ローマ人への手紙13章1〜7節「存在している権威は神によって立てられている」

2025年4月6日

ローマ人への手紙13章1–7私訳と関連聖句

歴史上、様々な独裁国家や横暴な支配者が現れましたが、彼らにとって「存在している権威は神によって立てられている」ということばほど都合のよいことばはありませんでした。それがたとえばナチス・ドイツの政権を多くのドイツのキリスト教会が支持した根拠にもなりました。

しかし13章1–7節での、この地上の支配権が神によって立てられたという話しは、この世の政治に関わること以前に、12章14–21節の文脈に続くことであることを決して忘れてはなりません。

そこでは祝福しなさい、あなたがたを迫害する者を……自分で復讐することなく……御怒りに場所を空けなさい……悪に打ち負かされてはなりません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい(悪を打ち負かしなさい)」と記されていました。

この世の権威と対決するには強い力が必要で、それは力と力の対決を生み出します。私たちは全能の主(ヤハウェ)の支配に信頼しながら、今ここでできる働き、今できる主張を、周りの人に通じることばで忍耐強くなしてゆく必要があるのです。

1.「すべてのたましいは上に立つ権威に支配されなさい」

13章1節は不思議な命令形で、直訳では次のように訳すことができます。

すべてのたましいは上に立つ権威に支配されなさい (ESV, NRS訳:Let every person be subject to the governing authorities)。神によるのでなければ権威は存在しないからであり、存在している権威は神によって立てられているからです。

主(ヤハウェ)はイスラエルの民を導く使命をヨシュアに与えた際に、「あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、見捨てない。強くあれ、雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ」(ヨシュア1:5、6) と力強い励ましを与えました。

一方で、エルサレムの最後の王ゼデキヤに対しては、「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ」(エレミヤ27:12) とまるで正反対と見えることを命じました。それは主ご自身が異教徒の王バビロンのネブカドネツァルを「主 (ヤハウェ) の剣」(同47:6) として、諸国民をさばくために用いると決めておられたからです。

しかし同時に主(ヤハウェ)はご自身の民に対し、「わたしはバビロンとカルデアの全住民に対し、彼らがシオンで行ったすべての悪に、あなたがたの目の前で報復する(同51:24) とも約束されました。これらすべてをとおして(ヤハウェ)は全ての地上の権威を支配しておられることを明らかにしておられます。

そして私たちの主イエスは、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬を向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい」(マタイ5:39–41) と言われました。

この最後の部分は、ローマ軍に重たい軍事物資を一ミリオン (1500m) 運ぶように強制されたら、反抗する代わりに二ミリオン(約3000m)運ぶようにという勧めです。これは、当時のユダヤ人がローマ軍に対する抵抗運動や武力闘争を勧めようとしていたことを意識してのことばです。これは極めて現実的な政治的な意味を持つ勧めでした。

イエスはご自身が十字架につけられる際に、「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちにために泣きなさい」(ルカ23:28) と言って、ご自身を十字架につけるようにローマ総督ピラトを動かしたユダヤ人の上に厳しい神のさばきが下ることを警告されました。

そしてイエスの十字架から40年後の紀元70年にエルサレムはローマ軍によって廃墟とされ、その住民は約束の地から追い出されることになります。ユダヤ人の二千年間の放浪は、イエスの警告を無視して、ローマ軍を敵としたからとも言えます。

パウロがこのローマ人への手紙を書いたのは、その約13年前の紀元57年ごろで、彼はイエスのことばからエルサレムに対する神のさばきを知っていたことは確かだと思われます。

また、興味深いことに、この手紙が書かれたときのローマ皇帝は、あの悪名高いネロでした(紀元54–68)。ただ当時の皇帝ネロは哲学者セネカの教えに従って穏健な政治を行っていたとも言われます。

パウロは確かにローマ人への手紙を書く際に、当時のローマの皇帝支配をまったく気にしなかったわけはないとは思われますが、エレミヤ書などに明確に描かれているように、神はご自身のさばきを執行するために異教徒の権力者を立てるというのは永遠の真理であることは明らかと言えましょう。

2.「支配者を恐れているのは、善いことを行っているときではなく、悪を行うときだからです」

13章2、3a節では次のように記されます。

したがって、権威に反抗する者は、神の定め(配置)に逆らっているのです。そして逆らっている者は自分の身にさばきを招くことになります。

それは、支配者を恐れているのは、善いことを行っているときではなく、悪を行うときだからです。

ここでは先の話しに続き、「権威に反抗する者」が、「神の定め(配置)に逆らっている」と描かれます。これは、この世の権威が神によって立てられており、それに逆らうことが神のご支配を否定している行為になるという意味です。

ただ同時に、「支配者を恐れているのは、善いことを行っているときではなく、悪を行うときだからです」ということばに、私たちが支配者を恐れずに済む可能性が示唆されています。

権威に反抗してはならないとか、神の定めに逆らってはならないとかは、決して、権力者に自分の意見を言わないという意味ではありません。

イエスは、エルサレム神殿の大祭司から尋問を受けた際に、その手続きの不当性を抗議した際に起こったことがヨハネの福音書18章22、23節で、「するとそばに立っていた下役人の一人が、「『大祭司にそのような答え方をするのか』と言って、平手でイエスを打った。

イエスは彼に答えられた。『わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか』」と描かれています。

つまり、イエスは右の頬を打たれて、黙って左の頬を向ける代わりに、その不当性を抗議しているのです。

また使徒の働き23章1-5節では、パウロもエルサレムの最高法院で尋問を受けた際に、大祭司がパウロのそばに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じたときのことが描かれています。

そのときパウロは大祭司に向かって、白く塗った壁(墓石)よ。神があなたを打たれる。あなたは律法にしたがって私をさばく座に着いていながら、律法に背いて私を打てと命じるのか」と抗議しました。

そればかりかその後の展開が、「彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見てとって、最高法院の中でこう叫んだ。『兄弟たち、私はパリサイ人です……私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです』」と描かれています。すると最高法院は二つに割れて論争が激しくなって、パウロをさばくことができなくなったと描かれています。

パウロは大祭司を「白く塗った壁」と、墓石のようだと非難したばかりか、彼らの間に争いを引き起こして、裁判を妨害したのです。

私たちはこの世の権威に対して、この世の権威の手続きを用いて、明確に抗議をすることができます。不当な仕打ちに泣き寝入りすることをイエスは勧めておられません。私たちには堂々と戦うべき時があるのです。

私たちはこの世の権力者を恐れることなく、彼らの不正を明らかにし、抗議することができます。それは、全能の神がこの地上の支配者の上におられて、時が来たらすべてのことを正してくださると信じているからです。

神の支配を否定する支配者は、神の裁きを受けることが明らかです。私たちはかえってあわれみの気持ちを持って、横暴な支配者の過ちを指摘し、同時に彼らのためにお祈りすることができます。

3.「もし、あなたが悪を行うことがあるなら、恐れなさい。彼は理由もなく剣を帯びてはいないからです」

13章3b、4節は次のように訳すことができます。

しかし、あなたは権威を恐れたくはないと望んではいませんか?それならば、善を行いなさい。それであなたは彼らから称賛を受けることになるからです。

それは、彼があなたに善をもたらすために、神に仕える者  (minister, deacon) だからです。しかし、もし、あなたが悪を行うことがあるなら、恐れなさい。彼は理由もなく剣を帯びてはいないからです。それは彼が神に仕える者 (minister, deacon) であって、悪を行う者に対しては怒りをもって報いるからです。

最初の文章は、多くの英語訳でも「あなたは望んではいませんか?」という疑問文として訳されます。そこには、先の「支配者を恐れている」場合があるということを前提に、言外に、「だれも権威を恐れるような生き方を望んではいないはずだ」という思いが込められています。

それに対する答えとして、単純に「それならば、善を行いなさい」と言われます。そこでの「善を行う」とは信仰的な意味ではなく、「困っている人を助ける」とか、「どの人にも公平に接する」などという、どの社会でも「善」と評価されることを指します。

その結果が、彼ら(権威者)から称賛を受けることになる」という確定未来形が記されます。この世界には確かにさまざまな腐敗した権力者が現れますが、彼ら自身が社会全体に役に立つ善行を励まし、同時に誰の目にもと思える犯罪を取り締まらなければ、最低限の信頼さえ得ることはできません。

人はすべて「神のかたち」に創造されていますから、どれほど信仰や文化が違っても、共通する道徳律があるものです。

続く、「それは、彼(権威者)があなたに善をもたらすために、神に仕える者だからです」という文章での「神に仕える者(神のしもべ)」とは、当人の信仰以前に、神がこの地を治めさせるために立てた器であるという意味です。それは先の「存在している権威は神によって立てられている」という意味です。

「仕える者」または「しもべ」の原文はディアコノスで、英語ではminister(代理人)、deacon(執事)とも訳されることばで、神がこの世界を支配するために用いる働きです。そこには当然、神がご自身の意に添わない指導者をすぐに排除してくださるという前提があります。

さらに、「しかし、もし、あなたが悪を行うことがあるなら、恐れなさい。彼は理由もなく剣を帯びてはいないからです」と記されるのは、権力者が神からこの世の善悪をさばく権威を委ねられているという意味です。

これは、日本で警察官に銃を持つことを許すのも、裁判のシステムがあるのも、力によってこの世の秩序を保つ必要があるからです。残念ながら、一般の人々に暴力で危害を加えようとする悪人は、より強い力によってしかその横暴を抑えることができない現実があります。

そのことがさらに、「それは彼が神に仕える者であって、悪を行う者に対しては怒りをもって報いるからです」と改めて記されます。ここでの「神に仕える者」というのも、本人の信仰に関係なく、神がご自身のさばきを執行するために、この世の権力者を代理として用いるという意味です。

しばしば信仰者は、「神のさばき」ということばをあまりにも「最後の審判」ばかりに偏って理解する場合があるのかもしれません。しかし、神のさばきはこの現実の世界で確かめられるということを忘れてはなりません。

たとえば、旧約聖書の最後のマラキ書で、「神に仕えるのは無駄だ」(3:14) と秘かに思っている人の発言が、「悪を行う者もみな主 (ヤハウェ) の目にかなっている。主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか」(2:17) と描かれていました。

確かに、この世にはそのように神の御支配が見えないことがあったとして、主に信頼する行為はこの世においても報われるということが、「十分の一をことごとく、宝物蔵に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよー万軍の主 (ヤハウェ) は言われるーわたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか(3:10) と驚くほど大胆に記されています。

神を知らない人にとっては、献金ほど愚かな行為はないとも言えます。しかし、神への信頼は、あなたのいのちの次に大切なものをどのように使うかに現わされます。

そして、そこには確かに、地上的な意味での報いが確認されているからこそ、多くの信仰者は喜んで献金をすることができているのです。

神の支配は、この目に見える世界でも確かに確認できると大枠を忘れてはなりません。神はご自身のさばきをこの地上で現わすために権力者を用いるという現実は確かにあるのです。

4.「良心のためにも従うべきです」

13章5–7節は次のように訳すことができます。

それゆえ支配される(従う)必要性があります、それは御怒りのためだけではなく、良心 (conscience) のためにもです(良心のためにも従うべきです)。

そのために税金も納めることになります。彼らは神への奉仕者(神の公僕)だからです。それは彼らがそのことに専念するためです。

すべての人に対しての責任を果たしなさい、税を納めるべき人には税を、関税を納めるべき人には関税を、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬うことによって。

5節では、「権威に支配される必要」が「御怒り」への「恐れ」ばかりではなく、「良心のためにも」と記されることは注目すべきことです。

「良心」は「良い心」というよりは、英語で conscience(ともに知る)とも訳されるように、心の最奥部で神と「ともに意識する」かのように「これはやるべきこと、これはやってはいけないこと」などと、自分にとっての損得勘定を超えて、内奥の語りかけを聞く作用だからです。良心の機能が狂った人には、何らかの責任ある働きを任せることができません。

痛んだ良心を放置したままの状態のことが、「私の心が苦みに満ち、私の思いが突き刺された時 私は愚かで考えもなく あなたの前で 獣のようでした」(詩篇73:21、22) と描かれています。

また「人は栄華のうちにあっても 悟ることがなければ 滅び失せる獣に等しい」(詩篇49:20) とも記されます。この神の前の尊い機能としての「良心」を健全に保つためにも、神が立てた権威を尊重する必要があるのです。それこそがこの地に平和を広げる第一歩になります。

6節の初めは、「そのために」または「同じ理由で」と訳されるのは、「良心のために」ということの適用例として、「税金を納める」ということです。それは社会を健全に機能させる道徳律が保たれるような社会秩序を成り立たせるために税金を納める必要があるということです。

当時のユダヤ社会では、ローマ帝国の税金を払うべきかどうかが神学論争になっていたことがあります。イエスはパリサイ人から、カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と尋ねられたときのことがマタイによる福音書22章17-21節に描かれています。

そこでイエスは、「税として納めるお金を見せなさい」と反対に彼らに迫りました。そこで彼らが、自分たちが持ち歩いていたデナリ銀貨をしぶしぶ見せたとき、イエスは「これはだれの肖像と銘ですか」と尋ねます。彼らが「カエサルのです」と答えると、イエスは「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言われました。

これは決して政教分離のような話しではなく、全能の神の御支配がローマ帝国の中にもあることを示したものと言えましょう。当時のパリサイ人は、皇帝の肖像が刻印されたデナリ銀貨を忌み嫌いながら、それを持っていなければ日常的な支払いができませんした。そしてそのようにデナリ銀貨を使って売り買いできるのは、皇帝の権威がローマ帝国の全域、ユダヤでも認められている結果でした。

彼らはローマ皇帝の支配の恩恵を受けていたのです。

そしてパウロがここで、「彼らは神への奉仕者(神の公僕です)」というとき、異教徒のローマ帝国の総督や官僚を、神に仕える奉仕者と呼んだという意味です。

この世の官僚機構や警察機構が健全に機能するためには税金が必要です。国を治める機能は、どこかの自治会の働きのように、他で収入を得ている人が、仕事の合間にできるような働きではありません。この複雑になっている官僚機構は専門職がいて初めて機能します。それがないとあなたの財産や日々の便利な生活も保たれる保証が無くなります。

私たちはこの目に見える国の機能が健全に保たれるために負うべき責任があるのです。そのことが「すべての人に対する責任を果たしなさい」と記されます。

そこに「関税」ということばが登場しますが、これは当時、国内産業を保護するために輸入品に掛けられる税金というよりは、国境または国内の特定の地域を通過する物品に対して課される行政の手数料のようなもので、行政の機能を保つために用いられました。

関税を納めることで、物品の売買が行政的に保護されたという意味で、貿易を盛んにする機能があったという意味で、現代の保護貿易的な関税とは意味が異なります。

とにかく当時の行政機能は税金と関税でその財務的な基盤ができていたという意味です。最後に、「恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬う」とは、この世の権力者に逆らうことを考える以前に、彼らの働きを尊重するという意味があります

ペテロや他の使徒たちが当時の最高法院から、キリストの復活の福音を宣べ伝えることを禁じられたときに、恐れることなく、「人に従うより、神に従うべきです」(使徒5:29) と言い返したことが描かれます。

それに対し議員たちは、もしこれが「神から出た」(同5:39) ものなら、自分たちが「神に敵対する者」になると躊躇しました。イエスを神への冒涜罪で十字架刑を要求した最高法院が変えられたのは、そこに主のみわざが明らかになっていたからです。

私たちはこの世の統治システムを徹底的に尊重するように命じられていますが、それは言うべきことを言わずに、盲従することではありません。私たちはこの世の権力者や統治システムを尊重しながらも、この世の政治を変えて行くことができます。それは例えば奴隷制の廃止であり、また社会的弱者の保護、男女同権などの基本的人権の確立などに現れています。

この世の権威を否定することなく、この世の「権威」の価値観を変えて来たのがキリスト教会の歴史であることを覚えましょう。

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