「どうせ私なんて……やるだけ無駄だ……」という自己嫌悪と絶望感は、多くの人の心の底に巣食っています。また、激しい痛みの中で、人はふと「もう、死んでしまいたい」と願うことがあります。
また「私の願いは、もう叶うことがない……」と思うとき、ふと自暴自棄になり、破滅的な誘惑に身を任せてしまうことがあります。これも霊的な死の始まりです。
しかしその一歩手前で、「生きよ!」という主からの声が心の奥底に聞こえて、教会に立ち寄ったという人もいます。主は、滅び行く罪人に、「生きよ!」と語りかけられます。
1.「あなたは自分の美しさに拠り頼み、自分の名声に乗じて姦淫を行い」
預言者エゼキエルに与えられた16章の啓示は、エルサレム滅亡の約5年前の紀元前592年頃のことと思われます (8:2)。この書全体には神のさばきによる神殿崩壊と、世の終わりの神殿の完成のヴィジョンが描かれています。
そして16章2節で「エルサレムにその忌み嫌うべきわざを告げ知らせよ」と記されます。このころのエルサレムの住民は、神の栄光が神殿を去ったことも知らずに、神の都エルサレムは永遠に不滅であるかのように、その都を誇っていました。
それに対し、主はエゼキエルを通して、エルサレムの出生の卑しさを、「あなたの出身、あなたの生まれはカナン人の地である。あなたの父はアモリ人、あなたの母はヒッタイト人であった……あなたの生まれた日に、あなたは嫌われ、野に捨てられた」(16:3–5) と描いています。
当時のイスラエルの民は自分たちの血筋を大切にし、それを誇っていましたが、主は、エルサレムのはるか昔の状態は、誰からも惜しまれることのない、惨めな捨てられた町であったと語ります。
そして、主ご自身が今にも滅びそうなエルサレムに目を留められた様子を、「わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、わたしは血に染まったあなたに『生きよ』と言い、血に染まったあなたに、繰り返して『生きよ』と言った」(16:6) と記します。
昔からどの国にも、貧しい娘が、王子に目を止められ、一夜にして王女になるという物語があります。ここでも主ご自身が、人知れず生まれ、人々から見捨てられていたエルサレムに目を留め、「生きよ」と語ってくださったという一方的なあわれみを思い起こさせようとしておられます。
ただし、童話の白雪姫にしても、シンデレラにしても、彼女たちにもともと備わっていた美しさが発見され、彼女たちが幸せになるというストーリーですが、聖書には、誰の目にもみにくい状態の者に主が目を留めた結果として、彼女が美しく成長するという物語が描かれているのです。
なぜなら、神の愛は、愛されるにふさわしくない人を、愛されるにふさわしい人に成長させてくださるところに表されるからです。
つまり、すべては、目を留めてくださった方の「あわれみ」から始まっています。そのことを主は、「わたしはあなたを野原の新芽のように育て上げた。あなたは成長して大きくなり、十分に円熟して、乳房はふくらみ、髪も伸びた」(16:7) と、主ご自身が彼女を美しく成長させたと言われ、同時に「しかし、あなたはまる裸であった」と、傷つきやすさと保護者の必要性を示します。
そして、主がしばらく離れていた後に、再び彼女に目を留めた様子が、「わたしがそばを通りかかってあなたを見ると、ちょうど、あなたの恋をする年ごろになっていた。わたしは衣の裾をあなたの上に広げ、あなたの裸をおおった。わたしはあなたに誓って、あなたと契りを結んだ……そして、あなたはわたしのものとなった」(16:8) と描かれます。
「衣の裾をあなたの上に広げ」とは、ルツ記3章9節にも記されるプロポーズの印であり、「あなたに誓って……契りを結んだ」とは結婚の誓約です。その際、夫は妻に生きている限り、誠実を尽くすと誓い、妻は他の男を求めないと誓います。
その上で夫が妻に誠実を尽くし、より美しくするための努力が、「わたしはあなたを水で洗い、あなたの血を洗い落とし、あなたに油を塗った……あなたは金や銀で飾られ、亜麻布や絹やあや織り物を着て、上等の小麦粉や蜜や油を食べた」(16:9、13) と描かれます。
その結果、「こうして、あなたは非常に美しくなり、女王の位に進んだ」と記されます。つまり、彼女を美しくし、栄誉を与えたのは、主の一方的な恵み、彼女への誠実の表れであったというのです。
そして、「あなたの美しさのゆえに、あなたの名は国々の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ」(16:14) と描かれます。これは主がダビデとソロモンの時代にエルサレムを世界の奇跡と言われるほどに繁栄させ、シェバの女王を初めとする世界中の人々がそれに憧れたことを指します。
しかし、その後の堕落が、「ところが、あなたは自分の美しさに拠り頼み、自分の名声に乗じて姦淫を行い、通りかかる人がいれば、だれにでも身を任せて姦淫をした」(16:15) と描かれます。
エルサレムの繁栄とともに世界中の人々が集まり、様々な国々の宗教が入り込んできました。それらは、聖書のような高い道徳基準を持たず、その場限りの享楽や刺激や恍惚体験を約束していました。
私たちが世界中の様々な料理に興味を持つのと同じように、エルサレムの住民は、主から受けた富を用いて、様々なこの世の享楽と結びついた偶像礼拝の場に与えられた富を貢いで行きました。
そのときの状態を主は、「あらゆる忌み嫌うべきことや姦淫をしているとき、あなたは、かつて自分が丸裸のまま、血の中でもがいていた若いころのことを思い出さなかった」(16:22) と述べます。
私たちは生活が安定して、忌まわしい刺激に身を任せながら、過去の苦しみを忘れることがあります。残念ながら人間は、目の前の苦しみが過ぎ去ると、何ともいえない倦怠感に苛まれて、刺激を求めてしまいます。ドイツの哲学者ショーペン・ハウエルが言ったこと、「あらゆる人間の生活は、苦痛と退屈の間を行ったり来たり、揺れ動くだけ」というのは永遠の真理のように思えてきます。
古来、人心を掴む為政者は、民衆のパンとサーカスの必要を満たすことができた人かもしれません。それこそが罪人の心の現実かもしれません。
残念ながら人は、苦しみすぎても肉体的な死を望み、また、退屈になりすぎても、放蕩に身を任せるという霊的な死を望んでしまうのでしょうか。麻薬も博打も、まったく貧しすぎても手を出すことはできませんが、苦しみからの回復途上で、先の希望が見えないまま、刺激に身を任せるということは起こり得ます。
2.「だが、わたしは、あなたが若かった日々にあなたと結んだ契約を覚えていて」
ソロモン以来、エルサレムの東にあるオリーブ山は、偶像の神々の礼拝の場で満ちてしまいます (Ⅰ列王記11:7、8)。そこにはエジプトの神々、ペリシテ人の神々などがありましたが、彼らは、「あなたは飽き足らず、アッシリア人と姦通した。彼らと姦通しても、まだ飽き足りず、商業の地カルデアとますます姦淫を重ねたが、それでも、あなたは飽き足りなかった」(16:28、29) と描かれます。
事実、アッシリアが北王国イスラエルを滅ぼす直前、エルサレムの王アハズは主の宮から金銀をアッシリアの王に大量に貢ぎながら、同時に、主の宮に偶像のための祭壇を築き、いけにえをささげました。そればかりか、アッシリアの攻撃を奇跡的に退けることができたヒゼキヤ王でさえ、「商業の地カルデアとますます姦淫を重ねる」(16:29) という過ちの道を開きました。
その後の王たちは、愚かにも、自分に脅威を与えている国々からの攻撃を避けるために、その敵国の偶像礼拝を取り入れて、融和を図るようなことを次々としました。そのために彼らは、主の宮から財宝を持ち出しました。
そのようすが、「あなたの心は、なんと燃え盛っていることか……あなたは、自分のほうから愛人たちすべてに持参金を与え、贈り物をして、四方からあなたのところに来させて姦淫をした」と描かれます (16:30–33)。遊女は他の男性の必要に応えることで報酬をもらいますが、エルサレムの場合は反対に、報酬を支払ってまでも、姦淫の相手を求めたというのです。
それに対して、主は、「わたしは、姦通した女と殺人を犯した女に下す罰によってあなたをさばき、ねたみと憤りをもってあなたの血に報いる」(16:38)と言われます。その際、主はエルサレムが姦淫を犯した相手の国々を用いて、エルサレムを「丸裸にし」、報酬を払えなくすることによって「淫行をやめさせる」と言っておられます (16:39–41)。
その上で主は、「わたしは、あなたがしたとおりのことをあなたに返す。あなたは誓いを蔑んで、契約を破った」(16:59) とエルサレムを責めます。これはエルサレムが主を蔑んだので、エルサレムも蔑まれるということを指しています。それがエルサレムの滅亡として現れます。
ところがそこで大逆転が起きます。そのことが、「だが、わたしは、あなたが若かった日々にあなたと結んだ契約を覚えていて、あなたと永遠の契約を立てる」(16:60) と描かれます。これこそ、神の恵み、真実の愛(ヘセド)の表れです。それは、イスラエルの民が主との契約を破っているにもかかわらず、主は民との契約を守り通すという真実です。
このヘセドこそが、聖書を貫く神の救いのストーリーの核心です。そのことをパウロは、「私たちは真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:13) と記しています。主は、アブラハムの子孫を守り通し、祝福すると言われたご自身のことばを否むことができないのです。
そのことが、「わたしがあなたとの契約を新たにするとき、あなたは、わたしが主 (ヤハウェ) であることを知る。こうして、わたしが、あなたの行ったすべてのことについて、あなたを赦すとき、あなたはそれらを思い出して、恥を見、もう自分の恥辱のために口を開くことはない」(16:62、63) と約束されます。
「契約を新たにする」とは、私たち新約の時代に実現し始めていることです。私たちは、主の一方的な恵みによってすべての罪を赦され、「神の子」とされながら、自分がそれを受ける価値がないということを恥じます。
ただ同時に、再び自分の恥辱をさらして、その痛みのゆえに口を開くということもないという平安が描かれます。そして、そのような心の状態になるとき、私たちは他の人々に対しても寛容になることができます。
3.ガラテヤ2章19、20節 「今私が……生きているいのちは……神の御子の真実によっている」
パウロのガラテヤ人への手紙には「律法の行い」ではなく、「キリストの真実によって救われる」ということが記されています。ただ、それは私たちの「信仰の力」によって救われるという意味ではありません。
依存症の落とし穴は、自分の意思の力で問題が解決できると思い、自分を叱咤激励して、自分に失望するということの繰り返しにあります。クリスチャンの場合も、信仰の力で自分の根本的な問題を克服すべきと思いながら、結果的には「神の力」というよりも「自分の意思の力」に拠り頼んで、大きな失敗をしてしまい、結果的に自分の存在を自分で消すというところまで追いやられることがあります。
しかし、死の一歩手前から生き返ったとき、ガラテヤ2章20節のことばが、自分にそのまま適用できるということが分かります。
そこではまず、「私はキリストとともに十字架につけられました」と記されます。それは神のみことばを聞き暗唱し、思い巡らしながら、国を滅亡させるまでに至ったイスラエルの物語が自分の物語であることを自覚し、生まれたままの自分の力では対処できないと心の底から自覚したという意味です。
十字架にかけられたイエスを見ながら、本来、そこで十字架に架けられたのは、生まれながらの自分であるという自覚を持つことです。それは、私たちがバプテスマのときに水の中に沈められて殺されることに表されています。
しかし、自分の意思の力に絶望するところから聖霊様の働きが始まります。そのことが、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」という告白です。
これは何かの劇的な感動の告白という以前に、霊的な事実を受け止めた告白です。それが自覚できるのは、どん底に落ちたときかもしれませんが、それを自ら体験すると周りの人にとんでもない迷惑をかけます。
ですから、多くの人にとってお勧めなのは、そのような体験をした人の証しを聞きながら、自分にもまったく同じことが起き得るのだとその人の苦しみに共感し、どん底に落ちる前に聖霊の働きに身を任すことと言えましょう。
しかもそこでの思い巡らしから、「今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子の真実によっているのです」という感謝が生まれます。
新改訳で、「神の御子に対する信仰」と記されることばは、聖書協会共同訳では「神の子の真実」と訳されています。私たちには自分の「信仰」を意思の力かのように誤解する傾向がありますが、私たちの「信仰」の出発点は、私たちが自分で自分を信じることができないと思うようなときに、私の心の内側に、神の御子が私の罪を贖うために十字架にかかってくださったという御子の愛の「真実」を教えられるところから始まるのです。
私たちがこの肉体に縛られている間は、肉の思いと御霊の思いとの間の葛藤は続きます。その中で大切なのは、力を抜かなければ水に浮くことができないように、「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子」に、自分のこころを開き、任せることです。
御霊に導かれた人とは、巧みなヨットの操縦者のような人を指すとも言えましょう。はたから見たら何とも自然で、ただ、ヨットの帆で、風を存分に受けている様子だけが見えます。この「私」ではなく、キリストが見られる生き方こそ、私たちの目標です。
4.コロサイ3:1–4節 「神のうちに隠された新しいいのちが明らかにされる歩み」
コロサイ3章1節では、「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい」と記されますが、これは2章12節の、「バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、またキリストとともによみがえらされたのです」という霊的な事実を前提としています。
「よみがえらされた」というのは、完了形ではなくギリシャ語特有のアオリスト(無時制)形の表現です。これは、過去、現在、未来という時の区別を超えた、神のみわざを表現するのにふさわしい動詞形です。
キリストの復活は二千年前の歴史的な事実ですが、イエスを死者の中からよみがえらせてくださった神のみわざが私たちの中に既に始まっており、それが目に見える完成に向かっているというのです。
私たちは自分の身体の復活を、地球が滅びる直前に実現する、遠い未来のことのように考えがちですが、聖書の視点では、キリストが既に復活したように私たちも既に復活のいのちの中におり、神の時から見たら、すでに復活は始まっていると考えるべきなのです。
コロサイ1章27節に「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と記されていますが、私たちのうちに既に、「キリスト、栄光の望み」が住んでおられるので、私たちは既に、復活したかのように生きることができます。
私たちの人生は、自分を青虫に過ぎないと見るか、蝶の幼虫と見るかで大きく違ってきます。私たちは今、将来の王になる準備として、あえて丁稚奉公の苦労を体験させてもらっているのです。
事実、人は、明日への希望を持っているなら、どんな困難にも耐えることが出来るし、それを通して驚くほどの成長を遂げられます。
続く、「そこでは、キリストが神の右に座に着いておられます」(1節) とは、あなたのうちに住む復活の主が、神からの全面委託を受けてこの地を治めておられることを指します。
私たちはこの勝利者キリストと一体とされているのですから、地上的な次元で自分の価値をはからずに、「上(天)にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません」(2節) と勧められています。
しばしば、人は、自分を安っぽく見た結果として、自暴自棄な行動に走り、人を傷つけたりします。しかし、「あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです」(3節) と記されています。
これは、キリストの「ご支配の中に移して」いただいている者はすでに、地上的なアイデンティティーから解放されたという意味といえましょう。
私たちはみな、どこかで、もっと豊かに、偉く、強く、尊敬される者になりたいと思いながら、比較の世界に生きています。しかし、いつも上には上があり、たとい頂点に上り詰めても、その地位を失う恐れに囚われてしまいます。それこそ、自分の真の価値を見失っている状態なのです。
「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されている」と記されるのは、この復活のいのちが、この地ではまだ人々の目には見えないからです。しかしそれは確かに「神のうちに隠されている」ので、誰も奪うことはできません。
しかも「私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときにあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます」(4節) と約束されます。
キリストが「私たちのいのち」と記されるのは何という慰めでしょう。キリストにあるいのちの豊かさが、キリストの再臨のときに、あらゆる想像を超えた形で豊かに現されます。私たちのうちにすでに栄光の姿が形作られ始めているのです。
人はみなどこかで自分を「みにくいアヒルの子」のように思うことがあります。それは、この地上的な視点で人と自分を比べて一喜一憂しているからです。しかしその童話では、母親からも見捨てられた「みにくいアヒルの子」が、白鳥の姿を見て、「自分もそうなりたいと憧れた……」ということが描かれています。そして、やがて、自分がその憧れの白鳥の子であることを発見します。
私たちもこの世的な比較で自分を評価する代わりに、「神のうちに隠されている」自分の「いのち」を発見する必要があります。
キリストとの交わりに生きる者は、すべて「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられ」る途上にあります (Ⅱコンリント3:18)。私たちが憧れる栄光の姿は、すでに約束されているのです。
ユージン・ピータソンが、クリスチャン生活とは、「復活の実践」(Practice Resurrection) だと言っています。私たちが「新しい天と新しい地」に復活の身体で入れていただくことは確定しています。これは、「天国に憧れながら、この世の不条理に耐える……」という現実逃避的な幻想の世界に生きることではありません。私たちは、将来の保証があるからこそ、現在の労苦が無駄にならないということを信じて、今、ここで、神のみわざを喜びながら、神から与えられた身体をもって、この世界を少しでも住みよくするために積極的に生きることができるのです。
私たちの信仰とは、自分の信念の力ではありません。自己憐憫と被害者意識、無気力と倦怠感、自己嫌悪と自暴自棄に流れがちな私たちの心を作り変えてくださるという主の約束に対する信頼です。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」という告白を、人生のどん底に落ちてから初めて実感するのではなく、今ここで起きている霊的な事実であることを認めさせていただきましょう。
すべては神の御子の真実から始まります。