詩篇30篇〜統一教会問題

 昨日3月25日、東京地裁から旧統一教会に対する解散命令が下されました。
 まだ高裁で審議される必要がありますが、何かこの問題に関しては、「異論を許さないような『時代の空気』が社会を支配している」ような気がして、心配になります。
 この問題が注目を集めるきっかけは、安倍元首相殺害が統一教会に恨みを抱く人によってなされたということにあります。
 これではまさにその殺人犯の期待通りに社会が動いてしまったとも言えます。
 統一教会の問題は、四、五十年前から明らかであったのに、このような形で、今、それが多額献金問題、また宗教二世の問題ばかりに注目があつまる形で報じられるのは残念に思います。

 「信教の自由」の侵害に抵触しないようにと、どの報道機関も、彼らの教理に関して論じることを控えています。
 確かにその恐れも理解できますが、そのような多額の献金の問題が生まれる「教え」の矛盾も、もっと公になってもよいように思います。それは、どちらかと言うと、伝統的なキリスト教会の責任とも言えるように思います。
 
 彼らの教えの最大の問題は、「キリストの十字架が失敗であった」と言われていることです。(「幸福の科学」も同じことを言っています)
 正統的な教理では、キリストの十字架は、神が神に逆らう人との和解を生み出すための、神の圧倒的な愛の現れです。ですから、十字架は罪の赦し、神の愛のシンボルとなっています。
 そして、イエスは十字架で死に、復活することで、死の力を持つサタンを無力化し、イエスを救い主と信じる者に 永遠のいのちを与えてくださいました。
 
 聖書を使いながら、この根本的な聖書の教理をどのように否定できるのか不思議です。これは宗教論争以前に聖書をその文脈に沿って読むことができているか、「正しいか、間違っているか」と、論じることができることでもあります。
 実際、多くの元統一教会信者が、聖書自体の読み方が間違っていたことに気づくことで、正当な信仰に戻ることができています。

 しかも、統一教会の教えでは、神の民として選ばれた者が、神のために犠牲を払うことで、神を慰め、また今苦しみの中にある先祖のたましいを救うことができるという話しがなされます。
 社会全体を少しでも良くするために、必要ならば自己犠牲を厭わないという姿勢ではなく、自分が犠牲を払うこと自体によって、ご先祖様が救われ、家族も救われるという教えです。それで自分を犠牲にする多額の献金が正当化されます。

 その背後には、神が根本的には無力な方であり、人間の犠牲を求めているという考えた方があるように思います。
 いろんな解釈があると思いますが、とにかく、多額の献金要請が正当化されるような不思議な教え自体に目が向けられるのでなければ、この事件を通して、ふたたび、どの宗教も結局、金が目当てなんだという誤解が生まれかねません。

 詩篇30篇では、全能の、あわれみに満ちた神が、私たちの「いのち」が神の「恩寵のうちにある」と宣言されています。
 聖書の神は、私たちの「永遠の安心」を与えようとしておられる方です。

詩篇30篇1–12節「いのちは恩寵のうちにある」

 この詩は、主の「家」である神殿奉献の歌です。ダビデは神殿建設を後継者に委ねましたが、その準備には万全を期していたからです。
 彼は1–3節で、自分の個人的な体験を繰り返しながら、それが会衆全体の信仰告白につながるように願っています。
 そのことが「聖徒たちよ。主 (ヤハウェ) をほめ歌え」(4節) という呼びかけにつながります。

 5節は、「御怒りはつかの間」なのに対して、「恩寵のうちに一生がある」と訳すことができます。
 振り返ってみると、神の御怒りを受けて苦しんだと思われる記憶があっても、それを一生涯という期間から見直すと、すべて神の恩寵のうちにあったと思えるようになっています。
 それが、夕暮れの涙と朝明けの喜びの叫びにつながります。

 そして7節では再び、「ご恩寵のうちに」と繰り返され、その中で、「私の山」と呼ばれる「安心の基盤」を「強く立たせてくださいました」と感謝しています。
 それと対照的に、主が「御顔を隠され」ると、自分がおじ惑うしかないと告白します。

 10、11節の「聞いてください……あわれんでください」という祈りと、「嘆きを踊りに変えてくださいました」という感謝の告白を見ると、ダビデが今も苦難の中にあるのか、平安の中にあるかが分からないように思われがちです。
 しかし、ヘブル語の動詞には英語のような明確な時制の区別はなく、起こっていることを内側から見るか、外側から全体として見るかという観点の違いがあるだけとも言われます。
 つまり、「嘆きを踊りに……荒布を解き、喜びを私に着せ」というご恩寵は、「私をあわれんでください」という叫びと同時並行的に進んでいるとも言えましょう。
 私たちも自分の人生を振り返ると、主への叫びと、主への感謝は、同時並行的に進み、全体を振り返ると、「恩寵のうちに」私の生涯は守られていたと告白できるのではないでしょうか。
 なぜなら、「何でこんな目に……」と悲劇も、すべて神の愛の御手の中で益に変えられているからです。


【祈り】主よ、私の生涯のいのちが、ご恩寵のうちにあることを感謝します。一時的に涙が宿るときがあっても、あなたの真実な導きを信じられるように助けてください。