ローマ人への手紙13章8〜14節「主イエス・キリストを着なさい」

2025年4月27日

ローマ人への手紙13章8–14私訳と関連聖句

「The road to hell is paved with good intentions(ドイツ語が原典:Der Weg zur Höllen sey mit lauter gutem Vorsatz gepflastert. 地獄への道は、純粋な良い決心の数々で舗装されている)」と言われます。

私たちが自分の決断によって人生を変えることができるぐらいなら、イエスが十字架にかかることも、また復活のイエスが私たちに聖霊を送られる必要もなかったというのが正統的な信仰の原点です。

ところが、何としばしば、私たちは自分の「信仰」を自分の「意思の働き」として見てしまっていることでしょうか。

1.「他の人を愛する者は、律法を全うしているからです」

13章7節では、「すべての人に対しての責任を果たしなさい、税を納めるべき人には税を、関税を納めるべき人には関税を、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬うことによって」と命じられていましたが、それを受けて、8節は次のように訳すことができます

だれに対しても何の負い目もあってはなりません、互いに愛し合うことのほかはです。それは、他の人を愛する者は、律法を全うしているからです。

つまり、「だれに対しても何の負い目(借り)もあってはなりません」との勧めは、社会全体との関係について語っています。

ただ、この「負い目」ということばをパウロは1章14節で、「ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、私は負い目のある者です」と、福音宣教の「負い目」として用いていました。それはパウロが初代教会の信仰者を迫害してしまったことから生まれている「負い目」を指しているとも理解できます。

また8章12、13節では、「ですから、兄弟たち、私たちは負債を負っています(負い目があります)。ただ、それは肉に対するもの、肉に従って生きるというものではありません。というのは、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになっているからです。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すならば、あなたがたは生きます」と言われていましたが、ここでは暗に、「私たちは御霊に対して負債を負っています」という意味が込められていたと思われます。

ですから、ここには私たちはこの世的には誰に対しても「負い目」を感じずに、自由に生きる必要があると言われているのだと思われます。

宗教改革者マルティン・ルターは「キリスト者の自由」というトラクトで、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない」と同時に、「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕(しもべ)であって、だれにも従属している」という命題を提示しましたが、その原点がこのみことばにあります。

その上で、パウロは12章3–13節で述べていたクリスチャンの交わりを別の観点から述べるように、「互いに愛し合う」という話しに移ります。それはすべてのクリスチャンが「負い目」に感じるべきことと思われます。

しかも、「他の人を愛する」ことで「律法を全うする」という視点に目が向けられます。そして、具体的な律法が、「十のことば」の後半部分を引用しながら、13章9、10節では次のように記されます

姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。貪ってはならない(隣人のものを欲してはならない)。そして、たとえ他に何の戒めがあるとしても、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』ということばに要約されるからです。

愛は隣人に悪を働きません。それゆえ愛は律法を満たすものです。

ここでは「偽証してはならない」以外の四つの命令が登場します。なおイエスご自身も律法のまとめとして、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(マタイ22:37) という「重要な第一の戒め」(同22:38) と並行して、「『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です」と言われました (マタイ22:39)。

これはレビ記19章18節からの引用です。

後に使徒ヤコブは、「もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です」と記しているほどです (2:8)。

「十の教え」では、「してはならない」という八つの禁止命令がある中で積極的な命令は、「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」と、「あなたの父と母を敬え」との二つだけです。

「禁止命令」は、私たちの心を受け身にします。そのうちクリスチャンとして、「私たちがしてはならないことはなんでしょうか?」と怯えるようになるかもしれません。

たとえば日本の多くの伝統的な教会の中で、「高ぶってはいけない」と言われる中で、「自分の成功を自慢してはならない」から発展して、「教会の中では人を称賛してはならない」と言われ、感動的な証しや賛美を聞いても拍手してはならないと解釈されたりすることがあります。

しかし12章10節では「兄弟愛において互いに慈しみ、互いへの尊敬において導き合い」と勧められていました。つまり「尊敬競争」が奨励されているとも言えます。

「愛」を意味するギリシア語のアガペーに一番近い日本語は「尊敬」かと思われます。「神が罪人を愛した」というのが十字架の愛ですが、その「愛」とは、この世的な価値観では尊敬に値しない人を尊敬することと言えます。

イエスもパウロも、「してはならない」ということばを「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という積極命令にまとめたのです。

また、「愛は隣人に悪を働きません」と記されますが、「悪を働く」とは「してはならないことをする」といえます。ですからここでも「愛は……悪を働きません」と言われますが、隣人にしてはならない悪をいろいろ思い巡らす代わりに、隣人が何を望んでいるかを考えるのが「です。

しかもそれは自分自身の必要の自覚から始まります。ですからイエスはそれを、「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です」と言われました (マタイ7:12)。

私の中には不安や寂しさや自己不全感がいつもあります。その気持ちを窓として、目の前の人のその気持ちに気づき、寄り添うことが求められます。

そして目の前の人の働きをともに喜び、同時に、目の前の人の悲しみに気持ちを合わせます。それが「喜んでいる者たちとともに喜びなさい、泣いてる者たちとともに泣きなさい」(12:15) と記されます。

これらをまとめて「それゆえ愛は律法を満たすものです」と言われます。「律法の要求」というよりは「律法を満たすもの」と記されています。

イエスはご自身の来臨の意味を、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」(マタイ5:17) と言われました。

そこでの「成就する」とは「満たすもの」の動詞形です。ですから、このことばは「キリストは律法を満たす方です。そのキリストがあなたのうちに生きてくださるのです」とも言えます。

アガペーの愛は自分の心の中に沸き起こる恋愛感情とか友情ではなく、罪人を愛するキリストの愛に倣う思いです。そこには他の人の存在自体を自分と同じように大切にするという思いがあります。

それが「互いに愛し合う」という「負い目」ともいえます。またそれは同時に、肉ではなく、御霊に対する「負い目」から生まれる思いです。

2.「夜は深まりました。そして、昼が近づきました」

13章11、12節は次のように訳されます

さらにあなたがたはこの時(カイロス:好機)のことを知っています、それはあなたがたがすでに眠りから覚めるべき時刻 (a point of time) です。それは今、私たちのための救いが、私たちが信じた頃よりも近くにあるからです。

夜は深まりました。そして、昼が近づきました。ですから、闇のわざを脱ぎ捨てようではありませんか。光の武具を身に着けようではありませんか。

最初に記される「この時」とは原文で「カイロス」という神が定めた特別な時、「好機」を意味します。それは、キリストが死者の中からよみがえって、神の新しい時代が実現しているという意味です。

そしてそれは私たちが「眠りから覚めるべき時刻」でもあるというのです。その意味は私たちの「救い」が近づいていることを意味します。これは8章23節で御霊の初穂を受けている私たち自身も自分の中でうめいています、子(息子)とされる(の立場とされる)こと、すなわち私たちの身体が贖われることを待ち望みながら」と語ったことを思い起こさせます。

それに続けてパウロは、「それは、望みにおいて私たちは救われたからです」と記していました。つまり、最終的な「救い」とは、キリストの再臨によって私たちが栄光の復活にあずかることを指しているのですが、それがすでに保障されているという意味で救い」が私たちにとって身近な現実となっているのです。

聖書は「救い」をこの世の苦しみから自由にされて天国に安らぐことというより、「死者の復活」(Ⅰコリント15:12、20) の視点から見ており、キリストの復活はその「初穂」です。

「死」は私たちのたましいの「眠り」のときと見られますが、「復活」は私たちの「目覚め」のときなので、それを先取りするのです。

また「それは今、私たちのための救いが、私たちが信じた頃よりも近くにあるからです」とは、単純に、時の流れに従って、自分たちが信じたときよりも、キリストの再臨のときが迫っているという意味とも理解できます。

ただ同時に「近くにある」ということばは、「身近に迫っている現実」とも解釈できます。これは、信仰生活が進むに連れて、イエスを身近に感じ、キリストにある「救い」を今、ここで目の前に実現していることとしても体験できることを指すとも言えます。

それは「神の恵みを無駄に受けないようにしなさい……見よ、今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント6:1、2) と言われる通りです。これは時間を超えた感覚です。

さらに「夜は深まりました」と一つの文章で記され、「そして、昼が近づきました」と言われます。これは迫害やその他のサタンの策略によって世の中がどんどん悪くなっているように見えることを、同時に「昼が近づいた」ことのしるしと見るという逆説を意味します。

つまり、時代が暗くなることに恐怖を感じるのではなく、それも神の御支配の中にあることを信じ、「昼」または「光」の時代が近づいていると理解するのです。

そこで「闇のわざを脱ぎ捨てようではありませんか、光の武具を身に着けようではありませんか」という互いに励まし合う二つの文章が記されます。

「光の武具」に関してはエペソ6章11節で、「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい」と命じられ、「真理の帯」「正義の胸当て」「足には平和の福音への備え」「信仰の盾」「救いのかぶと」「御霊の剣、すなわち神のことば」が記されました (同6:14–17)。

これは12章1、2節において、「私はあなたがたに勧めます、兄弟たちよ、神のあわれみを通してですが。あなたがたのからだを献げなさい、神に喜ばれる聖なる生きたささげ物として。 それこそがあなたがたにとって理にかなった礼拝です。この時代に同調してはなりません。 むしろ、心を新たにすることで自分を変えていただきなさい」と命じられていたことに対応する勧めです。

一方で、「あなたがたがすでに眠りから覚めるべき時刻です」に関して、イエスご自身も「ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから……泥棒が夜の何時に来るのかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょう……ですからあなたがたも用心していなさい。人の子が思いがけない時に来るのです」(マタイ22:42–44) と言われました。

これは「目を覚ましていない」ことによって救い」にあずかる機会を失う可能性をも指しています。

ただしパウロは私たちに関しては、「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもとして歩みなさい」(エペソ5:8) と勧めます。

そこでは「光になりなさい」と命じられてるのではなく、すでに「光となっている」のだから、「光の子ども」としての誇りを持って「歩みなさい」と言われているのです。

3.「むしろ、主イエス・キリストを着なさい」

13章13、14節は次のように記されます

ですから、昼にふさわしい歩み方(昼らしい、品位ある生き方)をしようではありませんか。遊興や酩酊ではなく、また、淫乱や好色でもなく、争いやねたみでもない生き方を。むしろ、主イエス・キリストを着なさい。そして欲望を満たそうなどと、肉の計らいをしてはなりません。

ここでは不思議に「昼にふさわしい歩み方(品位ある生き方)」を描く代わりに、「遊興や酩酊ではなく、また、淫乱や好色でもなく、争いやねたみでもない生き方」と言われます。ここには三つのペアーで、六つの罪にまみれた生き方が描かれています。

これは6章13節で「あなたがたの肢体(五体、手足)を不義の道具として罪(単数形)に献げてはいけません。むしろ自身を、死者の中から生かされた者として、神に献げなさい。またその肢体を義の道具として」とあったことを思い起こさせます。

「自分の肢体を義の道具として神に献げなさい」との命令の先を行くように、「むしろ、主イエス・キリストを着なさい」と言い換えられます。

ただし、これは何か難しい生き方ではなく、ガラテヤ3章27、28節では、「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリストにあって一つだからです」と記されていたバプテスマの恵みを思い起こさせます。

これは努力目標ではなく、あなたはすでにキリストを着ているという自覚のうちに、自分の中に既に「新しい創造」が始まっていることを覚えながら、その誇りのうちに生きることの勧めです。

そしてそれはコロサイ人への手紙3章9、10節では、「あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって、新しくされ続け、真の知識に至ります」と約束されています。

これも努力目標ではなく、自分の中にそのような聖霊による「新しい創造」の働きが始まっていることを認めるようにという勧めです。

そしてそれに続けて、私たちが日々の生活で心に留めるべきことが、もっと具体的に、「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい」(同3:12) と勧められています。

これはキリストを着ているのだから、キリストに似た生き方をするようにという勧めです。

ローマ13章13、14節が回心の決定的なみことばになった例として、教会の歴史でカトリックとプロテスタントの両陣営から深く尊敬されている4世紀のアウグスティヌス(354年~430年)がいます。彼はカトリックの聖人とされ、ルターはアウグスティヌス修道会の出身ですし、カルヴァンの著作ではアウグスティヌスの解釈が驚くほど何度も引用されます。

それほどに偉大な「教会の父」と見られる学者ですが、彼の告白録には自分自身の愚かな歩みが赤裸々に告白されています。彼の母モニカは熱心なクリスチャンで彼の回心を祈り続けていました。

彼は二十代のとき、マニ教という当時流行した善悪二元論的な宗教にはまっていましたが、30歳になってアンブロシウスという有名な司教に感化され、カトリックの教えを見直し受洗を目指すようになりました。

そのとき、彼が心の内で受けた誘惑が、古い馴染みの女どもの声として「あなたは私たちを捨てるおつもり?そうしたらもう私たちは、あなたといっしょになれなくなるのよ、永遠に。そうしたらあなたは、あのことこのことできなくなるのよ、永遠に」と聞こえてきました。

一方で、「その身を、主に投げかけなさい。心配してはいけません。安心して主に身を任せなさい。主はあなたを抱きとめて、癒してくださいますよ」という声も聞こえてきました。しかし彼の心は二つの思いの狭間で引き裂かれていました。

彼は32歳になっていたある時、そのような悩みの中で木陰に身を投げ、泣き崩れて、主に向かって、「いったい、いつまで、いつまで、あした、またあしたなのでしょう。どうして、いま、でないのでしょう。なぜ、いまこのときに、醜い私が終わらないのでしょう」と、悔恨の涙にくれて泣いていました。

すると、隣の家から、繰り返し歌うような調子で、子どもが、「とれ、よめ、とれ、よめ」と言っているように聞こえました。彼はそれまでそのような歌を聞いた覚えはありませんでした。ただその時、ふと、「これは聖書を開いて、最初に目に留まった章を読めとの神の命令に違いないと解釈した」とのことです。

そこで友人のアリピウスのそばに置いてあった使徒の書を、ひったくって、最初に目にふれた章を、黙って読みました。

そこには「宴楽と泥酔、好色と淫乱、争いと妬みを捨てよ。主イエス・キリストを着よ。肉欲を満たすことに心を向けるな」(ローマ13:13、14山田晶訳) と書いてありました。

彼はこの節を読み終わった瞬間、「いわば安心の光とでもいったものが、心の中に注ぎ込まれてきて、すべての疑いの闇は消え去ってしまったからです」と記しています。

彼はその後すぐに母モニカのところに行ってそれを打ち明けました。母は躍り上がって、凱歌を上げ、神を賛美したとのことです。それからまもなくして、彼は尊敬するアンブロシウスから洗礼を授けてもらいます。

翌年、母は天に召されますが、その前にアウグスティヌスは母と二人で天の御国を思い巡らす感動的な会話をします。その最後に母モニカは「この世での唯一の望みは、キリスト信者になったおまえを見たいということだった。神様はこの願いを十分にかなえてくださった」と心から喜びました。

アウグスティヌスの体験は固有のものです。あなたにも固有の救われ方があります。ただどちらにしても、この13章13、14節がアウグスティヌスの心の奥底に安心を与えたことは確かです。

そこでは、「遊興や酩酊、淫乱や好色、争いやねたみ」の生き方」から解放される鍵として、「むしろ、主イエス・キリストを着なさい」と命じられていました。

これは自分の意思で、誘惑を断ち切るのではなく、「主イエス・キリスト」を「身にまとう」ことによって、キリストの力によって、イエスの御力に引き寄せられるようにして、誘惑を断つことができるという意味です。

アウグスティヌス自身が、自分の意思の力では誘惑から自由になれないことを心の底から自覚し、どうにかして変わりたと思いながら、涙を流しているときに、この勧めが響いたという文脈が大切です。

彼の神学理解の核心に、神の一方的な選びあわれみがあります。回心は神のみわざなのです。そして「主イエス・キリストを着る」ということの目に見える現れとして「バプテスマ」があります。

私自身も「欲望を満たそうなどと、肉の計らいをしてはなりません」と命じられながら、相も変わらず、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(Ⅰヨハネ2:16) などに心を動かされてしまいます。

それに対して、「主イエス・キリストを着なさい」と命じられますが、それはアウグスティヌス自身がそこに「安心の光」を見出したように、それはキリストの愛に包まれて、聖霊のみわざによって始まる「品位ある生き方」です。

サタンは繰り返し、「おまえは何も変わっていないではないか……」と、キリストが始めてくださった「新しい創造」を見させないようにします。

自分が意を決してやろうとしてできなかったことを数え上げるのは地獄への道です。そうではなく、あなたの中に始まっている小さな変化に目を留め、それを感謝することが主にある歩みです。