詩篇36篇〜さまざまな依存症、自殺願望からの救い

 一昨日の礼拝で、薬物依存、自殺未遂から救い出された貴重なお証しをしていただき、その証しの解説となるような礼拝メッセージをエゼキエル16章、コロサイ人への手紙3章からさせていただきました(お証しは当教会内部だけに留まり。今週土曜日の夜に削除されます)。

 ただ、それに関して一言、大切な追加があります。依存症にはさまざまな現れ方があります。アルコール依存、薬物依存、ギャンブル依存、インターネット依存、ゲーム依存など、意外に身近なところにある課題です。それは私たちが神の前での罪人であるということの一つの現れです。

 私たちが生涯、「赦された罪人」として歩むように、依存症の問題を抱える方も、依存症から解放されたと思ってはなりません。依存症は私たちの脳に焼き付いた習慣ですから、何かのきっかけがあればすぐに再発します。
 「私は癒された!」という思い込みが、次の問題を生みます。

 大切なのは、互いの弱さを理解し合う交わりと、支え合いです。その際、「自分を人生の失敗者」と思い込むことは、大きな誤りです。

 残念ながら、伝統的な福音提示の中で、「私たちは、罪にまみれた、まったく無価値な人間で、神のあわれみなしには一瞬たりとも生きられないものです」という謙遜な祈りがありますが、ここには少し危ない誤解が生まれる可能性があります。
 私が心から尊敬するマルティン・ルターも「人間は糞のつまった袋に過ぎない」などというレトリックを使いましたが、これは本当に危険な表現です。

 私たちはみな「神のかたち」に創造された存在で、このままの自分が神の働きに用いていただくことができます。ですから自分に与えられている能力や、気質や、感覚を卑下してはなりません。
 先日の証しでも、自分で自分を喜ぶことができる面もきちんと表現されていました。それぞれの方に、かけがえのない能力が与えられています。
 依存症の原点に、何ともいえない自己嫌悪感があります。自分を無価値と思うから、破滅的な欲求に身を任せてしまうのです。
 ですから、私たちの教会では、何よりも互いの存在を喜び合い、何かの美しいことが発見できたらそれを称賛し、互いに褒め合うということを大切にしています。

 詩篇36篇には、私たちの「罪」の感覚に対する誤解を正す意味が込められています。
 依存症の最大の問題は、自分の弱さを認められないことにあると言われます。
 
それに対し、自分の失敗を言い表して、その失敗が逆説的に、他の人の助けになるかもしれないと言えることは、途方もない人生の方向転換です。
 
 互いの弱さ、愚かさを認め合うことと、同時に、自分の上に注がれた神の一方的な恵みを分かち合うことは車の両輪のようなものです。
 「自分はどうしようもない人間だ」と心の底で思っているからこそ、他の人の前で強がってしまいます。反対に、自分の価値を知っている人は、自分の過ちを素直に認め、同時に自分や他の人に注がれた恵みを喜ぶことができます。

詩篇36篇1–12節「人の罪と神の恵み」

 1、2節は翻訳が困難ですが、次のように訳す方が、後の文脈に沿うと思われます。

そむきは悪者の心の奥底にささやく。その目の前には、神への恐れがない。なぜなら、彼は自分の目で、自分にへつらっているので、自分の咎を見つけて、それを憎もうともしないから。

 最初のことばは、「的外れ」を意味する「罪(ハター)」ではなく、神に逆らう「そむき(ペシャー)」と訳されているものの擬人化です。それはエデンの園で蛇が、エバの心の中に神の命令に背く思いを起こさせたことを示唆します。

 その後、神がアダムに、善悪の知識の木から食べたかどうかを聞いただけなのに、アダムは、その責任は女と、その女を自分の傍に置いた神にあるという趣旨の答えをして、自分の罪を見ようとはしませんでした。
 自分を神のようにしたアダムの子孫は、自分に関する限りあらゆる言い訳をしてしまいます。そしてそのことが、「彼の目の前には、神に対する恐れがない」(1節) と評されます。
 使徒パウロは、このことばをローマ人への手紙3章18節で引用しながら、「すべての人が罪の下にある」(同3:9) ということの実例として示しています。

 そしてこの3、4節では、彼が不法と欺きを語り、知恵も善も求めず、ひそかに不法を図り、「よくない道に堅く立っていて、悪を捨てようともしない」と描かれます。
 不思議なのは、そのように人の罪を描いた後で、地獄のさばきを描くのとは反対に、神のご支配のもとにある繁栄と楽しみが描かれ (8節)、その原因として、神の「恵み」「真実」「義」「さばき」の素晴らしさが述べられています (5–7節)。
 「恵み」のヘブル語は「ヘセド」で「変わることのない神の愛」を意味し、「真実」は「エムナー」で「アーメン(それは本当です)」と同じ語根のことば、「義」は「ツェデク」で「正義」またはご自身の契約を守り通す正しさを意味します。
 そして、「さばき」は「ミシュパート」で裁判というよりも、「正しく治める」ことを意味します。

 ですから、この四つのことばは、アダムの罪によって「のろわれてしまった」(創世記3:17) と呼ばれる「土地」を、ご自身の測り知れない愛をもって守り通してくださっている神の熱い思いを描いたものです。
 
 ローマ人への手紙3章でも、先の罪の指摘の直後に、神の救いのみわざが語られます。それは、自分を神としたアダムの子孫が、徹底的に自分を偽り、正当化し、神の前にへりくだることができないからです。
 日本人は、小さい頃から、過ちを指摘してもらって、それを直すことが美徳とされ、欠点を指摘することが親切とされる面があるかもしれません。
 しかし、反省して、自分を変えることができるぐらいなら、神の御子が十字架にかかる必要などありませんでした。

 罪の自覚を深めることよりも、神の「変わらない愛」「真実」「正しさ(義)」「ご支配(さばき)」に目を向けることが大切です。
 もちろん、最後の審判は忘れてはなりませんが、それは神がこの世界を平和に満ちた世界へと変えるために必要なことであり、そこには恐怖よりも、希望を見るべきでしょう。
 最後に、「私たちは、あなたの光のうちに光を見る」(9節) とは、私たちの罪を明らかにする神の光は、同時に、私たちをいやす神の光でもあると解釈できます。


【祈り】主よ、人の罪が世界を壊している中で、あなたの愛に満ちたご支配を感謝します。あなたの愛の光の中で、自分の罪を素直に認め、あなたにあるいやしを望ませてください。