新型コロナ蔓延のただ中で、「恐怖からの解放者イエス」と題して、ヘブル人への手紙の私訳と解説の本を出版していただきましたが、今回は、326頁の本の要約を30分間でお話しさせていただきます。
もともとの本のタイトルは、「死の恐怖の奴隷状態からの解放者イエス」としたかったのですが、タイトルが長く、くどく、暗すぎると批判されました。しかし今読まれた2章14、15節に記されているように、悪魔の働きは、人々を死の恐怖の奴隷状態につなぐことです。そして、恐怖の奴隷となっている人は、そこに争いを生みだします。
一方、「恐怖からの解放者イエス」に出会っている人は、そこに愛の交わりを築くことができます。
激しい悩みを抱く人は、ときに死ぬことを自分から願ったりさえしますが、「死」は、すべてを失うことのシンボルです。私たちは死において、家族や友人と引き離され、それまで築いたもののすべてを失います。
実は、不安に駆りたてられている人は、心の底で「死」を恐れているとも言えるのではないでしょうか。
聖書では、死は「最後の敵」(Ⅰコリント15:26) と呼ばれますが、キリストの十字架とは、何よりも「死」に対する勝利でした。しかも、肉体の死に恐怖を感じない人でも、「死を腐敗のプロセス」と見ると嫌悪と恐れを抱きます。
「腐ってゆく」というのは何とも嫌なことです。肉体の腐敗や衰えを防ごうと退職後にスポーツクラブに通う人が増えていますが、キリストは私たちを、腐敗ではなく、「栄光」へと導いてくださいます。
1.「多くの子たちを栄光に導くために」
5節の「神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではない」とは驚くべき表現です。それは、今の「世」は「御使いたち」に従わせられていますが、「新しい天と新しい地」は私たちがキリストとともに王となって治めることを意味します。
そこではアダムがエデンの園を治めていたと同じように、私たちが創造的に世界を治めます。そこには働く喜びや創造的な芸術の喜びがあります。
そこで私たちは「御使いをもさばくべき者」(Ⅰコリント6:3) とあるように、御使いの上にまで引き上げられるのです。
そしてヘブル書の著者は詩篇8篇を引用して、人間が本来、この世界を治める崇高な責任を果たす存在として創造されていることを思い起こさせます。
その最初の6節で、「人とは何ものなのでしょう」という問いかけがあります。人はすべての生き物の中で、最もひ弱なものかも知れません。しかし、全宇宙の創造主である神は一人ひとりを「心に留められ」、「これを顧みて」ておられ、7節にあるように、創造の最初に、すべての人間に「栄光と誉れの冠」を授ける計画を立てておられたというのです。
それは、私たちは一人ひとりが、「神のかたち image of God」に創造されているということで、目に見えない神の、目に見える代理としてこの世界を治めるという責任が任されていたという意味です。すべての人はその責任を果たしているかどうかが、今、神から問われています。
しかしアダム以来のすべての人間は、サタンの誘惑に屈して、自分を神の競争者としてしまい、神が創造された世界を混乱に陥れてしまいした。
それでそのような悲惨を前に、イエスは、全世界の創造主であり、「万物を保っておられる」方でありながら (1:2、3)、この世界を救うために、7-9節に描かれるように、この地上での「わずかの間」、「御使いよりも……低いもの」とさせられ、私たちとまったく同じひ弱な人間の姿となられたと記されます。
そればかりか、イエスは十字架で、全人類の罪を負う罪人の代表者となってくださいました。ただし、9節に記されるように、神は、「死の苦しみ」を受けられたイエスを三日目に死人の中からよみがえらせ、彼に「栄光と誉れの冠」を与えてくださいました。
しかも、「その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです」と記されています。これは、イエスの死には、すべての人を生かす意味があるという解説です。
なお10節では、続けて神が、「万物の存在の目的であり、また原因でもある方」として描かれます。それは世界がどなたから生まれ、どなたに向かっているかを示すことであり、私たちが神に向けて創造されていることを明らかにする真理です。
その文脈の中で、「この方にとってふさわしいことであった」と宣言されながら、神は「多くの子(息子)たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたことは」と記されます。
「子たち」とは原文では、「息子たち」と記されています。これは、神が私たちを、ご自身のひとり息子であるイエスと同じように見ておられることを意味します。
しかも、神の救いには、「多くの子たちを栄光に導く」という目的があるというのです。そしてそのために「救いの創始者」であるイエスを、私たちの罪の贖いの代価として苦しむ者とされたという不思議なことが記されています。
3~4世紀にかけ、キリストが神であり創造主であることを否定する誤った教えが広がりました。それに対して、正統的な信仰を守るために戦ったのがアタナシウスです。彼の名は、一般の高校の教科書にも出てくるほどです。
彼は、「ことばの受肉」という日本語訳で80ページぐらいの文書を記しています。その中で彼は、「ことば(神の子)が人となられたのは、われわれを神とする (deify) ためである」という有名な命題を記します。それは聖書が、私たちに与えられた救いを、「欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となる」(Ⅱペテロ1:4) と描いていることを基にしています。
これは、私たちに与えられた約束です。「ことば」と呼ばれるキリストが人となり、十字架にかかってくださったのは、この私たちがイエスと同じような神のご性質を持つ者に変えられるためだというのです。ここに真実の「救い」の意味があります。
そして11節では、「聖とする方」(イエス)も、「聖とされる者たち」(私たち)も、「すべて一人(エノス)から出ています」(アダムまたは御父に由来する)と、不思議なことが記されます。これは、私たちが、このままでイエスの妹、弟とされているという神秘を表すことばです。
事実、イエスは、私たち一人ひとりをご自分の「兄弟と呼ぶことを恥とせずに」、「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げる」(12節) と言われます。これは詩篇22篇22節からの引用ですが、その冒頭のことばこそ、イエスが十字架で叫ばれた「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」です。
私たちも同じような絶望感を味わうことがあるかもしれませんが、イエスご自身が「兄」としてこの気持ちを先立って味わい、死んでよみがえり、ご自身を死の中から救い出してくださった父なる神の御名を「兄弟たちに語り告げる」というのです。
そしてイエスは今、ご自身の妹や弟である私たちの賛美リーダーとして、「会衆の中であなたを賛美しよう」と言っておられます。
私たちの礼拝とは、このイエスを死者の中からよみがえらせてくださった神が、私たちをも同じように苦しみの中から救い出し、「栄光に導いて」くださることを覚える機会です。
イエスが復活し栄光に入れられた御跡に、私たちは弟、妹として従っています。ヘブル書は詩篇22篇後半から勝利の歌を奏でます。
2.私たちと同じ「血と肉」を持つ身体となり、死の力を滅ぼしてくださった方
そして13節での、「わたしはこの方に信頼を置く」とは、イザヤ8章17節からの引用で、それは、「私は主 (ヤハウェ) を待ち望む。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を……」に続くことばです。
つまり、周りが暗闇に見え、神の御顔が隠されているように思える中で、なお神に信頼し、望みをかけるという意味です。これは、イエスが十字架の苦しみのただ中でこのみことばを告白しておられたことを示唆しています。
そして、「見よ。わたしと、神がわたしにくださった子(幼子)たち」の「子」とは原文で「幼子」で、イエスが私たちをご自身が世話すべき無力な妹、弟と見ておられるという意味です。
これは、先に続くイザヤ8章18節のからの引用で、そこでは「イエスご自身と、主 (ヤハウェ) がイエスに下さった幼子」たちは、「シオンの山に住む万軍の主 (ヤハウェ) からのイスラエルでのしるしとなり、また不思議となっている」と預言されていたと解釈できます。
それは何と、イエスと私たちが一つになり、世界に対しての「しるし」また「不思議」とされるという意味です。だからこそ、イエスは「私たちを兄弟と呼ぶことを恥としない」(2:11) と描かれていたのです。
なお、真の指導者は、自分に従ってくる者たちの苦しみを体験している必要があります。火の中に飛び込む救助隊の指導者が、火の中をくぐり抜けた体験を持っていないなら、どうして隊員は彼の指示に従おうという勇気が湧いてくるでしょう。
それと同じように、14節では、キリストは私たちと同じ苦しみを体験されたことが、「子(幼子)たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、これらのものをお持ちになりました」と記されます。
それは、世界の創造主であられる方が、ご自分を低くして、私たちと同じ「血と肉」のからだを持つ者となられたという意味です。これは、王様が奴隷になることよりも、はるかに驚くべきことです。
「血と肉」を持つとは、飢え渇き、病になり、やがて死んで行く、不自由な身体を意味します。
神にとって唯一できないことは、「死ぬこと」かもしれませんが、イエスはその不可能を乗り越えられました。それは、本来、永遠に死を味わうことのない方が、死の苦しみに服するためです。
ところで、人間が死に支配されるようになったのは、人類の母のエバが、「その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった」(創世記3:6) と見えたという欲望に負けて、滅びる者となったことにあると説明します。
その後、「欲によって滅びる」という原理がすべての人を支配しています。事実、神が創造された美しい世界は、人間の欲望によって、救いがたいほどに腐敗してしまいました。その原因は、神のかたちに創造された人間が、神から離れて生きるようになったためですが、人間の腐敗は、「教え」や「悔い改め」では癒しがたいほどに進んでしまいました。
それに心を痛められた神は、ご自身の御子をこの世界に遣わしてくださいました。御子は私たちの創造主であられますが、ご自身でこの腐敗して行く肉体を持つ人間となることによって、「腐敗する身体を不滅の身体へと変えようとしてくださった」というのです。
すべてのいのちの源である方が、死と腐敗の力を滅ぼすために、敢えて、朽ちて行く身体を持つ人間となられたばかりか、最も惨めな十字架の死を自ら選ばれたのです。
しかし同時に14、15節では、イエスが「血と肉をお持ちになられた」理由が、「それはご自分の死によって、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、無力化する(滅ぼす)ためであり、また、死の恐怖によって一生涯奴隷となっていた人々を解放するためでした」という驚くべき説明がなされます。
それは、永遠の神の御子が肉の身体となられたという「受肉の神秘」が、「復活の神秘」に直接的に結びつけられることです。
一般的には、神の御子が人とならえたのは、人々の罪を負って十字架にかかるためと説明されますが、このヘブル書は「ことばの受肉」の意味を、「死の力を持つ悪魔を無力化」し、私たちを「死の恐怖の奴隷状態から解放」し、「復活のいのちを今から生きるという神秘」に結びつけて説明します。
「死の恐怖によって一生涯奴隷となっていた人々を解放する」(2:15) という約束が実現したことは、キリストの弟子たちのうちに起こった変化によって知ることができます。
ローマ帝国は、紀元300年頃まで、クリスチャンを絶滅しようと必死でした。彼らは皇帝を神として拝む代わりにイエスを神としてあがめていたからです。ところが殉教者の血が流されるたびに、クリスチャンの数が爆発的に増えてしまったのです。
紀元198年頃にテルトゥリアヌスは、当時の圧政者に向けて、「いかにあなたがたの残酷さがより手の込んだものとなったとしても、それはすべてなんの役にも立たない。それはむしろ、我々の宗教の魅力となっているのだ。あなた方が我々を刈り取れば、その都度、我々の信者は倍加するのである。キリスト教徒の血は、種子なのである……あなた方によって死に定められるや否や、我々は神によって釈放されるのである」と記しました。
それは、クリスチャンたちの、死の脅しに屈しない姿が、人々に感動を与えたからでした。そこには真のいのちの輝きが見られました。そして紀元303、304年の皇帝ディオクレティアヌスによる大迫害の8年後に、皇帝コンスタンチヌスはその政策を大逆転し、イエスの前にひざまずくことになります。
現在の日本に、幸い、そのような大迫害はありません。ただ、コロナ感染を過度に恐れて引きこもってしまう人がいましたが、それと反対に、ニューヨークやロンドンでは多くのクリスチャンの看護師の方々が遠隔地から集まって、命がけで看護の働きに携わっていました。彼らは死の恐怖の奴隷ではありませんでした。
一方日本では、医療従事者の子どもたちが、学校で「コロナウィルスを運ぶ者」して差別を受けたという皮肉がありました。
実は、歴史的には、キリスト教会はパンデミックのたびごとに急成長を遂げてきたのです。ただ今回の日本でそれが起きているかは疑問です。多くの教会があまりにも感染者のクラスターを起こさないことばかりに、つまり、社会の評判ばかりを気にしているように見えましたが、どうでしょうか。
日本では、何につけても評判が大切にされます。「私は死など恐れない!」と豪語している人も、自分の評判が傷つくことや孤独、財産が失われることを恐れていますが、それこそ、「死の恐怖につながれて奴隷となって」いる状態にあるとも言えます。
もし、本当に、死に打ち勝った結果として、死の恐れから解放されているとしたら、その人は、もっと余裕を持って他の人のことも配慮しながら生きていられるはずだからです。
もしその人が、この死の恐怖を単に心の底に押し殺しているだけなら、無意識のうちに恐れに支配されてしまい、まるでネズミのように、刺激や衝動に反応するだけの生き方をしてしまいます。
3.あわれみ深い、真実な大祭司となられた方
16節の文章は、「それは明らかに、イエスが御使いたちに注目するのではなく、アブラハムの子孫に注目してくださったからです」と訳すことができます。
「御使い」は助け出される必要はありませんが、ここでは主が、明らかに神に近い「御使いたち」よりも、死の力に支配された「アブラハムの子孫」である人間に「注目し(引き受け)」、一体の者となろうとされたという意味に理解できます。
そのことが17節では、「そのためにイエスはすべての点で兄弟たちと同じにされなければなりませんでした。それは神の御前への、あわれみ深い、忠実な大祭司となるためであり、民の罪を贖うためでした」と記されます。
人間の兄は、妹や弟と同じ所に住み、同じ物を食べて育ち、しばしば通う学校まで同じです。妹や弟は、それを見ながら育つことができます。主はそのような一人ひとりの「先駆け」(6:20) となるために私たちと同じ姿になられました。
しかもそこには、イエスが父なる神と罪人との「仲介者」としての「大祭司」となられたことも描かれます。「あわれみ深い」とは、私たちの痛みや悲しみを、ご自分のことのように一緒に感じてくださる感覚を意味します。また、「忠実」とは、「真実」とも訳され、頼ってくる者を決して裏切らない真実さを意味します。
アタナシウスは、キリストがローマ帝国にもたらした変化を、「十字架のしるしによってあらゆる魔術は終わりを迎え、あらゆる魔法も無力にされ、あらゆる偶像礼拝も荒廃させられ、放棄され、非理性的な快楽は終わりを迎え、すべての人は地上から天を見上げている」と証しています。
キリストのすばらしさが明らかになるにつれ、人は自然に、偶像礼拝や魔術に見向きもしなくなりました。偶像礼拝では、「戦いの神」や「快楽の神」が人々を戦いや無軌道な性の快楽に向かわせましたが、当時の人々は、「キリストの教えに帰依するや否や、不思議なことに、心を刺し貫かれたかのように残虐行為を捨て……平和と友愛への思い」を持つようになり、また「貞節とたましいの徳とによって悪魔に打ち勝つ」という生き方の変化が見られました。
それは、イエスの「あわれみ」と「真実」に触れたことで、価値観が根本から変えられたからです。イエスは世界の価値観を変えました。イエス以外の誰が、社会的弱者や障害者に人間としての尊厳を回復させ、結婚の尊さや純潔の尊さを説いたことでしょう。
イエスの御名が崇められるところでは、偶像礼拝や不道徳は力をなくして行きます。不条理や不正と戦う以前に、主のみわざが語られるべきなのです。
しかもイエスが「大祭司」となられたのは「民の罪を贖う(宥める:propitiate)ため」(2:17) と記されます。大祭司は民の罪のために動物の血をささげますが、イエスは何とご自分の血を、民の罪の贖いの代価とされ、神の怒りを宥めてくださったのです。
アタナシウスは、「主の死は、すべての者のための身代金であり、この死によって『隔ての壁』が取り壊され (エペソ2:14)、異邦人の招きが実現し、イエスは一方の手で旧約の民を、もう一方の手で異邦人からなる民を引き寄せ……われわれのために天への道を開いてくださった」と語っています。
イエスは十字架に上り、空中で死ぬことによって、天への上昇路を開いてくださったのです。
最後に18節では、「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです」と記されています。
そうであるならば、あわれみに満ちたイエスにとって最も悲しいことは何でしょうか?それは私たちが、心の底で味わっている悲しみや不安やさみしさを認めず、主の御前で隠すことではないでしょうか。
たとえば、私は、長い間、自分の内側にいる寂しがり屋の声を圧迫してきたとふと気づかされました。イエスは、私のうちに住む、寂しがりやの私と交わりを築きたいと願っておられるのに、イエスの語りかけを心で味わう前に、自分で動き出してしまうことがあります。
そして、無意識のうちに、自分のうちにある名誉欲などという欲望に駆り立てられ、滅びに向かおうとするのです。
今、改めて思います。この私が「母の胎」のうちにいる時から、神は私を「わたしの息子よ」と目を留めておられ、時が来ると、私にイエスを「救いの創始者」として示してくださいました。
さらにイエスは私を「私の弟よ」と呼び、私を礼拝者の交わりに加えてくださいました。そしてイエスは、私に代わって「死の力を持つ悪魔」と戦い、勝利を得られ、「大丈夫だから、わたしについてきなさい」と招いておられます。
たとい、様々な過ちを犯していても、イエスは大祭司として、私たちの側に立って、父なる神に「とりなし」、弁護をしてくださいます。ですから、恐れることなく、すべての思い悩みをイエスにお話しすることができます。