今週のテーマは、悲鳴です。
私たちの教会の交わりの至ることろで悲鳴が聞かれ、その対処で忙しくしていました。
教会員の方の急な衰弱へのお見舞い、また親しい交わりの中にある方のお母様の危篤状態、召天、大きな手術を受けた方の再入院、大手術後の治療、また今朝も家族の突然の入院のお知らせなど、珍しいほどに次から次とそれぞれの方にとっての人生の一大事が起きています。
そのような中でも、つい世界経済の動きに目が向かいます。
友人から紹介された米保守系シンクタンクの代表オレン・キャスさんの記事に深く心を動かされました。以下でご覧いただけますが、今開こうとしたら有料の になっていました。今度の日曜日の午後9時からのNHKの特集番組で、彼のインタビューが放映されるようです。
中心は米国の経済や文化を支えて来られた保守的な労働者の悲鳴に関してです。
私たち日本の福音自由教会も米国の中西部の保守的なクリスチャンの熱い宣教の思いから生まれました。彼らはグローバル経済の中で、仕事が危機にさらされ、家族も崩壊する危険に置かれています。多くの薬物、アルコール依存症の問題が生まれています。古き良きアメリカが失われるという、悲鳴が聞かれます。
そのような中で、米国の製造業復活によって国を再建しようという、草の根の運動が起きており、それがトランプ政権を支えています。
僕も50年前のアメリカで信仰に導かれましたが、考えてみたらそのときのアメリカはまだ第二次大戦後30年しか経っていませんでした。そのときから本当に多くのことが起きています。発想をあらたにする必要を覚えさせられています。
ただ、国際経済学的には、それは世界中から憧れを受け、「追われる国」となっていることの必然のようにも思えます。
あまり報道はされませんが、米国が多額の貿易赤字を抱えているのは、他の国の食い物にされているからではありません。世界中のお金が米国に集まって来る結果、彼らはそのお金で外国の製品を自分たちの身の丈以上に買うことができている結果に過ぎないのです。
米国は大きな財政赤字を抱えていますが、米国債の最大の購入者は日本人です。それに中国と英国が続きます。乱暴な言い方をすると、米国は日本や中国から集まってきたお金で、中国や日本の製品を安く多く買うという恩恵に浴しているのです。国際経済学的にはまさにウィンウィンの関係です。
中国も日本も、将来への不安から、お金を使うことよりも、お金を貯めることに気持ちが向かい、それが政府の財政赤字を支えるばかりか余ったお金が米国に流れています。失礼な言い方になりますが、だれも中国の国債を買いたいとは思わないことでしょうが、それから考えるとアメリカの魅力が分かります。
ただ、そのような構造の中で、米国で潤っているのは、IT産業や消費財部門や金融業ばかりで、伝統的な製造業は世界の競争について行くことができていません。
その根本的な問題をショック療法で癒そうとしているのかもしれませんが、私たちからしたら、本来は国内で解決すべき問題を、外国との貿易問題にすり替えられているようにしか見えません。
しかし、私たちはアメリカから多くの恩恵を受けて来たものとして、米国の中に聞かれる悲鳴に思いを向け、彼らのために祈ることが何よりも大切かと思わされます。
下記の詩篇33篇の解説で、「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか」というパウロの訴えを引用しています。
確かに戦後の日本はアメリカから多くの恩恵を受けてきました。それを受け止めつつ、米国の中で起きているひずみから生まれている悲鳴に、優しく耳を傾ける必要があるように思います。
詩篇33篇1–12節「正しい者たち、主にあって喜び歌え」
1節で「正しい者たち」「心の直ぐな人たち」と呼ばれるのは、主(ヤハウェ)にあって喜び歌い、賛美をささげる人のことです。私たちは、しばしば、自分が何らかの良い働きができること自体によって、神から評価され、受け入れてもらえるような気持ちになることがあります。
たしかに、この社会では、より大きな貢献ができた人が評価されますが、神の前ではそうとは限りません。それは、私たちの知性も体力も情熱も、すべてのものが創造主ご自身から与えられたものだからです。成功も神のみわざに他なりません。
初代教会の時代、コリントの教会では、互いが自分たちの霊的な賜物や霊性の高さを競い合っていました。そればかりか、指導者たちを自分たちの基準で評価し合い、使徒パウロの宣教によって教会が始まったのに、彼の教えを軽んじて、見せかけの霊性を追い求める傾向がありました。
それに対しパウロは、「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか」(Ⅰコリント4:7) と叱責しました。
人と人との関係でも、「恩知らず」は恥ずべきことです。まして、万物の創造主の前で「恩知らず」になることこそが、主を最も悲しませることであることを忘れてはなりません。全身全霊で主に感謝し、音楽を含めたあらゆる賜物を用いて主を賛美することこそが、主に喜ばれることなのです。
6節では、「主 (ヤハウェ) のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって」と歌われますが、「ことば」とは神の御子を、「いぶき」とは聖霊を示唆します。
しばしば、この箇所は、創世記1章と並んで、天地創造のみわざが、御父、御子、御霊の三位一体の神のみわざであることを説明するために引用されます。
それはこの詩が、この地のすべてが創造主のご支配の中にあるということを歌っているということからも大切な視点と言えましょう。御子も聖霊も、創造主として描かれます。
10、11節では、人間の国々の「はかりごと」や「計画」が、主(ヤハウェ)の「はかりごと」や「計画」と対比されます。私たちはすべてに先立って、主のみこころを慕い求める必要があります。そうでなければ私たちの計画はむなしく終わってしまうからです。
ただし、その際、主のご計画の最終ゴールから目を離してはなりません。それは聖書全体からしたら、明らかに、この世界が神の平和(シャローム)で満たされることです (イザヤ11:1–10、65:17–25、ミカ4:1–5等)。
残念ながら、今も、自分の理想を神のみこころと混同し、正義のための「戦い」を繰り広げる人が後を絶たないからです。
平和(シャローム)は全世界の民が、イスラエルの神、ヤハウェを礼拝し、そのご支配に服するようになったときに実現します。
「幸いなことよ……神が、ご自分のものとしてお選びになった、その民は」(12節) とあるのは、当時は肉のイスラエルを指していましたが、イエスの十字架と復活以降は、そこに異邦人も加えられた霊のイスラエルを指しています。
すべてのクリスチャンは、神によって選ばれた者ですが、そこには使命が伴います。それは、世界の人々を主(ヤハウェ)を礼拝する民へと招くことです。
そのためには、今、私たち自身がまごころから三位一体の創造主を賛美することが必要です。
【祈り】主よ、私たちがあなたに向けて創造されていることを感謝します。御霊に導かれ、御子の名によって、父なる神を喜び歌うことができますように。