ローマ人への手紙12章14〜21節「善をもって悪に打ち勝ちなさい」

2025年3月23日

ローマ人への手紙12章14–21 私訳

人間関係の悩みは、意外に身近な大切な人との関係から生まれます。使徒パウロが、「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい」と言ったとき、彼にとっての「迫害する者」とは、同胞のユダヤ人でした。

彼は同胞の救いのためには自分が「のろわれた者となる」(9:3) ことさえ厭いませんでしたが、皮肉にも、彼らから死に至るほどに厳しい迫害を受けました。しかも彼が語った「奥義」には、異邦人とイスラエルのすべての「救い」が含まれていました (11:25、26)。

ときに私たちは余りに自分の損得勘定という狭い世界の観点から、自分の迫害者のことを見てはいないでしょうか。神が私たちを救いに導いたのは、隣人を畏怖させるためではなく、隣人に「神の愛」を分かち合わせるためです。

「悪に負けてはいけません(悪に打ち負かされてはなりません)。善をもって悪に打ち勝ちなさい」という勧めは、私たちが身近な人との関係に悩む中で、神の救いの御計画の全体像に目を向けさせ、神の視点から隣人を見る余裕を与えることばです。

1.「祝福しなさい、あなたがたを迫害する者を。祝福しなさい。呪ってはいけません」

12章9–13節では、「愛は偽りがない(偽善がない)ものです。悪を憎み、善に結びつき(親しみ)、兄弟愛において互いに慈しみ、互いへの尊敬において競争し合い(互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい)、熱心さに怠けることなく、霊に燃え、主に仕え、望みにおいて喜び、苦難に耐え、祈りに専念し、 聖徒たちの必要に参加し合い(コイノネオー)、旅人のもてなしに努めながら」と記されていました。

そこではアガペーの「愛」に一番近い日本語は「尊敬」であり、尊敬競争をすることが愛の交わりを築く上で何よりも大切なこと、また13節の最後の「もてなし」は、見知らぬ旅人にまで及ぶ行為でした。

その文脈の中で、自分の「敵」をも「愛する」ことの勧めが、12章14節では次のように記されています。

祝福しなさい、あなたがたを迫害する者を。祝福しなさい。呪ってはいけません。

原文では「祝福しなさい」との同じことばが繰り返され、その反対のことばを用いて「呪ってはいけません」と言い換えられます。

その背後にはイエスが山上の説教で当時のパリサイ人たちの律法の解釈を正したことがあります。イエスは、「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43、44) と言われました。

ただし、「あなたの敵を憎め」とは旧約のどこにも登場しないことばで、詩篇139篇21節などに「主 (ヤハウェ) よ 私はあなたを憎む者たち憎むことをしないでいられましょうか」と記されているような、神の敵自分の敵として憎むことの勧めの一つの解釈に過ぎません。

神はかつてモーセに、約束の地に入った際に、「あなたはゲリジム山の上には祝福を、エバル山の上にはのろいを置かなければならない」と命じました (申命記11:29)。

そしてモーセは、イスラエルの民をエバル山に立たせ、十二回の「のろい」を宣告します (申命記27:13–26)。その初めは、偶像を作って安置する者への「のろい」でしたがそれに続いて、「自分の父や母を軽んじる者はのろわれる」「隣人の地境を移す者はのろわれる」「目の見えない人を道に迷わせる者はのろわれる」などと具体的なことが記されていました。

そこでは主のみ教えを守る者への「祝福」と、主のみおしえを守ろうとしない者への「のろい」がセットとして描かれていました。ですから、「あなたを迫害する」者は、「神の敵」となることで、のろい」を受けるのは極めて当然のことと思えますから、イエスが「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われたことこそが、律法に反するように思えたことは至極当然のことと言えましょう。

それでパウロは改めて、イエスの山上の説教の核心をここで改めて繰り返すことでユダヤ人の誤解を正したとも言えましょう。

12章15、16節は、14節を説明することばとも理解できます。それは、「喜んでいる者たちとともに喜びなさい、泣いてる者たちとともに泣きなさい。互いに対して同じことを思い、高ぶって思うことなく、かえって身分の低い人と交わり、自分を知恵ある者としてはいけません」と訳すことができます。

ここでの最初の二つの動詞は不定詞、続く三つの動詞は分詞、最後の「してはいけません」は主動詞になっています。

これは文脈からすると、教会内の交わりに関することよりも、自分を迫害する者たちを含めた、仲間でない人との関係を描いていると言えましょう。

そこで「迫害する者」を「祝福する」ということが具体的に、「喜んでいる者たちとともに喜びなさい。泣いている者たちとともに泣きなさい」ということを指すとも考えられます。

私たちはとっても親しくしている人の「喜び」を自分のことのように「喜ぶ」ことはできますが、自分の敵のような立場を取る人の「喜び」を自分のものとすることはとてつもない難しいことです。

そのようなまた、自分に意地悪をするような人が「泣いている」とき、「いい気味だ!」と思う傾向が多いかも知れませんが、そのような人の悲しみをともにすることが求められているのです。

この不定詞の組み合わせは合言葉のような意味を持つという解釈もあります。それは「愛は偽りがないものです」(12:9) を説明するものとも言えましょう。

さらに「互いに対して同じことを思い」とは、目の前の人の思いに徹底的に共感する姿勢で、批判とは対照的です。また続けて同じ「思う」ということばを用いて「高ぶって思うことなく」と言われます。これも自分に批判的な人に対して、その人の気持ちになるような姿勢を指します。

また続く「かえって身分の低い人と交わり」とは、当時の身分制社会を前提にしたことばです。私たちも有名な人の友人となることを喜ぶ傾向がありますが、それと正反対に、人から無視されるような人見下す代わりに、その方の思いを自分の思いとするような気持ちです。

最後に「自分を知恵ある者としてはいけません」における動詞は、英語の become(なる)に否定形がついたものです。基本的に私たちは自分を「知恵ある者」と「したい」のが人情です。ですから、自分に敵対する者がいるとき、その人を心の中で軽蔑することで自分の心を安定させようとします。

それに対して、まずすべての人を祝福する姿勢を取るようにここでは命じられているのです。

2.「自分で復讐することなく、愛する人たち、御怒りに場所を空けなさい」

12章17–19節は次のように記されています。

だれに対しても悪に悪を報いることなく、すべての人にとって善いと思えることを思い巡らし、もし可能なら、自分のことに関しては、すべての人との平和を保ちなさい(分詞「保つことをしながら」)。自分で復讐することなく、愛する人たち、御怒りに場所を空けなさい。それはこう書かれているからです。「復讐はわたしのもの、このわたしが報いをする」と、主は言われる。

最初の、「だれに対しても悪に悪を報いることなく」は、四番目の分詞の「自分で復讐することなく」に対応し、また二番目の「すべての人にとって善いことを思い巡らし」は、三番目の「すべての人と平和を保ちながら」という分詞に対応します。

そしてそれらをまとめるように「御怒りに場所を空けなさい」という主動詞が登場します。そして、それが「復讐はわたしのもの、このわたしが報いをする」という創造主の主権にことばに繋がります。

つまり、14節からの「祝福しなさい、あなたがたを迫害する者を。祝福しなさい。呪ってはいけません」という、私たちの自然に生まれる気持ちに反する命令の根拠は、神の公平なさばきへの信頼から生まれることばなのです。

日本の古くからの時代劇で、水戸黄門、大岡さばきなどは、この世の悪人をさばく権威があることへの「憧れ」が描かれています。そのような地上の権力者を登場させなくても、「王の王、主の主」である方が、時が来たら公平なさばきを実現してくださるという、神への信頼がすべての前提にあります。

また、日本の時代劇に、「必殺仕置き人」とかがありますが、これは権力者に期待できない時に、民間の復讐業者にさばきをつけてもらうという期待ですが、そこから国を分断させる暴力集団が是認されることになります。いわゆるテロリスト集団とは、その働きを担う民間組織と言えましょう。

しかし、それらすべての背後には、「神のご支配」を当てにはできないという、神の御支配への不信があります。

引用されたことばは、申命記32章35節の「復讐と報復(報い)はわたしのもの」ですが、その後半の「報復(報い)」の原語はシャレムで、シャローム(平和)を生み出すための「報い」で、そこでは悪に対するさばきと同時に、報われなかった善行への「報いも含まれます。

ですからそこでは「彼らのわざわいの日は近く、来たるべき時が速やかに来る」に続き、「主 (ヤハウェ) は御民をかばい、主のしもべらをあわれまれる」という約束があります。

私たちが、自分の手で「復讐」を果たしたいと思うのは、神の御支配が見えないからとも言えますが、神の「さばき」には必ず、主に信頼する者たちを「かばい」「あわれむ」という神の救いのみわざがセットになっています。主の「報復(報い)」は、神の民にとっての「救い」のときを指すのです。

そのような神の民へのあわれみと顧みが期待できるからこそ、私は心の余裕を持って、「悪に悪を報いることなく、すべての人にとって善いと思えることを思い巡らす」ことができるのです。

また18節では、私たちの現実に配慮するように、もし可能なら、自分のことに関しては、すべての人との平和を保ちなさい」と命じられています。これは、現実には、私たちに争いを仕掛けようとする人に対しては、自分から和解の手を差し伸べても、それがこちらの弱さと見られて、別の攻撃を引き出すきっかけになるからです。「もし可能なら」とは、そのような現実があることを示唆しています。

実際には、「すべての人との平和を保つ」ことよりも、自分に敵意を抱く人とは適度な距離を保ち、接触しないことが最善と思えることもあるからです。

また、新改訳での「神の怒りにゆだねなさい」という原語の直訳は、「御怒りに場所を空けなさい」と記されています。これは、私たちが自分の隣人の「悪に対して悪を返す」という行為を先にすることで、神が私たちのために何かをする必要が無くなるからです。

私たちは神のさばきを信じられない結果として、神の御怒りが現わされる場所を自分で埋めてしまうということをします。それは神の主権を侵害することです。

ルカの福音書23章34節には イエスの十字架の場面で、主がご自分を十字架にかけたユダヤ人たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのです」と祈られたと描かれています。それは本当に感動的です。

ただその少し前には、イエスは生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木にはいったい何が起こるでしょうか」(同23:32) と言われたとも記されます。そこでイエスはご自身を「生木」、宗教指導者を「枯れ木」と呼んで、彼らに対する神の厳しいさばきを知らせておられたのです。

これはまるで、私たちの敵に対する神の厳しい裁きをイメージした上で、「主よ、そこまで厳しく裁いてくださらなくても結構です」と、情状酌量をお願いするという趣旨にも似ていましょう。

多く人が、恨みの感情から自由になれないのは、神の公平なさばきを信じることができていないことの結果に過ぎないとも言えます。

神はアブラハムの召命の際に、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう」(創世記12:3) と言われました。私たちの敵が私たちを「のろう」ような意地悪をしてるとき、彼らは神のしもべである私たちを敵とすることで、神を敵としてしまっているのです。

これは先に「もし神が私たちの味方なら、だれが私たちに敵対するでしょう」(8:31) と記されたことの別の側面です。「仕返ししたい」と思うのは、「神が私たちの味方である」ことを納得できていないしるとも言えます。

3.「もし、あなたの敵が飢えているとするなら、その人に食べさせなさい」

12章20、21節は次のように訳すことができます。

もし、あなたの敵が飢えているとするなら、その人に食べさせなさい(口に入れて差し上げなさい)。もし渇いているとするなら、その人に飲ませなさい。それはそうすることによって、あなたは燃える炭火をその人の頭上に積むことになるからです。悪に打ち負かされてはなりません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい(悪を打ち負かしなさい)。

これは箴言25章21、22節からの引用ですが、そこでは「もし、あなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませなさい。なぜなら、あなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになり、主 (ヤハウェ) があなたに報いてくださるからだ」と記されています。

パウロの引用で「パン」とか「水」が省かれているのは、ギリシア語七十人訳でそう記されているからでしょう。また「燃える炭火」の後の「主があなたに報いてくださる」も省かれますが、直前で「わたしが報いをする」(12:19) と記されていました。

それは、「貧しい者に施しをするのは、主 (ヤハウェ) に貸すこと。主がその行いに報いてくださる」(箴言19:17) と記されるのと同じです。主の「報い」には不平等不公平を正してシャロームの状態を作る意味があります。

「燃える炭火を敵の頭上に積む」とは、敵を意外な形で「もてなす」ことで、彼らの気持ちに恥じらいの気持ちを起こさせ、これ以上の攻撃を止めさせるという意味があります。

Ⅱ列王記6章15–17節には、エリシャがアラムの軍隊に包囲されたとき、「火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」という記事があります。彼がアラムの兵士の目を見えなくするようにと願うと、主は彼らの目を見えなくさせ、彼らは知らないうちにサマリアの町の真ん中に導かれ、イスラエル軍に包囲されてるのに気づきます。

そのときエリシャはイスラエルの王に、アラムの軍を打ち殺す代わりに、「パンと水を与え、食べたり飲んだりさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい」と勧めました (同6:22)。その結果が、「それ以来、アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入しなかった」(同6:23) と描かれています。

ですから、「敵にパンと水を与える」ことで、「敵の頭上に燃える炭火を積み」、敵の心の中から攻撃の気持ちをなくするという話しは、イスラエルの民にとって馴染み深い物語でした。そしてそれこそが、「善をもって悪を打ち負かすという行為でした。

ときに、意地悪をする人の心の中には、それによって相手の心に敵対心と反撃を起こさせ、それをなお徹底的にたたき、屈服させたいという思いがあります。敵があえて復讐心を煽ろうとしているときに、その扇動に乗ることは「悪に打ち負かされる」ことです。

それに対し「善をもって悪を打ち負かす」とは、敵が思いもつかない愛のわざで応答することで、彼らを慌てさせ、恥じ入らせて、彼らの中にある攻撃心を萎えさせることを意味します。

相手の期待をはるかに超える「愛のわざ」が、争いを止めることができるのです。

ところでイエスは「自分の敵を愛しなさい」と言われましたが、これは「ある人を敵と思ってはいけない」という話でも、「敵を好きになりなさい」という勧めでもありません。

聖書が命じるアガペーの愛は、自分の好き嫌いの感情を超えて、相手の存在を「尊ぶという思いです。それが、「あなたの敵が飢えているとするなら、その人に食べさせなさい(口に入れて差し上げなさい)」という行為として命じられます。

これは感情的に好きになるという意味ではありません。「その人の顔も見たくない」と思える人が、飢え渇きを覚えるほどの困難の中に置かれているとき、私たちは自分の好き嫌いの感情を超え、その人に食べさせ、飲ませることは不可能ではありません。実際、給与をもらっている仕事であれば、好き嫌いの感情を超えてそれができます。

ですから、「敵を愛せよ」という命令を、神からのチャレンジに満ちた Mission Impossible(不可能な使命)と受け止めて、私たちの救い主であるイエスご自身から与えたミッションとして行うことができます。

出エジプト記23章5節には、「あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない」と命じられますが、「それを見過ごしにせず」という部分が以前の訳では、「それを起こしてやりたくなくても」と意訳されていましたが、その方がこの部分の趣旨が明らかになります。

「敵を憎い」と思うのは当然の感情であり、その人が困っているのを見たら、助けたくないと思うのが当然の人情です。しかしその気持ちをまず横に置いて、なすべきことを行うのが隣人愛の基本です。

もっと身近な例では、「顔を合わせたくない」と思える人がいたとしても、その人に出会ったら無視することなく、挨拶を交わすというのが、隣人愛の基本と言えます。そして、気持ちが通わない人でも、無視することなく挨拶を交わし、その人が困っているときに助けの手を差し伸べるとき、結果的に自分を憎んでいた人の心が柔らかくされ、和解が生まれるということがあります。

主ご自身が、「復讐はわたしのもの」と言っておられます。自分で復讐することは罪ですが、神に復讐を願うことは歓迎されます。

詩篇94篇1、2節には、復讐の神 主 (ヤハウェ) よ 復讐の神よ 光を放ってください。地をさばく方よ 立ち上がってください。高ぶる者に報復してください」という祈りが記されています。これはまさに逆説ですが、あなたの気持ちを正直に神に訴えた結果として、「敵を愛する」という行為を、聖霊が導いてくださいます。

自分の怒りの感情を内側に押し込めてしまうと、無意識の部分が、その憎しみの気持ちに振り回されてしまいます。自分の気持ちを正直に訴えた結果として、神から与えられた Mission Impossible(不可能な使命)にチャレンジする心が生まれてきます。その順番を忘れてはなりません。

それにしても、私たちに害を及ぼすような人に、怒りの感情を抱くのは人情です。そのようなときに役立つのが詩篇37篇です。

そこでは、「悪を行う者に対して熱くなるな(自分を燃やすな)」と勧められますが、それは自分の気持ちを抑えることではありません。「不正を行なう者」は「青草のように枯れる」ことが明確なので、その時を待つだけで良いという勧めなのです。

そこであなたに求められていることは、「主 (ヤハウェ) に信頼し、善を行なえ。地に住み、誠実(真実)を養え(守り育てよ)」(3節)という日々の生き方です。

しかもそこには、「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(4節) という力強い約束が伴っています。さらに「主はあなたの義を光のように輝かしてくださる」(6節) とは、あなたの正しい動機が認められるようになるという意味です。

さらに「主 (ヤハウェ) の前に静まり、忍んで主を待て。その道で栄え、悪意を遂げる人に対して熱くなるな(自分を燃やすな)。怒りを手放し、憤りを捨てよ。熱くなるな(自分を燃やすな)。それはただ悪への道だ」(7、8節) と勧められます。

そしてここでは、自分の正義を振りかざして戦わなかった者に対して、「しかし、柔和な者は地を受け継ぐ。また、豊かな平和 (シャローム) をおのれの喜びとする」(11節) という約束が宣言されます。

復讐心や怒りは人の心を暗くします。神はあなたの代わりに、復讐してくださる方だと心から納得できるようになることが隣人愛の動機です。

神の公平なさばきを信じるからこそ、敵を愛することができるのです。

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