詩篇39篇〜フランシスコ教皇の召天―教皇選挙

 ローマカトリック教会の教皇フランススコが天に召されました。このところ病弱が伝えられている中で、20日のイースターには公の場に姿を現し、世界のための祝福を祈ってくださいました。
 たぶん、医者の勧めを制して、キリストの復活を祝うイースターにはどうしてもみんなの前に姿を現したいと願っていたのでしょう。
 カトリックの信者数は世界で13.4億人もいると言われ、世界人口の17.7%を占めます。教皇から移民政策を批判されていたトランプ大統領もすぐに葬儀に参加するという意思を示しています。その影響力の大きさを示しています。

 昨日は、このようなことが起きているとも知らずに、映画「教皇選挙(コンクラーベ)」を見ていました。改めてローマカトリックの世界的な広がりと多様性に目を向けていました。
 私たちはカトリックの保守的な教理をよく耳にします。そこでは結婚が教会の秘跡とされています。ですから、本来、同姓婚を祝福するなどということは教会の教理を揺るがす大スキャンダルとも言えます。また教会の教えに反して離婚された方をミサに参列させるなど、たぶん教会組織内部ではそのダブルスタンダードを批判する声が保守派から強く出ていたことと思います。
 カトリック教会の中には、私たちが想像できないほどの幅広い教えがあります。それを標準的なカトリック教理のもとにまとめるというのは、想像を絶する困難があったことと思います。
 
 私たちプロテスタント陣営は、聖書さえあればどこでも教会の交わりを生み出せるような柔軟性がありますが、カトリックではローマ教皇はイエスご自身から直接に牧会の権威が委ねられたペテロの後継者ということになっており、各地のカトリック教会の司祭は、ローマ教皇の代理としてミサを執り行っています。

 ですから、ローマ教皇の言動とカトリックの教理が矛盾するなどということはあってはならないはずですが、フランシスコ教皇は、組織的な秩序や一貫性を超えて、目の前の一人の人のたましいの葛藤に寄り添い続けておられました。
 あまりにもレベルが違うので、比べることなどできませんが、その葛藤は少しは分かる気がします。
 教皇選挙はまさに、そのようなカトリック教会内にある様々な意見が衝突する場です。コンクラーベとは、その会議の場を外から完全に遮断するという意味があるようにですが、ある人がそれを揶揄って、「根比べ(コンクラベ)」の場と呼びました。
 約140名の世界中から集まった枢機卿が今後のカトリックのあり方を真剣に話し合う間でもあります。その三分の二の枢機卿が賛成する後継者が選ばれるというのは、まさに世界中のキリスト教会に影響を及ぼすこととも言えましょう。同意が得られまで数週間から数カ月もかかったことがあったようです。
 映画では、保守派とリベラルの対立が激しさを増し、最後に、だれも知らなかった周辺国で貧者に仕えていた、生物学的な性分化疾患に悩んでこられた枢機卿が教皇に選ばれるというどんでん返しが描かれていました。
 
 詩篇39篇は、ダビデの極めて個人的な祈りです。私たちはついスタンダードな教理が何かということに目が向かいがちですが、そのような枠を超えた極めて個人的な祈りがここに記されています。信仰の核心は、極めて個人的な祈りから始まるものです。

詩篇39篇1–13節「私の望み、それはあなたです」

 この詩には何の背景も記されていませんので、解釈が非常に困難ですが、10、11節を見ると、著者ダビデは、神からの懲らしめを受け、非常に困惑しています。しかも、その原因は、彼自身の「そむきの罪(ペシャー)」(8節) があったと自覚しています。
 1節の訳は困難ですが、彼は神に不平を言いたくてたまらないのですが、神を信じない者が近くにいるので、神の御名を汚す罪になることを恐れて沈黙せざるを得なかった状況を示しています。
 2節の「よいことにさえ、黙っていた」という訳は、英語のESV、NRSでは「I held my peace to no avail(平静を保とうとしても無駄だった)」と訳されていますが、その方が文脈に合っています。
 4節では突然、「お知らせください。主 (ヤハウェ) よ」(私訳)という訴えと共に、自分の終わりについて問いかけながら、再び、「私が、どんなに、はかないかを知ることができるように」と繰り返しています。
 5節では、「私の日を手幅ほどに」短くされたのは、神ご自身のみわざであると訴えながら、同時に、すべての人に適用できる現実として、「まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです」と告白されます。

 6節の最後は、「だれがそれを集めて自分のものにするのかを知りません」という意味です。伝道者の書5章11–14節では、「財産が増えると、それを消費する人も増える。持ち主はそれを目で見る以外、何の得もない……富む者は満腹しても、眠りを妨げられる……蓄えられた富が、その所有者に害をもたらす。その富は不幸な仕事によって失われ、息子が生まれても、その手に何もない」と記されています(「正しすぎてはならない―伝道者の書の翻訳と解説」からの訳)。

 ダビデはイスラエル王国を安定させた途端、高慢になって罪を犯し、それが子供たちの罪につながり、彼も一時、エルサレムから逃げ出さざるを得なくなりました。その子のソロモンも上記のような真理を分かっていながら、高慢になって民を苦しめ、後の王国分裂の原因を作りました。
 私たちはこの世的な成功の下に隠れている罠にいつも目を見張る必要があります。ダビデは、神の懲らしめを受けた結果として、「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」(7節) という心からの告白が生まれました。ダビデは、神ご自身との交わり自体を喜んでいるのです。

 ただ、彼にとって、今の状況は、あまりにも苦しいものなので、この詩の終わりにかけて、なお大胆に神の救いを求めて、必死に祈っています。
 そこでは、神に対する不平のようなことばではなく、子供のような気持ちで、「助け出してください」、「愚か者のそしりとしないでください」(8節)、「あなたのむちを私から取り除いてください」(10節)、「私の祈りを聞いてください……叫びを耳に入れてください……黙っていないでください」(12節) と、泣きすがっています。
 ダビデは苦しみのただ中で、神の永遠のご支配の現実と自分の人生のむなしさを知りました。ただそこで、自分で自分を納得させようとするのではなく、必死になお、主にすがっています。これこそ神との対話です。


【祈り】主よ、この世的な成功のむなしさをお知らせくださり感謝します。しかし、私は目の前の苦難が恐ろしいです。どうか、引き続き、愛の眼差しを注いでください。