マタイ5:7) と言われましたが、それこそこの詩の要約とも言えましょう。
私たちは、罪が支配するこの世の中で、病気の中で陰口をたたかれ、不幸を「いい気味だと」あざけられ、親しい友の裏切りまで体験することがあるかもしれません。
しかし、自分が体験した痛みを通して、人の痛みを理解できるようになり、その分だけ、人に優しくなることができるというのが、主のみこころです。自分が味わった痛みを、人の痛みに寄り添うための契機とする者を、主は喜んでくださいます。
【祈り】主よ、人の中傷や裏切りに痛むことがあっても、その中で、あなたに向かって祈る者とさせてください。そして、苦難を通して、人の苦難を理解させてください。