私たちは小さいときから、「より賢く、より強くなる」ための訓練を積んできました。しかし、人の価値はそのような基準ではかれるのでしょうか?
私自身もまた多くの人々も、心の底で何ともいえない自己不全感を感じ、「私は、何者なのでしょう?」というアイデンティティーの問題に悩んでいるように思えます。
ヴィクトール・フランクルはナチスドイツの強制収容所体験を通して、「生きることに内容、つまり理由がある人は、ほとんどどのような状態にも耐えることができる」(Hat man sein Warum? des Lebens、 so verträgt man sich fast mit jedem Wie?)「偶像の黄昏(箴言と矢:12)というニーチェのことばが真実であることを悟ったと記しています。それは、苦難に満ちた人生を生きるために何よりも必要な知恵は、「何のために生きるのか?」を知ることにあるということです。
しかもそれは、「生きる意味があるのか?」と問う代わりに、「人生は私に何を期待しているか?」という「人生の問い」に、日々の生活で答えることから与えられると言われます。
それはこの詩での「人とは、何者なのでしょう」という問いと不可分の関係にあります。
1.「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました」
この詩篇にはダビデによって記されました。「万軍の主 (ヤハウェ) 」は彼に、「わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場から取り、わが民イスラエルの君主とした」(Ⅰ歴代誌17:7) と言われたばかりか、ダビデ王家は永遠に続くと約束されました。
それを聞いたダビデは、「神、主 (ヤハウェ) よ。私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで私を導いてくださったとは。神よ。このことが御目には小さなことでしたのに、あなたはこのしもべの家について、はるか先のことまで告げてくださいました。神、主 (ヤハウェ) よ。あなたは私を、すぐれた者として見てくださいます」(Ⅰ歴代誌17:16、17) という感謝の祈りをささげました。
これこそ、詩篇8篇が記された背景です。そしてこれは、ダビデばかりか、イエスを自分の救い主として信じるすべての人にとっての、かけがえのない告白となっています。それは、今、神が、キリストのうちにある私たち一人ひとりを、何と、ダビデのように「すぐれた者」として見ておられるからです。
ダビデは、まず、「主 (ヤハウェ) よ」と、神のお名前を呼びかけます。それは神が、すべてに先立つ方であることを示します。
多くの人々は「自分にとっての必要」から始まって神を求めます。私もそうでした。ただ、そうすると、「祈りがかなえられた。確かに神はおられる!」と感謝できるかと思えば、そのうち、「あれは単に偶然が重なっただけ……この私が頑張ったから……」などと思ってしまいます。
すると反対に、期待はずれのことが起こると、「神を信じようと信じまいと、人生に大差はない……」などと思うことになりかねません。そればかりか、そこには本当の意味での「生きる目的」も生まれません。
しかし、聖書は、「初めに神が天と地を創造された」という宣言から始まります。つまり、何よりも先に私たちは、「神がおられるから世界が存在し、私が存在し、私が神を知ることができる」と、考えるように求められているのです。
そして、その創造主である神を、「私たちの主 (アドナイ) よ」と呼びかけます。これは、奴隷が主人に向って使う表現です。もちろん、神は、私たちを奴隷のように扱いはしませんが、私たちの御用聞きのような方として存在しているのではなく、私たちに自分の命を賭けてでも成し遂げる任務を与えることができる絶対者としておられるという告白です。
多くの人は、何のために生きているのかが分らないという倦怠感の中にいますが、神はそれぞれに、命をかけるに価する真の生き甲斐を与えてくださいます。
創造主の「ヤハウェ」という名に込められた、「わたしはある」と言われる方の「御名」の意味は、「全地で、威厳に満ちた」ものとして既に証しされています。ですから、霊の目が開かれた人は、「世界は何と不思議に満ちていることか!」と感謝できるようになります。
そして、その方の「ご威光は、天を越えたところに輝いています」(1節) とは、天の下に住む者には、天の上に輝く神の栄光は見られないという現実を指していると思われます。
後に預言者イザヤは、「主は地をおおう天蓋の上に住む方。地の住民はばった(いなご)のようだ。主は、天を薄絹のように延べ広げ……」(イザヤ40:22) と表現しました。いなごが人の心を理解できないのと同じように、人は「天蓋の上に住まわれる」神のことを知ることはできません。
ただひとつの道は、創造主ご自身が私たちのレベルにまで降りてきてご自身のことを知らせてくださることです。
ただ、この地の多くの人にはその語りかけを聴く耳を持っていません。彼らは自分の目、自分の知恵、自分の力に頼って生きることばかりを考えているからです。
そのような中で、「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました」(2節) とは、この世の無力な者こそが神のみわざを理解できるという現実を指します。
イエスが神殿で目の見えない人や足の不自由な人を癒されたのを見た子どもたちは、それに心から感動し、「ダビデの子にホサナ!」と賛美しましたが、宗教指導者たちは、聖なる宮の中で神以外の方が賛美されるのは許せないという意味で腹を立て、イエスに「子どもたちが何と言っているのか、聞いていますか」と抗議しました (マタイ21:15、16)。
そのときイエスは、このみことばを引用しながら、「『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのをあなた方は読んだことがないのですか」(同21:16) と言われ、ご自身と神に「刃向かう者を沈黙させ」たと描かれています。
このように神は、この世の取るに足りない者をご自身の働きに用いられることによって、自分の力を誇っている「敵と仇と」を恥じ入らせ、「動けなくさせ」られるのです。
子どもは不思議に、どのような環境の中でも、自分の楽しみを作り出す創造力を持っています。大人から見たら、「こんなこと、何が楽しいのだろう……」と思えることも、飽きもせずに続けられます。
大きくなるに従い人は自分が成し遂げたことに誇りと喜びを見出そうとしますが、子どもは今ここで、与えられた環境の中で喜びを見出すことができます。まさにこの世の無力な者こそが、神のみわざを理解する能力をより豊かに持っているとも言えます。
子どもは、自分の頼りなさを無意識のうちに知っていますが、それこそがどこでも喜びを発見しようとする力やまた遊びを生み出す力になっているのではないでしょうか。
神は今も、「私は賢い……私には力がある……」と思っている人々からご自身を隠されます。私たちも、自分の知恵や力を証明しようと必死になることでかえって本当の神の姿を見失うことがあるかも知れません。
ただ、力を抜いて、神がお造りになられた世界の美しさを鑑賞し、自分の無力さを正直に認めながら、創造主である神に向かって祈ることの中でこそ、神はご自身を表わしてくださいます。
2.「あなたの指のわざである天を仰ぎ見……」
3節の「あなたの指のわざである天を仰ぎ見、あなたが配置された月や星を見ますのに……」とは、街灯のない暗い所で夜空を見上げるとき直感的に感じられる驚きです。
夏の夜空に輝く美しい天の川は、私たちが銀河系の中心を見ているものですが、この地球がある太陽系は、銀河の端の方にあり、この銀河の広さは一秒間に地球を七回半回る光の速度で10万年もかかるほどの直径があります。
このような銀河が数多く集まって銀河団が作られますが、それも数億光年の広がりを持つ超銀河の一部に過ぎません。2023年には、この地球から何と131.4億光年も離れた原始銀河団を日本とスペインの研究者が捉えることに成功したと報じられました。
それらすべてが、神の「指のわざ」に過ぎないというのです。
そのような大宇宙に思いを巡らすとき、「人とは何者なのでしょう。人の子とは何者なのでしょう」(4節) と問いたくなります。その広さから人を見ると、蟻よりもはるかに小さく、吹けば飛ぶようなひ弱な存在に過ぎないからです。
17世紀のフランスの科学者パスカルはそのことを、「人間はひとくきの葦に過ぎない。自然の中で最も弱いものである。だがそれは考える葦である」と言いました。それは、人は、宇宙の巨大さと自分の頼りなさを「知ることができる」からこそ「尊い」という意味です。
多くの人々は、自分に助けが必要だと思えば思うほど、「私は愛されるに値する存在です……」とアピールしたくなります。しかし、そこから人と人との比較や競争が始まります。
ところがパスカルは、自分の絶対的な頼りなさと真正面から向き合うことこそ、人間の尊厳である「考えること」の本質だと言ったのです。私は自分の弱さを恥じて生きてきました。しかし、この教えは、私に自分の弱さと正面から向き合う勇気を与えてくれました。
そして、神はその小さな一人ひとりを「御心に留め」、ご自身の心の中にいつも「覚えて」(原語直訳)いてくださいます。そればかりか、神は一人ひとりを「顧みて(気にかけて)」くださるというのです。
ダビデは自分がイスラエルの王として選ばれた理由が、自分の能力や信仰が評価されたとは思っていませんでした。ただ、神が一方的に自分に目を留め、覚え、守り、引き上げてくださったと感謝していました。
私は長らく、自分の信仰の弱さに後ろめたさを感じてきましたが、信仰とは、自分の側から始まったものではなく、私の創造主が私を「御心に留め」、また「顧みて(気にかけて)」くださったことから始まっていたということに気づかされました。これは「注目の奇跡」と呼ばれます。
信仰の足りなさを嘆く前に、「たとえ不十分であっても、こんな私が信じられている!」という現実をこそ感謝すべきでしょう。なぜなら、それこそ、あなたが神から一方的に愛され、「神の子」とされているしるしだからです。
実は、私が自分の不信仰に悩んでいるとき、そこには、神に心の目を向ける代わりに、自分の感覚を疑うという神経症的な空回りが起こっていたように思えます。しかし、この詩篇が評価し、またイエスご自身も喜ばれた「幼子や乳飲み子の信仰」とは、その「信仰深さ」の程度を測ることができるようなものではありませんでした。単に、自分で自分の問題を解決することができないからと、ただ助けを求めて叫ぶことに他なりませんでした。
3.「あなたは、彼を、神よりいくらか劣るものとされて……」
5節は、「あなたは、彼を、神よりわずかに低いものされ」と訳されますが、新改訳2017年版では「あなたは、人を御使いよりも欠けがあるものとし」と訳されています。「神」と訳されることばは「御使い」とも訳すことができ、ギリシア語七十人訳もヘブル書での引用でも「御使い」と訳されているので大きな違いはありません。
ただ、人がすべて「神のかたち」に創造されという意味を現すには、「神よりわずかに低いものとされて」という訳の方が良いように思います(新改訳第三版、聖書協会共同訳も同じ)。
そして「神のかたちとして創造された」(創世記1:27) ことには「神との対話によって世界を治める」という意味が込められています。
しか、最初の人間アダムは、神のかたちに創造されたことに満足する代わりに、「神のようになって善悪を知る者となる」(創世記3:5) ことを求めました。つまり、神の代わりに自分を善悪の基準に置き、神の競争者になろうとしたのです。その結果、人と人との争いや環境破壊という世界の悲劇が始まりました。
それに続く、「栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいます」という表現は、私たちに保証された将来的な約束と解釈することができます。
その前に、「人 (アダム) の子とは、何者なのでしょう」と告白されていましたが、私たちはキリストあってアダムが失った祝福を再び受けるものとされたと言えます。
さらに、「あなたは御手のわざの数々を彼に治めさせようと」(6節) とは、神が人を創造された本来の目的を現しています。しかし、人が神に逆らい、自分を神のようにして以来、人は反対に神が創造された世界を破壊する元凶になってしまいました。
ただし、神は創造の秩序として、既にすべてのものを「彼の足の下」に置いておられるというのです。それは、「羊も牛も、また野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うもの」(7節) すべてに及ぶことです。そこに「神のかたち」に創造された者としての責任が生まれます。
人は自然の一部であるという汎神論的な見方が日本で流行っていますが、そこには人間としての誇りと責任を忘れさせる危険がないでしょうか。
たとえば地球温暖化の問題はまさに世界を混乱に陥れるほどの危機的なレベルに達しています。その解決として、経済活動を縮小し、自然の中に生きるような生活に帰るべきだという意見もあります。しかし残念な現実としては、世界経済の持続的な成長自体を否定してしまえば、失業者が巷にあふれることになります。昔から、失業問題は、戦争の最も大きな原因だったようにも思えます。
実際、今も、あまり報道はされませんが、アフリカなどにある貧しい国ほど内戦で国土を荒廃させ、それこそ砂漠が広がることの最大の原因となっています。どちらにしても私たちは傍観者になることは許されません。一人ひとりがこの世界の環境保全と平和に対して責任を自覚する必要があります。そして、そこには私たちひとりひとりの誇りに満ちた固有の使命が生まれます。
それにしても、動物の世界にも広がる弱肉強食の争いは、アダムの罪によって起こったことで、本来の神の意図ではありませんでした。しかし、私たちが「栄光と誉れの冠を受ける」とき、この世界には、「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し……雌牛と熊は草をはみ……獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ」(イザヤ11:6–8) という神の平和(シャローム)が実現します。
そして、預言者たちはこのような世界をもたらすために「救い主」が来られると預言していました。イザヤ11章は「エッサイの根株から新芽が生え、その枝から若枝が出て実を結ぶ。その上に主 (ヤハウェ) の霊がとどまる」というクリスマス預言から始まります。つまり、救い主の「現れ」は、神の平和(シャローム)が実現する保障なのです。
私たちは、この世界がそのような神の平和に満たされることを待ち望みながら、今、置かれている場で、「神のかたち」に創造された者としての責任を一歩一歩果たしてゆくように召されているのです。
4.キリストの足跡に従う
ところで、この5節の「あなたは彼(新改訳2017「人」)を、神よりわずかに低いものとされて」の、「彼」の部分を、ヘブル人への手紙2章9節では、人となられた神、イエスを当てはめて解釈しています。
最初のアダムは、「神よりわずかに低いものとされた」ことに満足せず、自分を神のように高くしようとして世界の悲惨の原因となりました。しかし、第二のアダムであるキリストは、父なる神とともに世界を創造された神でありながら、敢えてご自分を低くされ、すべての人の罪を負うための十字架の死の苦しみまで味わうところまでご自分を低くされました。
そして父なる神は、このキリストを死人の中からよみがえらせ、私たちの初穂として「栄光と誉れの冠をかぶらせて」くださいました。そして今、神の右の座に置かれ、すべてのものをご自身の「足の下に置かれ」、「王の王、主の主」として「御手のわざを……治めて」おられます。
そのことがキリストの復活を描いたコリント人への手紙第一15章25–28節で描かれ、その27節では「神は万物をその方 (キリスト) の足の下に従わせたのです」と記されています。
そして、私たちもキリストの姿に倣って自分を低くすることで、「キリストとともに世界を治める」(黙示3:21、5:10、20:5) という使命を一歩一歩、この地にいるときから果たし始めることができるのです。
私は、劣等感や人との比較意識から自由になりたいと願い続けてきましたが、実は、心の奥底では、劣等感を超越するほどに高くされることを求めていたように思います。そのため、私はなかなか休むことができず、自分を駆り立てるようにしながら生きてきました。
しかし、人を超えることで劣等感から解放されるというのは幻想に過ぎません。どこまで行っても上には上がいるばかりか、上がったら上がったで、その地位を失うことを恐れるようになるからです。
しかし、イエス・キリストの生き方に思いを巡らせば巡らすほど、こんな私でも、努力すべき方向が変えられ、愚かなプライドから自由にされてきているような気がします。そこには比較意識を超えた自由、このままの自分が神に愛され、生かされているという喜びが生まれます。
創造主であるキリストが人となられたのは、私たちをご自身の「栄光と誉れ」にあずからせるためでした。また、この方が人々の侮辱に耐えられたのは、私たちが不滅のいのちを受け継ぐことができるためでした。
そして、イエスは今、一人ひとりを「その足跡に従うようにと」招いておられるのです (Ⅰペテロ2:21)。
神は、取るに足りない者を高く引き上げてくださるということこそ、ダビデの感動でした。そして、ダビデは神の忠実なしもべとして国を治めました。
私たちも同じように神によって選ばれ、神が委ねてくださる働きにつくように召されています。私たち一人ひとりに、神の代理としてこの地を治める崇高な責任がゆだねられています。それは創造の秩序として既に始まっている責任であり、来るべき世界で、喜びに満ちた働きとして完成される責任でもあります。イエスはその点で、私たちの初穂、模範であられます。
そればかりか、イエスは今、私たちのうちに住まわれて、この地を治めるという働きを全うさせてくださるのです。人は劣等感に動かされて生きているとき、人に勝つこと自体が目的となり、使命がなおざりにされます。
しかし、創造主の視点から自分を見るとき、人との比較を超えた、真の生き甲斐が生まれます。しかも、そこには真のいのちの喜び、「神のかたちとして創造された」者としての真の「誇り」が生まれます。
そして、そのとき、あなたのまわりの世界に「神の平和 (シャローム)」が広がってゆくことになるのです。
最後にダビデは、「主 (ヤハウェ) よ。私たちの主(アドナイ:主人)よ。御名は全地にわたり、なんと威厳に満ちていることでしょう」(9節) と、この詩の最初のことばを繰り返します。自分の存在を喜ぶことが、創造主への賛美へとつながっています。
そして、この賛美の中に、私たちの自由と喜びがあります。私たちの人生は、幼子としての賛美から始まり、キリストに似た者としての賛美に終わるのです。
多くの人は、人との競争に勝つことで心の安定を得ようとしますが、そこには無限の比較地獄が生まれるだけです。真のアイデンティティーは、「生かされている目的」、つまり「使命感」と切り離せない関係にあります。神が私たちを神のかたちに創造されたのは、ご自身の御手のわざを私たちに治めさせるためだったからです。
なお、多くの人々が「使命感」を見出すことができないと嘆きますが、「使命」自身があなたを探しているということを忘れてはなりません。私たちの目の前には日々、様々な課題が山積しています。そのひとつひとつに誠実に向き合うところから、結果的に使命感は生まれるものです。
キリスト者とは、ご自分を低くされたイエスの生き方に習いたいと願う者です。そこに御霊のみわざが表わされています。そのとき「幼子や乳飲み子たちの口によって、力を打ち建て」られる神が、私たちを通して、ご自身の栄光を表わしてくださるのです。
強がりを捨て、幼子のように主にすがりましょう。ただし、私たちは幼子のままでいてもいけません。使命感に生きるということでは大人とならなければなりません。
私たちは人に仕えるという謙遜な生き方を通してこの社会に「地の塩、世の光」として影響力を発揮するように召されています。子どもの心を大切にしつつ大人として生きるように召されているのです。