詩篇32篇〜世界の金融市場の混乱——良心の機能

 米国の保護主義的な貿易政策が本格的に発動しつつあり、世界の金融市場でも混乱が広がっています。米国を含めた世界の株価が下がり始めています。上がっているのは金価格のみという残念な状況です。

 以下は、8年前の2017年の第一次トランプ政権の誕生の頃に発行された拙著「聖書から見る、お金と教会、社会」第一章「お金は流れ先を求めている―経済学と聖書の関係」に記していたことですが、8年前より今はユーロ経済圏との問題が深刻になっています。一方、8年前に比べ、中国も日本も急速に力を落としていう現実があります。以下に中心点のみ記させていただきます。

 「米国に生まれたトランプ政権は、自国の古く貧しい工場地域を守るためという理由で、中国や日本との関係における巨大な貿易赤字を問題にしています。
 しかし、経済学理論(IS《投資、貯蓄》バランス)では、輸出と輸入の差額の純輸出は、一国の貯蓄から投資を差し引いた額に等しくなります。その際、政府の財政赤字は貯蓄吸収要因として含まれ、純輸出は対外純投資に等しくなります。これを米国経済に単純化して適用すると、米国の貿易赤字は、競争力不足とか他国との貿易で損をしているという以前に、世界のお金が米国に流入し続け、それが国内の過剰消費による貯蓄額の不足を補い、経済活動が盛んであり続けられることの結果とも言えます……
 米国は伝統的に、財政赤字と貿易赤字という双子の赤字が巨額になっていますが、それは海外からのお金が米国に流入し続ける結果、身の丈以上のお金を国内で使うことができるという恵みとも理解できます。
 しかも、米国の国債の最大の購入者は中国と日本です。米国の社会保障費は両国からのお金で支えられている部分があるのです。米国の一部の労働者を守るための政策で貿易赤字が減少するなら、それと並行して、米国への資本の流れが減少します(IS理論により、純輸出の増加は純貯蓄の増加と等しく、その分、国外からのお金の必要が減少)。
 しかも、そのような一部の産業に配慮した政策は、自由を第一とする米国の魅力を失わせ、お金の流れをさらに減少させることにつながりかねません。
 米国が貿易赤字を続けられるのは、世界のお金が米国に吸い寄せられることの結果に過ぎないのです。米国共和党の重鎮は、そのような常識は十分に理解し、自由貿易を推進するとは思われますが、近視眼的な労働者対策のために、お金の生きた流れを軽視する政治指導者の問題を感じさせられます。
 しかし、これもお金の流れが政治を変えてくれることでしょう。


 今の現実は、トランプ大統領の権威が第一次政権のときよりも格段に強くなっていますが、国際金融市場の動きが、政策を変えるプレッシャーとして機能することを願うばかりです。

 以下は詩篇32篇の要約ですが、お金の動きと、個々人の良心は切り離せない関係にあります。市場経済は、まさに個々人の価値観や経済事情が全世界的なレベルで現わされる場とも言えます。聖書的な価値観が市場経済を通して世界の歴史を動かすいうこともあり得るということを期待したいと思っています。

詩篇32篇1–11節「私のそむきの罪を、主に告白しよう」

 1、2節には罪に関する三つの類語が記されます。「そむき (ペシャー)」とは、支配者に対する反抗、「罪 (ハター)」とは、的を外すこと、「とが (アボン)」とは、ねじまげることですが、「とがめ」(5節) とも訳され、誤った行為への処罰の意味を含みます。
 この世界で罪人として裁かれながら、神の赦しを体験していることがあります。反対に、この世で「罪」でなくても、神の目に「罪」となることがあります。
 「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7) と記されているように、ダビデがウリヤの妻バテ・シェバを奪い、彼を計略にかけて死に至らしめた罪は、その後の家族の争いに見られるように、大きな影を落としました。それでもダビデは「その霊に欺きのない人」と見られています。
 パリサイ人は自分を義人であると自任することで罪あるものとされ、取税人は「こんな罪びとの私をあわれんでください」(ルカ18:13) と祈ることによって、神の前に義とされたということを忘れてはなりません。

 ところで、ダビデは、神の前に自分の罪を認めていなかったときの痛みを、「私の骨々は疲れ果て……骨髄は、夏のひでりでかわききった」(3,4節) と描写します。当時の地獄の苦しみは、炎の中で身体中の水分がすべてなくなってしまう状態で表されます。つまり、彼が味わった苦しみは、神の来るべきさばきを事前に心に知らされたものでした。
 私たちの心の中には、神の怒りを感じさせる受信機のような機能があり、それは「良心の呵責」と呼ばれます。良心は英語で conscience と記され、それはラテン語に由来することばです。それは語源的には「共に (con) 知る (science)」ことを意味し、自分の中のもう一人の自分、または神の声が自分を非難しているような状態を指します。
 そして、何よりも注意しなければならないのは「良心」が「麻痺」してしまうことです。

 ダビデは、5節で自分から罪を告白したかのように記していますが、彼の告白は、神が預言者ナタンを遣わした後でした。
 アダム以来の「神のようになった」人間は、罪を素直に認められない現実があるからです。イエスの十字架は、神の側から罪人との和解を望まれたことの現われです (Ⅱコリント5:20)。
 主はご自身の側からダビデとの交わりを回復したいと思われ、預言者ナタンを遣わしました。しかも、ダビデがナタンの指摘を素直に受け入れることができたのは、彼自身が自分の罪を隠していることの苦しさに耐えられなくなっていたからでした。
 5節でダビデが主体的に自分の罪を告白できたかのように記される背景には、神ご自身の側から彼をあわれんでくださったことと、神が彼の心の中に良心の呵責という苦しみを与えられたことの両方が作用しています。

 6節で、「聖徒は……祈ります。あなたにお会いできる間に」と記されるのは、罪に居直り続けると、良心が麻痺してしまい、神にお会いする道を自分で閉じるからです。
 ダビデの誠実さは、叱られ、さばきを宣告されても、子供が父親のふところに飛び込むように、神から目をそむけず、神のふところに飛び込み続けたことに現されます。
 そして、罪の赦しを体験できた安心感と喜びが、「大水の濁流も……届きません……救いの歓声で、私を取り囲まれます」(6、7節) と劇的な表現で描かれます。


【祈り】主よ、どうか、私の罪を示し、それを告白できるように助けてください。あなたのあわれみのふところに、いつでも飛び込めますように