詩篇35篇〜市場の反応が政治を動かす

 4月になって以来、米国の関税政策によって世界の金融市場が大変動を起こしています。つい、昔の仕事柄、毎日、それが気になってしまいます。

 今回のトランプ大統領の関税政策は、総需要を操作するという消費者中心の経済運営から、生産者を国際的な過当競争から守るという生産者重視の経済運営への発想の転換を迫るものと言えるかもしれません。これは世界各国の経済政策に発想の転換を迫る大きな意味を持っているのでしょう。
 しかし、トランプ大統領は差し当たりの高関税政策の実施を90日間引き延ばす決定を下しました。
 その理由は、世界のお金が米国債から離れるという兆しが見えたからです。
 先日から書いておりますように、米国の貿易赤字と米国債への資金流入は裏表の関係にあります。貿易赤字を減らそうとする努力が、米国の金融市場へのお金の流入を止めることとセットになっています。
 ですから、長期的には米国の激しい関税政策は、市場の論理で成り立たなくなりますので、過度に慌てる必要もないのかも知れません。ただ、ひょっとしたら、米国債が中国に依存せざるを得ない体制を変えようとしているのかもしれません。

 トランプ大統領の関税政策を変化させる最大の力は米国の債券市場や株式市場にあります。そこには声にならない声が反映されます。
 民主主義は民意が選挙で反映されますが、市場経済にもそのような面があります。人は損得勘定ばかりではなく、「このようにあってほしい、これは間違っている」というそれぞれの確信を、ある会社の製品を買うとか拒否する、また、ある会社の株式を買うとか売るという形で表現できます。その結果としてかつては公害を生み出した企業が市場から退場させられました。
 
 米国の生産者が米国民自身に喜ばれ製品を生み出すことを応援するシステムをトランプ政権は必死に考えていると評価することもできましょう。
 かつての米国も日本同様に、鉄鋼、造船、自動車産業が繁栄をもたらしてきました。今、米国は、日本製鉄の技術力でUSスティールを復活させようとし、また造船業を韓国の助けで再建しようとしているようです。
 それらの産業が中国共産党の支配下に置かれないように、日本も韓国も協力をすることができるように思います。
 残念ながら、国際政治の舞台では、報復が報復を呼ぶという悪循環になりがちですが、私たちはそのような報復合戦から自由に生きるべきということが詩篇35篇に記されています。

詩篇35篇1–10節「私と戦う者と戦ってください」

 私たちはこの世界で、ときに不当な攻撃を受けることがあります。とくに人々の役に立つような良い働きをするときに限って、ねたみによる非難を受けるばかりか、ときに身に覚えのない権力闘争をしかけられることがあります。そのようなときに、「出る杭は打たれる」という諺が心に浮かび、なすべき良いことができなくなります。
 そのようなときに、「主 (ヤハウェ) よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください」(1節) と、大胆に祈ることができるなら、謂れのない攻撃に怯えることなく、「これは、今、私がなすべきことだ。主の御守りを信じて、大胆に行動しよう!」と、踏ん切る勇気をいただくことができます。人の目ではなく、神の目を意識して前進するのです。
 多くのクリスチャンは、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とか、「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」というイエスのことば (マタイ5:44、39) の意味を誤解しています。そこには、「あなたが自分の敵と戦い、その人を排除しようとしなくても、神がご自身の時に、あなたの敵を黙らせてくださる。報復の連鎖になるような行動を取る代わりに、あなたの敵の必要に応えてあげることで、かえって相手を慌てさせることができるのだから・・・」(ローマ12:19–21参照) という前提があります。 

 私たちの信仰の父はアブラハムです (ローマ4:16)。そしてアブラハムに対する約束が私たちの約束となっています。
 そこで神は、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」(創世記12:3) と語っておられます。それは、神がいつでも、私の味方となってくださるという意味です (ローマ8:31参照)。
 それを前提に、この詩での2–6節の祈りがあります。それは、まるで幼い子供がたくましい父親に、「あのいじめっこたちが僕にひどいことをしようとしているんだよ。お父ちゃん、早く助けに来てよ!」とすがっているような、父なる神への信頼の表現と理解すべきでしょう。
 「敵のために祈る」とは、神の復讐によって彼らが激しく苦しむのを思い浮かべながら、「神様、そこまでしなくても……」と、執り成すようなものと言えましょう。
 7、8節では、まず、私の敵が、ひそかに罠を仕掛け、私を破滅させようとしていると神に訴えますが、それを前提に、「思わぬときに、滅びが彼を襲いますように。ひそかに張ったおのれの網が彼を捕らえ、滅びの中に落ち込みますように」と祈られています。
 これは、敵たちが私に仕掛けた罠が、彼ら自身を破滅させるという趣旨の祈りです。神のさばきは、彼らを神が攻撃するというよりも、自業自得で苦しむのを見守るということに現されています。

 それを思い浮かべる時に、神の公平なさばきに信頼して、安心することができます。そのことが、「こうして、私のたましいは、主 (ヤハウェ) にあって喜び、御救いの中にあって、楽しむことでしょう」(9節) と表現されます。
 主のさばきは、人の目から隠れている私の誠実さや、純粋な動機が正しく評価されるときです。
 そして、10節では、私たちの父なる神が、「悩む者を、彼よりも強い者から救い出す方」と、「私のすべての骨」が感謝する様子が描かれます。私はもう、人の評価や、ねたみ、妨害、罠などを恐れることなく、神のみこころを生きることができます。


【祈り】主よ、この世界には様々な不条理がありますが、あなたがご自身のときにそれを正してくださることを信じます。どうか、私が、今なすべきことに集中できますように。