詩篇34篇〜関税問題の背後にある問題 生産者中心の経済の復興を目指して

 昔の仕事の習慣で、世界的な株価の乱高下が気になります。
 証券市場に関わったことのある者はだれでも、皮肉にも、「予測は当たらないけれども、起こったことの説明はできるようになる」と言われております。

 今まで私は、聖書の福音が人々の価値観に影響して、それが市場経済の動きにも反映されるという面でお話ししてきました。ただ、その際、マクロ経済学的な視点から、関税政策の問題点を指摘してきたつもりです。

 しかし、当教会の関係者から 3月に来日した、トランプ政権の経済政策に影響を与えているといわれる米国保守派の経済学者オレン・キャス氏の話しを聞いて、とっても目が開かれました。
 先日の日曜日の夜9時からのNHK番組でそのインタビューが詳しく紹介されるはずだったのですが、株価の乱高下で、ほんの一部しか紹介されませんでした。
 ただ、以下のサイトで紹介されなかった をご覧いただくことができます。

 そこで印象的だったのは以下のキャス氏のことばです。

(米国の)大卒や管理職以外の一般的な労働者の収入は1970年代とほとんど変わっていません。若い男性は70年代よりも収入が少ないという見方もあります。 
 トランプ政権が望むのはアメリカ経済がバランスよく成長し経済成長と繁栄が広く行き渡り、大学を卒業していない、大都市に住んでいない典型的なアメリカ人がまともな生活を築き、家族を支えるいい仕事を見つけ子どもたちにいい生活を提供できるようになることです。

 これでハッとしたことがあります。以前も紹介しました渡辺努氏の「物価を考える」という日本経済の分析で描かれていたことです。
 2013年から日銀の異次元金融緩和が始まり、大量の通貨供給によって経済の総需要を生み出そうとしましたが、供給側がそれに追いついて来なかったという説明です。
 本来は、需要が増えると、それに合わせて企業側が販売価格をあげてそれに合わせて賃金も上げるというのが健全な経済の動き方を期待していました。
 ところが企業側の過当競争意識と賃上げ自粛ムードで価格も賃金も上げられませんでした。
 日本の場合は特に、派遣社員で雇用を調整するというシステムもあって、労働者の待遇改善が遅れがちになりました

 アメリカで起きたことが日本でも起きています。いつも、経済運営を需要の側面ばかりに目を向けて、供給側の労働者の待遇を、それに合わせることしかなされないという体制です。
 経済学的には、米国の貿易赤字は米国への資金流入で賄われます。これも簡単に言うと、米国で金融業に努める人ばかりが豊かになり、貿易競争で負ける製造業が貧しくなるという格差が生まれます。
 
 簡単に言うと、生産者の側が世界的な過当競争で我慢を強いられる経済構造のままで良いのかという根本的な問い掛けを、この関税問題から真剣に問い直す必要があるように思われます。
 従来のマクロ経済学では、関税政策は決して正当化できませんが、生産者側にやさしい経済学の見直しが必要だと思われます。
 そのことがトンランプ政権の背後で、新しい経済学の視点として生まれているような気がしてきました。
 
 お金は経済を動かす手段に過ぎないのですが、世界的なお金の自由な流れで、個々の生産者が過当競争の中で立場を失って行く、それに対する強烈な問い掛けがこの関税政策の背後にあると見る必要があるように思われます。

 仕事をお金のためではなく、主への礼拝の一部として見られるようになるというのが、本来の職業倫理といえましょう。
 詩篇34篇こそ、私たちの日々の生活に生かされる主への賛美の歌と言えます。

詩篇34篇1–10節「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ」

 この詩篇には背景の説明があります (Ⅰサムエル21:10–15)。ダビデはサウルからの逃亡途中、ペリシテ王の前で正体が知れるのを恐れ、ひげによだれをたらした狂気を装い、命からがら洞穴に逃げこみました。
 彼はそこで受けた慰めを一つの歌の形にまとめました。各節の始まりはヘブル語のアルファベットの頭文字の順番に並んでいます。彼は、自分が受けた慰めが、すべての子孫の慰めともなることを願っているのでしょう。

 「あらゆる時」「いつも」(1節) という繰り返しで、ダビデは、順境ばかりか、逆境の時にも主を賛美すると告白します。キリストの十字架を覚えるとき「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません」(Ⅰコリント10:13) という告白に導かれ、同時に、主の復活を覚えるとき、「脱出の道」が常に備えられていると告白できるようになります。ですから「貧しい者は、それを聞いて喜ぶ」(2節)ことができます。

 「主を呼び求めると、主は答え、……救い出してくださった」(4節) とは、すべての「救い」のパターンです。
 しかもそれは、「わたしを待ち望む者は恥を見ることがない」(イザヤ49:23) などのように、日本人に馴染み深い「恥」ということばでも表現されます。ダビデが狂気を装ったことは「恥」でしたが、それを振り返りながら、「主を仰ぎ見る者たちは輝き、その顔は恥を見ることがない」(5節私訳) と告白したのではないでしょうか。

 多くの人は「苦しみ」や「人の目」を恐れますが、聖書は繰り返し「主を恐れる」(7、9節) ことを教えます。主はご自分に背を向ける者を厳しく裁かれますが、ご自分にすがろうとする者には豊かなあわれみを示されます。
 そして、「主の使いは、主を恐れる者のまわりに陣を張り」(7節) とは、たとえば、預言者エリシャがアラムの軍に包囲されたとき、彼の弟子はパニックに陥りましたが、そのとき「主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」というような情景を指します (Ⅱ列王記6:17)。主の使いが、あなたをも守ってくださいます。
 
 「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ」(8節) は、古来、聖餐式でよく用いられてことばですが、同時に、日常生活の現実の中で味わうことができる現実です。
 「若い獅子」(10節) は、自分の力に頼る者の象徴であり、この世の常識は、人が「若いライオン」のようになることで幸せになれると教えます。
 しかし、「主を恐れる者」また「主を尋ね求める者」こそが、どんな時にも「良いものに何一つ欠けることはない」という恵みを味わうことが許されるというのです。
 ここで、「恐れる」と「尋ね求める」が、並行法で同じ現実を表しているのは興味深いことです。「恐れる」は、単に「恐がる」というより、親密さを伴った畏敬の念を含むからです。

 苦しみによって人は謙遜を学ぶことができます。もし、神が悪を直接的に滅ぼそうとなさるなら、私は今どこにいるのでしょう?
 キリストは悪に耐えることによって、私たちを救おうとされました。主のすばらしさを味わい、見つめましょう!そこには悪に対する神のさばきに対する恐れ以上に、罪人を赦す神の愛への畏敬の思いが生まれます。


【祈り】主よ、キリストの十字架と復活のゆえに、私たちはどんなときにも、主をほめたたえることができます。主のすばらしさを日々の生活で味わう者とさせてください。